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 ローレンツくんもルーヴェンクラッセの皆も、クロードくんの言うとおり、翌朝私が目を覚ましたときにはガルグ=マクに帰還していた。賊は討伐されて、奪われていた英雄の遺産も取り戻すことが出来たらしい。誰かが大きな怪我を負うこともなければ、命が失われるようなこともなかった。アドラークラッセも難なく課題をこなしてきたようだし、前節に与えられた課題を全ての学級が滞りなく達成できたことそれ自体は喜ばしいことであった。
 ただ、敷地内ですれ違うルーヴェンクラッセの生徒たちの目には一様に言いようのない昏さがあったのだった。シルヴァンさんのお兄様と付き合いがあった生徒もいたのかもしれない、そう思うと、胸の内側がぐ、と締め付けられるような心地になった。例え廃嫡されたと言っても、遺産を盗み出したとしても、顔見知りを手にかけることは想像するだに苦しい。身内であれば、尚更。
 けれどシルヴァンさんはそんなことは端からなかったのだとでも言うかのように女の子を口説いていた。聞き心地のいい言葉を並べられ、満更でもない様子の女子生徒の肩をシルヴァンさんは引き寄せる。私はその横顔に目線を送るだけに留めた。目が合った瞬間、そうとわからないくらいに細やかに片目を瞑られたので、会釈だけを返した。



「ねえローレンツくん。怪我をしたって聞いたんだけど、大丈夫?」

「……誰が一体そんなことを」

「クロードくん」

「…………別に、大したものではない」



 今回の課題に同行していたローレンツくんも、利き腕の負傷により上着を一つ駄目にしてしまったというが、負ってしまった怪我自体は深刻なものではなかったらしい。ひらひらと右腕を振られた私は、その腕の動きのしなやかさをまじまじと見つめている。



「治療をしてくれたメルセデスさんのおかげでね。マリアンヌさんに勝るとも劣らない手際だったよ。……今度何かお礼をしなくてはいけないな」



 そう呟くローレンツくんは薄い微笑を浮かべていて、私は何故だか、彼が無事であって嬉しいはずなのに、胸の内側が靄がかったような感覚に襲われた。首を傾げながら、胸に手を当ててみる。とくとくという平生と変わらぬ鼓動だけは、確かに手の平で感じることができる。
 アッシュ君とシルヴァンにも助けられてしまった。力の差を実感してしまった以上、鍛錬を重ねなくてはなるまい。そう続けるローレンツくんの広い背中に「そっかあ」と吐き出せば、存外トゲトゲした声音になってしまったけれど、私の苛立ちは自分で飲み込んで消化する他ない。
 彼は仔細を語ろうとはしなかった。しかし、その表情に滅多にない疲労が滲んでいたことを思えば、今回のことで余程神経をすり減らしたのだろう。改めて、自分の代わりとしてルーヴェンクラッセの課題に出向いてくれたことにお礼を言おうと口を開きかけた瞬間、ローレンツくんが思い出したように振り向いた。「」と。



「君も、怪我がないようで良かった」



 その時見せた笑顔が、何だか酷く穏やかで、美しいもののように見えたのだった。
 こみあげてくる熱の中で、違うんだよ、と言う言葉が喉元まで出かかる。違うんだよローレンツくん。私、怪我はなかったけど、怖かった。人を殺すことが恐ろしかった。脳裏をよぎる血の色が、一体誰のものなのかももう分からないくらいに。春にこの身体に負った怪我が網膜にくっついて剥がれなかった。躊躇すれば殺されると分かっていたのに、それでも迷ってしまった。自分の行動如何で一人の人間の生を終わらせることが、恐ろしかった。
 今更誰にも訴えることのできない煩悶を口に仕掛けた瞬間だった。



「嫁ぎ先の決まる前にこれ以上その身体に傷を増やすわけにはいかないだろう」



 そう続けたローレンツくんに、私は開きかけた唇を閉じる。
 あまりにも無神経な言葉に、弱りかけていた心が一瞬にして凍ってしまう。眉を寄せて彼を見つめれば、ローレンツくんはその意図が全く掴めなかったのだろう、不思議そうにその整った眉根を寄せてみせるから、私は益々閉口する。やっぱり弱音を吐くのはやめよう、そう思うと同時に、「良かった」と安堵したように言ってもらえたことが嬉しかったということも、彼には一生教えてあげない。








