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 フレンちゃんに続いて、マヌエラ先生まで姿を消してしまったらしい。
 先生に関して言えばいい大人だから、男性にフラれて傷心を癒すために旅行に行ったのではないか、とか、誰かに結婚を仄めかされて着いて行ってしまったのではないか、なんていう噂が流れていたくらいだったけれど、根は真面目なマヌエラ先生がきちんとした意志を示すことなく教職を辞すとは思えない。アドラークラッセの生徒たちも首をひねるばかりだったけれど、その中でもマヌエラ先生とは元々歌劇団からの付き合いであるらしいドロテアさんが、一際心配そうに先生に関する情報を集めていた。



「先輩、どこに行っちゃったのかしら……」



 ドロテアさんとは花冠の節で一緒に掃除をして以来、顔を合わせれば挨拶を交わす仲であったけれど、普段は誰かしら異性を伴って歩いている彼女は、最近はほとんど一人でマヌエラ先生の痕跡を探して回っているようだ。情報を求められ、申し訳ないけれどと首を振れば、ドロテアさんは懇願するように私の手を両手で包み込む。



ちゃん、何か気づいたことがあったら、教えてちょうだいね」



 顔を近づけられて思わず心臓が鳴った。ドロテアさんは歌劇団でも人気の歌姫だったから、本当に美しい顔立ちをしているのだ。その美しさに思わず狼狽したけれど、思わず目を逸らしかけた瞬間、ドロテアさんの手が静かに震えていることに気が付いたのだった。
 マヌエラ先生まで、死神に連れ去られてしまったのだろうか。そう思うとぞっとして、肌が粟立つような感覚に襲われる。
 死神が実体を伴わない幽霊でないのなら。そう言ったことをきちんと考えたことは今までなかった。だって、死神だし。死神っていう言葉がもう怖い。死神の概念それ自体がそもそも恐怖心を与えるのだから、思考停止に陥ったって仕方ない。でも、その「死神」がもしも人間だったら。ドロテアさんと別れて、大広間を出て玄関ホール方面に向かって歩きながら、口元に手を当て考え込む。
 死神が人間なら、それはそれでやっぱり怖い。死神に見えるような背丈の人が、遠目からはそうとしか見えないような仮面なんかを被って鎌を持ってうろついている。勿論その鎌だって本物だ。隙を見せれば、その切っ先はきっと私の首に向かって振り下ろされるだろう。
 それってむしろ幽霊の方がマシなんじゃない?
 ぞぞぞと身震いする私のちょうど目の前だった。前を歩いていた人が何かを落としたのは。まだほとんど使った形跡のない筆で、私は頭で考えるよりも先に声をかける。



「あ、あの、落としま……」



 したよ。そう続けることができなかったのは、その人が振り向きもせずに教室のある方へ行ってしまったためだ。慌てて拾い上げて、その後ろ姿を追いかける。



「あのー!」



 そう叫んでも無駄だった。彼以外の人の視線は私に向けられるけれど、私が振り向いてほしい人の背中は頑として動かない。
 制服を着ていたため、士官学校の生徒であることは間違いない。顔を見たわけじゃないからはっきりとは分からないけれど、あの後ろ姿は見覚えがあるような、ないような。入学してから何節も経ってはいるものの、名前も学級も正確に出てこない男子生徒を呼びとめることはなかなか躊躇われた。
 彼はふらふらとした足取りで教室ではなく中庭の方へと向かっていく。人が一人通れるほどしかない、剪定された植木の間を通ったその人が向かっていったのは寮の一室だった。さすがに部屋に入られては落し物も渡しにくい。そう思ったのだけど、「落し物……!」と絞り出すように吐き出した私の言葉は、無情にも彼に届かなかったようだ。ばたん、と音を立てて、それは呆気なく閉ざされてしまったのだった。



「あ」



 名前も思い出せない相手だったけれど、ここまで来たら届ける以外の選択肢は残されていない。羊皮紙などに比べれば筆は安価だけれど、やっぱりなくなったら困るものであるものには違いないのだ。胸の前で緩く拳を作って扉を叩く。



「すみません」



 だけど、待てど暮らせど返事はない。首を傾げながら私はもう一度扉を叩いて、「すみませーん!」とさっきよりも大きめの声で呼びかけた。それでもやっぱりすぐには返事がないから、私は段々不安になってきてしまった。しかし、部屋を間違えただろうかと思った、まさにその瞬間だった。私が扉を叩いていた拳を胸に引き寄せたとき、中からくぐもったような低い声が聞こえたのだ。



「……ああ、うるさいな……」



 扉を一枚隔てた先で、私は確かにそんな言葉を聞いた。嫌悪の滲んだ声色に、思わず息が止まる。



「開いてるから。勝手に開けて、置いてって」

「へっ?」



 そして続けられた言葉に耳を疑った。怒っているようにも思えたけれど、入っていいと言ったその声音はうるさいと吐き出したものに比べてあまりにも抑揚がなさすぎて、感情が読めない。
 思いもよらぬ言葉であったせいか、指示に従えずに呆然としていると「入っていいってば」と面倒くさそうに続けられる。躊躇したけれど、これ以上動かずにいればさらなる追撃を食らってしまうことは想像に難くなかった。とうとう扉を開けた私は、赤い絨毯の敷かれた部屋の惨状に息を飲む。
 学級別に絨毯の色は定められているため、この時点で彼がアドラークラッセの生徒であることは窺い知れたけれど、問題は部屋の散らかりようだ。床に乱雑に積み上げられたいくつもの本の山に、私はすっかりたじろぐ。どれも高価なものであることに間違いないのに、このままではいつ山が崩れて本が傷むとも知れない。せめて机や、棚のあたりに置くべきだ。思わず口にしそうになって部屋の主に目をやれば、その人は床に膝をついたまま、上半身だけ寝台に倒れ込んでいるから悲鳴が出かけた。



