■ ■ ■
先生は笑えないんだと思っていた。
ルミール村で出会ったあの夜、この背を預けて戦ったあの日から、誰よりも先生を間近で見てきた。俗世で生きてきたと言う割に喜怒哀楽のどれもが平淡で、それまで人付き合いのほとんどを父親に任せてきたのだと言う彼は、なるほどその通り、案山子の如き能面で平然と立って俺たちを指揮した。大樹の節の学級別対抗戦、誰が怪我を負っても顔色一つ変えなかった彼は、ルーヴェンクラッセの生徒の名前を完全に覚えるのにも十日は要したと思う。
しかし生徒に興味がないのかと思えば、フェリクスの訓練には迷惑がる素振りもなく付き合うし、アネットやメルセデスから渡された焼菓子もきっちり受け取って、食堂の端に座りもそもそと食べる。イングリットの個人的な相談にも乗り、料理が得意なドゥドゥーに捌いてほしいと釣った魚を渡す。個々人と親睦を深めようとする先生は先生なりに、俺たちに歩み寄ろうとしていたのだろう。表情がないから、そうと分かりにくいだけで。
「ディミトリ。あのね、勘違いかもしれないのだけど、先生、何だかちょっと悩んでいるみたい〜」
ある日、そう俺に耳打ちしてくれたのはメルセデスだった。俺もそう気の付く方ではないから、彼女にそう言われなければ気づきもしなかっただろう。いや、言われたところで分からない。先生の横顔は、出会った日から変化のないように思えた。
先生は口数が少なく、表情筋がほとんど凝り固まっている。笑顔なんて見たこともなければ、精々眉の形を変えるくらいでしか感情を表に出さない。これまでそうやって生きてきた人間なのだから、これからもきっとそうなのだろう。どこかでそう思っていた。
だからこそ驚いた。行方不明であったフレンの発見と救出、それが成されたとき、先生は確かに、微笑んだのだ。緩やかに上がった口角、自然と浮かんだものであることは誰が見てもそうと分かっただろうが、生憎その瞬間を目撃したのは俺だけだった。ドゥドゥーもメルセデスも、アネットも、発見されたフレン達に意識を向けていたから。
「……先生、その顔」
俺に指摘されて、先生は僅かに目を見開いた。「……笑っていたか?」と俺に向き直ったその顔は、いつもの先生であったけれど、俺はなぜだか、腹の底が静かに震えたような気持ちになる。ああ、この身体は、憎悪以外でも震えるのだ。俺はそれに、どうしてだか泣きたかった。
先生、俺は如何な戦場でも顔色一つ変えることのないお前を、人間ではないのかもしれないと思ったことすらあった。だから、お前が人間であることが、嬉しい。そんなこと、口には決してできないけれど。
リンハルトくんの言っていた通り、あれから程なくしてフレンちゃんとマヌエラ先生は発見された。どうやら彼女たちを拉致した犯人は、本当に、噂になっていた件の死神で、しかもその正体はイエリッツァ先生だったらしい。フレンちゃんは珍しい血とやらを持っていて、それを狙っての犯行だったそうだけれど、イエリッツァ先生が姿を消した以上、彼がその血を一体何に利用しようとしたのかははっきりとしなかった。
「まあ、それが明らかになったところで大っぴらにはしないだろうけどなあ」
「ああ。この話がガルグ=マク中に伝わっていることだけでも問題だろうに。教団もこればかりは後手に回ってしまったようだな」
クロードくんの言葉にローレンツくんが珍しく同意する。言葉尻だけ見れば、二人とも教団のやり方を肯定していないらしいことは確かだった。首を傾げるだけの私に、「俺たちみたいな学生にまでフレンが特別ですって知られちまうのはいかんだろ?」とクロードくんが補完してくれるので、私は曖昧に頷いた。情報が広まってしまえば再びフレンちゃんが危険に晒されることも考えられるということなのだろう。
「あ、だからフレンちゃん、ルーヴェンクラッセに編入することになったのかな?」