 前節の課題の余韻が残る中だった。大司教補佐であるセテス様の妹のフレンちゃんが、行方不明になっているという噂が広まったのは。
 フレンちゃんは小柄で可愛らしい女の子で、セテス様と同じ、珍しい緑色の髪をしている。兄であるセテス様からとても大事にされているらしく、その溺愛ぶりはともすれば行き過ぎだと称されるほどで、彼女はほとんどガルグ=マクの外に出ることを許されていなかったようだった。釣り池のあたりをうろついたり、大聖堂で祈りを捧げることの多かった彼女は、しかし忽然とその姿を消した。
 私たちとほとんど年は変わらないか、少し幼いように見受けられたけれど、セテス様の過干渉によるせいかフレンちゃんはどこか浮世離れしているように思えた。世間をあまり知らず、おっとりとしていて可愛らしい彼女とは私も何度か言葉を交わしたことがあるけれど、世の中の常識とも思えることについて「まあ、そうなんですの?存じ上げませんでしたわ」と驚いて見せるその姿に、普段は滅多に動かない部分の感情を刺激されたことは一度や二度では足りない。
 私ですらそうなのだから、皆もそうだったのだろう。「彼女、少し放っておけないところがありましたからね……」と呟くイグナーツくんに、思わず小さく頷いてしまう。それは、恐らく彼女の持つ危うさからくるものであったはずだった。



「でもよぉ、その辺にいるんじゃねぇのかあ? 肉でも焼いたら匂いにつられて出てきそうなもんだけどなあ」



 フレンさんってどんな子だったっけか、とついさっきまで首を傾げていたラファエルくんがそう主張する。自らの意志による家出で、お腹を空かせている状況だったらその可能性もなくはないけれど。だけど「勝手にいなくなるような子ではないのだ」とのセテス様の嘆きを信じるならば、それよりも事故か、或いは事件に巻き込まれた可能性も高い。例えば。
 例の死神が鎌で命を刈りに来た、とか。
 青海の節の頃から広まり始めた噂話を思い起こしたのは私だけではないようだったけれど、口にしてしまうのが憚られて飲み込んだ。この状況に於いて、何だかそれは、まるで不謹慎であるように思えたのだった。








 今節の課題は、全学級にフレンちゃんの捜索という任が与えられることになった。騎士団も動員しての大規模な捜索になるらしく、セテス様の命令であるとは言え与えられた他の任務を放棄せねばならない状況に異を唱える騎士もいたようだったけれど、憔悴したセテス様を前に最終的には了承したらしい。また、レア様ご自身もフレンちゃんの手掛かりを探そうとなさっていると聞く。こうしてガルグ=マクにいる人々が一丸となって一人の少女の捜索に当たることになったけれど、私もフレンちゃんのことは心配だった。



「まあ、あれだけ筋金入りの箱入り娘が消えちまったってことは、内部の人間の仕業だろうなあ」



 足で情報を拾うことも大事だけれど、ある程度選択肢は狭めておいた方が良いと言ったのはクロードくんで、休み時間、何かを考えていた様子の彼は私の視線に顔をあげると、何を思案していたのかを私が尋ねるよりも早く呟いた。それは、ほとんどぼやきのようですらあったけれど。
 しかし、「内部の人間?」と首を傾げ、彼の言葉を繰り返した私にクロードくんは目線を向けて、訳知り顔で微笑む。