「ヒッ……」



 死んでる……。と咄嗟に思ってしまったのも仕方がないだろう。その人は、額を寝台に押し付けたままぴくりともしないのだ。だけど思い返してみれば扉越しとは言え数秒前に会話しているのだから、今ここで彼が絶命していることはありえない。証拠に、はあ、とため息が聞こえた。寝ようと思ったのに。という呻き声にも似た声も。
 部屋の中は全体的に散らかっているのに、寝台の上だけは不自然なほど整っていた。敷布はぴんと張っていて、毛布は四隅を丁寧に合わさった状態で畳んである。枕も多分、寮のものではない、私物だろう。その中で暗緑色の塊がもぞりと動く。頭だということは分かっているはずなのに、後ずさりしてしまう。やがて向けられたその双眸は、私の手を一瞥すると、再び閉じられた。「そこ」くぐもった声は、ほとんど感情がない。間違いなく、ヒルシュクラッセにはいない人種だ。



「そこに置いといて」

「へっ? あ、そこ、ここ?」

「どこでもいいよ……」



 欠伸を噛み殺したような声で、彼はそれでも頭だけを起こして私の方に目線をやった。「僕、もう寝るし」彼がそう続けた瞬間、ヘヴリング、という単語が脳裏に浮かぶ。彼は確か、アドラステア帝国の内務卿を世襲するヘヴリング家の嫡子、だったのではないだろうか。確か、リンハルトくん。花冠の節で大聖堂の大掃除をしたときに、ふらふらと立っていたのが彼だったはずだ。
 長い髪を後ろで緩く結った彼は、眠たげにその瞳を閉じる。伏せられた睫毛は長く、肌は白い。なんだか見てはいけない物を見てしまったような気持ちになりながら、手にしていた筆を部屋の入口付近にある机の上に置いて、すぐに部屋を出ていこうと背を向ける。
 彼の反応を見ると余計なお世話だったのかもしれない、と思うと何だかお腹の奥がずんと重たくなったように感じられてしまった。だけど、更なる追い打ちをかけられることになるとは誰が予想しただろう。



「ねえ」



 声をかけられ、扉を開けようとしていた手を止めて振り返る。彼はほとんど瞼を閉じたような状態で「君は大丈夫だと思うよ」と口にするので、首を傾げた。突然何の話をしているのだろう。



「だって君、紋章ないでしょ」

「は?」

「いや、だからさ、さっきドロテアと話してたじゃない。フレンとかマヌエラ先生がいなくなった話。不安そうだったからさ」



 淡々と言葉を紡いでいく彼は、理解が遅い私に最後は煩わしそうに眉を寄せた。けれど、突然紋章の話をされて、どうしてそれでフレンちゃんたちが消えてしまった話と繋がると思うだろう。



「フレンがいなくなったのは紋章のせいでしょ、マヌエラ先生はそれに関係する何かに首を突っ込んでしまった。君がマヌエラ先生みたいに正義感がなければ……或いは、巻き込まれるだけの天文学的確率での不運に見舞われなければ大丈夫だって。それに、どうせすぐ解決すると思うし」

「へ、へ? 紋章? ……不運? え、解決するの?」

「セスリーンの紋章なんて珍しくはないけどさ、フレンはそれでも大紋章だし、そこそこ珍しい部類だよね。彼女を研究したかったんじゃない? 研究材料が死んじゃったら元も子もないからどこかで生かされてるはずだと僕は思うんだけど。まあそろそろ誰か、ほら、ベレト先生あたりが解決してくれるでしょ」

「だ、大紋章?」

「そう。だから君みたいな紋章がない人間は価値がないから対象外。安心しなよ」



 紋章の話になったときだけやたら饒舌であった彼は、言い終えるや否や寝台に顔を埋めて微動だにしなくなってしまった。訳が分からない。私がちっとも理解していないことを察していながら、言いたいことだけを言い切ってそのまま話を切り上げてしまうなんて。
 眠ってしまったのかは定かではないけれど、彼を起こさないようにそっと部屋を出る。徐々に秋めいてきたガルグ=マクの空気はひんやりとしていて、肌寒かった。彼の言っていることは、ほとんど理解できなかった。だけど紋章か、そうか。クロードくんが言っていた「何らかの目的」は、もしかしたらフレンちゃんが持っているらしい大紋章にあるのかもしれない。扉から手を離しながら、そう考える。
 何だか寒々しい。勝手にお腹が痛くなる。何を一人で傷ついたような気持ちになっているのだ、と自分を叱っても、きっと今の私は苦虫をかみつぶしたような顔をしているのだろう。でも、彼だって私を傷つけようと思って言ったわけではないはずだ。多分、わからないけど。
 紋章かあ。うーんと唸りながら自分の手の平をじっと見つめた。
 紋章がない人間は価値がない。
 彼の言葉は細長い針のようだった。血管を傷つけないように皮膚から突き立てられたそれは多分、私の身体の芯の部分に深く突き刺さっている。
 うーん、もう一度唸って空を見上げた。前節よりも遥かに色が薄いそれに、もうすぐ二度目の収穫の季節だな、なんて、ほとんど反射的に領地のことを思い出してしまう私は、どうしたってアレキサンドルの、戦う力に乏しい貴族の娘でしかなかった。


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