体調の回復を待ってからではあるらしいけれど、今後フレンちゃんはベレト先生の元で学ぶことになったらしい。そちらの方が安心だからと、セテス様からも直接頼まれたのだと聞いた。
「だろうな。ま、ベレト先生の傍なら安心だろうしなあ」
「実際、逃げ隠れるよりも一筋縄では行かぬ用心棒を傍に置くと言うのは理に適っているさ」
「うーん、そうだよねえ」
今回の事件が解決したことにより、張りつめていた空気が随分和らいだのも確かだ。死神と噂されていたものの正体がイエリッツァ先生であったこと、そして取り逃がしてしまったとはいえ、彼がもうガルグ=マクにはいないこと、私はこれに何よりも安堵したのだ。もう死神に怯える必要はないという事実は、私の精神を随分楽にさせた。
マヌエラ先生も怪我を負ったものの命に別状はないらしいし、ベレト先生はフレンちゃんと同時に、去年から姿を消していたという帝国貴族であるオックス家の息女、モニカさんという女生徒も救出したと言う。去年の冬、卒業を前に行方を眩ませてしまった彼女は、再びアドラークラッセに身を置くことが決まっていた。
教師の中に良からぬことを企んでいた人間が潜り込んでいたことも含め、解決に至らない問題は多々あるけれど、まずは人命が救われたことを喜ぶべきだ。とりあえずは一安心だね、そう言おうとした私に、けれどクロードくんが笑いながら首を傾げた。
「で、お嬢さんは何を悩んでいるんだ?」
「はい?」
緩やかに目を細めた彼は、腕を組んだまま席に座っている私を見下ろしている。名前を呼ばれて驚いたけれど、それよりも突然私に話題が移ったことを、私自身が飲み込めない。視界の端で、ローレンツくんが僅かに眉を顰めてクロードくんを見つめた後、私に視線を戻したのが分かった。
「いや、随分浮かない顔をしてるなあと思ってな?これは何か悩んでいるに違いない、と俺は思ったわけなんだが……どうだ?」
「浮かない顔? してる?」
思わず頬を両手で抑えて、ローレンツくんに目配せで確認を求める。
「そうですか?いつも通りのですよ」
ローレンツくんが何か言うよりも早く彼の代わりにそう答えたのは、丁度書物を抱えて席を立ったリシテアちゃんだった。彼女はそのまま立ち止まる素振りを見せず教室を出ていく。恐らく書庫へ向かうのだろう。教室を出てすぐさま「お、手伝うぜ」とシルヴァンさんに声をかけられるも「結構です」とはっきりとした発音で断ったリシテアちゃんは足音を響かせて遠ざかって行った。
「リシテアはああ言ったが……なんだ、本人も気づいてないのか? 眉間に皺が寄ってるぞ。このままじゃ痕になるな」
「えっやだなそれ」
「痕にはならないだろう……」
クロードくんに指摘された眉間に指を当てて揉みほぐすも、皺が寄っているかどうかなんて自分では分からない。ぐりぐりと眉間を指で押しながら、私はクロードくんの言う「浮かない顔」の原因を自分なりに考えてみた。前節自分が賊を前にまともに戦えなかったことも尾を引いていたし、けれどそれだけが問題であるようにも思えなかった。むしろたぶん、もう一つのことの方が今は引っかかっている。いや、だけど、最終的には全部繋がっているのかもしれない。解決が遠い。
リンハルトくんにされた、紋章の話の件だ。
フォドラは改めて再確認するまでもない紋章至上主義だ。紋章を持って生まれた平民は貴族に養子として迎え入れられ、一方数世代ぶりに紋章を持つ子息が生まれた貴族はそれを利用して成り上がろうと画策する。逆に紋章がなければ貴族として生まれたところで廃嫡すらされる人間もいる。そう、丁度ゴーティエ家の、シルヴァンさんのお兄様のように。
今更紋章を持って生まれなかったことを悔やむわけではない。紋章は魔力を持った金塊だ。その覚悟がなかった者が手にすれば忽ち正気を失い、それまで無欲だった人間も紋章をいかに利用するかに執心する。ここ数世代誰も紋章を持たないアレキサンドルは、その点で言えば平和なものだった。