「教会の信者か、先生か、或いは俺たち士官学校の生徒の誰かか。そうじゃなきゃガルグ=マクから出ることのないお姫さんを浚うことなんてできないさ」



 先生か、生徒の誰か。彼がそう口にしたことでぎょっとしてしまった。



「さ、浚われたってことで決定なの?」

「自らの意志で出て行ったって可能性を完全に切り捨てろとは言わないが、何らかの目的があって連れ去られたか、もう殺されちまったかの二択であると俺は思うがね」

「こ、ころ……」



 私の反応に、クロードくんは静かに目を細めて僅かに肩を竦めて見せた。
 暦の上では秋と言っても、角弓の節になったばかりのガルグ=マクはまだ夏の香りが残っている。強い日差しが窓から注ぎ込むヒルシュクラッセの教室、私の視界の端で教室に残っていたマリアンヌちゃんが、ちらりと私とクロードくんに目線をくれた。多分、殺される、という単語に反応したのだと思う。
 何らかの目的、具体的な例を彼がとうとう口にすることをしなかったのは、まだクロードくんの中でもそれが一体何なのかを測りかねていたからだったのかもしれない。
 口元を手の平で抑えて、空間の一点部分を凝視したまま黙りこくるクロードくんの鼻梁を眺めたまま、私は彼の思考の一片でも落ちてはいないものかと自分の脳を探っている。








 内部の犯行の可能性が高いという点に関してはぞっとしないものもあったけれど、もしもそうであるならば可能性の一つとして色濃く存在していた「死神の仕業」という説は消えたことになる。



「内部の人間……ですか。確かにフレンが忽然と姿を消したことを思えば……」

「そうですね。駆け落ちよりは信憑性がありそうです」



 食堂で席を取ったとき、偶然隣の席に座っていたのがアッシュくんとイングリットちゃんの二人だった。今節の課題は共通してフレンちゃんの捜索だ。競争しているわけでもないのだから、情報交換はむしろ望ましいと言い含められていたため、私は先ほどのクロードくんの仮説を二人にも聞いてもらったのだけれど、二人はそれに肯定的だった。だけど、駆け落ちとは一体何のことなのか。



「かけおち?」

「……そのようなことを言い出す不届き者がいたのです」

「だからって殴らなくても良かったと思いますけど」

「いいえ、シルヴァンにはあれくらいしておかねば効きませんから」



 普段の彼女よりも少し低めの声で吐き出されたその言葉で諸々を察したけれど、敢えて触れずにおくことにした。
 私の隣の席に座るイングリットちゃんはしっかりと眉根を寄せている。彼女の真向いにはアッシュくんが座っていて、二人は既に食事が終わっているにも関わらず、私が食べ終わるのを待ってくれていた。



「私はセテス様の束縛に耐えかねて隠れてるのかなーとも思ったんだけど」

「それにだって限度はありますよ。もういなくなってから一週間近く経ってるって言いますし」

「それに、彼女が家出するんだとしたら、置手紙の一つくらい残しそうなものですよね。やはり内部の人間が……」



 言いながら考え込むように目線を天井に向けたイングリットちゃんは、誰か思い当たる人間でもいるのだろうか。難しい顔をしているようだったけれど、それを口にすべきか迷っているような印象も見受けられた。だけど、イングリットちゃんがそれをきちんと形にするよりも早く、私の斜め向かいに座っていたアッシュくんが口を開く。



「……内部の人間の犯行だとしても、例の死神の可能性がなくなったわけではないですよね」

「ヘッ? なんで?」

「死神が幽霊などの類でなく実態を持った人間であるならば、それがガルグ=マク内部の誰かである可能性は捨てきれないのではないかなと思って」

「……成程。死神がフレンを浚っていったということですか」

「…………」



 イングリットちゃんも頷いて見せたけれど、その可能性は認めたくなかった。
 咀嚼しながらも顔を顰めて見せた私に、アッシュくんが困ったような顔で微笑む。私が怯えていることを察してくれたのだろう。「そういえば、ローレンツの怪我は大丈夫でしたか?」と、無理矢理にでも話を変えてくれたことに感謝しながら、私はそれでも新しく提供して貰ったその話題にも思わず眉を八の字にしてしまった。



「大丈夫、だった、みたいですが」

「ですが?」

「いや、なんでも」



 メルセデスさんには、私はものすごく感謝している。ローレンツくんが大事に至らなかったのは彼女のおかげだと。そう言えばいいだけのはずなのに、何だか言葉が上手く作れない。私って、こんなに狭量だったのだろうか。でも、だとしたら一体何についてこんなに嫌な思いになってしまうのだろう。
 良くわからないことは寝かせるに限る。自分の中から変色した部分を切り離して、遠くに投げる様にして蓋をしてから「ローレンツくんがお世話になりました」とアッシュくんとイングリットちゃんにお辞儀をすれば、二人は顔を見合わせてから小さく笑った。