無意識に「うーん」と唸った私のことを、目を細めて見つめていたクロードくんを誤魔化せるとも思えなかったけれど、私は二人にまだ形になっていない心情を吐露できるほど器用ではない。
「……気がつけば鷲獅子戦も目前だなあと思って……」
来節に控えた、士官学校最大の行事を思い出してそれを盾に使った私を、二人が見抜いていたのかどうかは定かではない。だけど、「大樹の節では応援しかできなかったから、鷲獅子戦は頑張りたいんだ」と続けて口にすれば、それ以上問い詰められるようなことはなかった。「そうだな、期待してるぞ」とクロードくんに微笑まれて、私はなるべく力強く頷いて見せる。ローレンツくんが何か考え込むような素振りで口元に手を当てているのが気になったけれど、それには気が付かないふりをした。
紋章のない人間は、実際紋章がある人間よりかは戦う力は劣る。結婚だって引く手数多とはならないし、そう言う意味では多分、紋章の有無を重視するような、英雄の遺産を持つ十傑の家系とは、私はこれから先縁がない生涯を送るだろう。例え、ここでどんなに密度のある一年を共に過ごしても。
紋章があったら、色んな悩みも解決したかもしれない。例えば私ももっとまともに戦えただろうし、自信だって持てただろう。もしかしたら、前節、賊を前に躊躇することもなかったかもしれない。でもそんなのきっとないものねだりだ。それがあれば、また無用な争いや揉め事を生んだことは間違いないのに、私は何だか、途端に自分に価値がないように思えてしまうのだった。
「よ」
借りっぱなしの本があったことを思い出して一人書庫に行って来たその帰り道、暗闇に紛れるように立っていたその存在に私はこの日ばかりは悲鳴をあげることをしなかった。私を怯えさせ続けた死神はもういないという事実が、どうも私の気持ちを大きくしているらしい。だからこそ陽が落ちた後に、悠々と書庫に行くくらいの気持ちの余裕があったのだけど。
「こんばんは」
そう言って頭を下げれば、その人はそれには答えず「見つかったらしいな、フレン」と口にする。
「そうなんですよ。良かったです。死神に怯える必要もなくなりましたし、ほんと安心しました」
「死神? あの鎌がどうとかいうやつか?」
腕を組んだまま首を傾げる彼は、フレンちゃんが見つかったことは知っていても犯人とされている人物の話まではまだ知らなかったらしい。確かにまだ昨日今日の話だから、知らなくても無理はない。私が話さなくてもここまで噂になっている以上はその耳にもいつか届く話題だろうと考え「はい。イエリッツァ先生だったみたいです。フレンちゃんを浚ったのも、死神と噂されていたのも」と話せば、彼はその長い睫毛で縁取られた目を一瞬だけ丸くしてみせた。
「なんだ、そうだったのか。……ガルグ=マクも騒がしいな」
人ごとのように言うけれど、彼だって離れることはあってもほとんどガルグ=マクに身を置いているのではないだろうか。首を傾げる私に、彼は「ところで、今回も解決したのはあの教師なのか?」と続けるから、目を丸くするのは、今度は私の方だった。
「あの教師って……ベレト先生のことですか?」
「ああ、あの馬鹿強いって噂の先生」
「馬鹿強い……そうですね。フレンちゃんを発見したのはルーヴェンクラッセでしたよ」
私の言葉に、目を細めた彼はふうんと曖昧に頷いてみせる。考え込むように顎に手を当てて目線を逸らしたその人の横顔をじっと見つめたのは、この人が一体何者なのかを改めて考えてしまったためだ。悪い人のようには見えないけれど、全く掴み所がないから、ちょっと困ってしまう。
私の視線に気がついたのか、その人はこちらに目線を寄越すと、大真面目な顔で呟いた。
「……この情報の礼は金で良いか?」
とあまり面白くない冗談を言うから、私はすっかり眉を寄せて「いらないです」と口にするしかなかった。だったら名前を聞かせてほしいのだけど。そう思ったけれど、声をあげて笑った彼は、そういうことを私に教える気は元々ないように思えた。