 滅多にないことなのだけど、時折こうして週末に回ってくる夜番の演習は、一番苦手かもしれない。
 しかもいつもだったら騎士の方が必ず一人はついてくださるのに、先程緊急招集がかかっていなくなってしまった。一刻ほどで戻ってくるとは言っていたけれど、とっぷりと陽が沈んだガルグ=マクの郊外で、こうして一人で立っているのはそれだけでも恐ろしい。春に夜番をしたときは、もう少し街の中に人がいたように思うけれど、やっぱり昨今の噂が人々の外出を控えさせるのだろう。暗闇に身を置いている私の脳裏にはいつだって死神の存在があるし、木の陰で何かが動いたように思えてどきどきしてしまう。
 今はフレンちゃんの失踪の件でガルグ=マクが騒がしくなっているから、騎士団の皆さんが忙しいのも分かる。実際今の招集だってそれに関することであったのは間違いない。もしかしたら発見されたか、あるいは手がかりが見つかったか、そう考えるとそわそわと落ち着かない気持ちになったけれど、私がここを動くわけにいかなかった。そう、たとえ死神が現れたとしても。



「よ」

「ひっ」



 だから背後から声をかけられたとき、私は腰の剣に手を伸ばして身構えてしまったのだ。だけどその人は私の動きに全く動じることなく「夜番の演習か?ご苦労さん」と目を細めてみせる。その姿を確認して、私はようやく安堵した。竪琴の節からちょくちょく顔を合わせている、綺麗な男の人だったのだ。私は未だに神出鬼没なこの人がどこの誰なのかを分からずにいるけれど、顔見知りの枠に既に彼が収まっているのは確かだった。
 前回会ったのは書庫の整理を終えたときだったから、青海の節だっただろうか。あの日も彼と会ったのは夜だった。



「夜番で一人ってのも珍しいな?」



 そんな内部事情を知っているということは、この人はやっぱりガルグ=マクにはそれなりに明るいということなのだろう。ほっとしてしまったせいか、口が滑る。



「さっきまでは騎士の方がいたんです。でも、収集があって。失踪の件で何か進展があったのかも」

「失踪?」

「え?」



 私は勝手に、この人を騎士か教団の関係者なのだと思い込んでいた。そうでなくてもガルグ=マクに出入りする人だったらフレンちゃんの件は知っていて当然だと思ったのだけど、きょとんと目を丸くしている彼の様子を見ていると、どうも知らなかったらしいことが窺える。
 私は顔に出やすい性質だから、もうほとんど「知らないんですか」と表情で聞いてしまったようなものだったのだろう。彼は「あー」と頭に手をやり「実は片付けなきゃなんねえ用事がいくつかあって、今の今まで外にいてな。ガルグ=マクに戻ってきたのは数日ぶりなんだ。その間何かあったんだったら教えてくれねえか?」と紅で彩られた口の端をあげたのだった。
 何をしている人なのかは分からないけれど、それだったら知らなくても仕方ない。実はフレンちゃんが、そう切り出した私の話を、彼は神妙な面持ちで聞いている。








 フレンってのは確か、セテス様の妹だったか。彼女が拐かされたと聞いて驚いてしまった。成る程、道理でガルグ=マクの雰囲気がおかしかったわけだ。
 実際に数日ガルグ=マクを離れていた身としては、帰って早々情報を得られたのは幸運だった。彼女はやっぱり、どうも警戒心ってのが薄いらしい。俺が悪い奴だとか、そういう可能性をはなから考慮しないようなのだ。貴族の女っていうのはそういう迂闊なところがあるやつがたまにいる。性善説を地でいくような。



「情報ありがとな。助かったよ」



 そう言えば、彼女は小さく首を振った。
 できればまた、こうして話を聞かせてくれよ。そこまで突っ込んで頼んだら、さすがに警戒されるだろうか。だから心の中で思うに留めた。ヒルシュクラッセの、=フォン=アレキサンドル、だったか? あんたみたいにぼやっとした人間は、今の俺には貴重だよ。


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