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 未だこの手に残る生々しい感触を忘れてはいけないのだと思いながらも、課題としての賊討伐を終えたその夜は、どうしても落ち着かなかった。
 私は賊とは言え人を殺してしまったし、その事実は思いの外、傷になってしまっているらしい。覚悟を決めていたはずだったのに、私は酷い失態を犯してしまった。
 日付が変わっても上手く寝付けなかった理由の一つはそれだ。誰も大きな怪我をしなかった。私の足の傷は疼きもしなかった。ただ、最悪だ、と言う思いだけが今も尚こびり付いている。剣なんか、ちっともまともに触れなかった。躊躇ばかりしてしまった。皆がいてくれなかったらどうなっていたことか。目を閉じると浮かぶあの血だまりに叫びだしそうになる。あの断末魔に、耳を塞いでしまいたい。
 暗闇の中身体を起こす。枕元の小さな灯りはきちんとついていたのに、こんなにも心細い。恐ろしいほどに静かだ。夜行性の鳥の鳴き声と、虫の音に耳を澄ませる。そうだ、もう角弓の節になってしまった。暦の上では、秋だ。



「……早いなあ」



 無意識に呟いた声は、寝台の上で、誰にも届かず消えていく。
 士官学校での生活は一年と定められていた。私はあと半年と一節で、この士官学校を卒業しなくてはならない。アレキサンドルに戻れば、兄と共に父を助けることになるだろう。いずれはどこかに嫁ぐことにもなるかもしれない。だけど、それはきっとずっと遠い未来だ。
 そうして自分自身の中に確かに芽生えていた恐怖を薄くのばして、自分の隙間にめいっぱい入れていこうとしたとき、目を逸らすなと、けれど、私の中で誰かが言った。それが貴族の責務だろう、と。「誰よりも恵まれた環境で生まれた僕たちは、平民が抱えなくていい苦悩を肩代わりせねばなるまい」ローレンツくんは、十年前の時分から私にそう言って聞かせていた。
 私たちは貴族だから、力がある以上、世のためにそれを使わねばならない。いくら弱小貴族と言っても、私は飢えを知らない。生きるための悪事に手を染める必要もない。だけど、だからこそその渦中に居る人々のために生きなければならなかった。彼らのために。奪われなくていい命が、これ以上失われることのないように。
 震えていた手の平にもう片方の手を添えて、握りしめる。浅くなっていた呼吸を整えるためにお腹から息を吸って、細く長く吐いていると、扉の向こうで寮の外へ向かう人の気配を感じた。足音は階段の下へと遠ざかる。考えるよりも早く外に出てしまったのは、それがクロードくんではないかと直感で思ったからだ。
 私が寝付けなかったもう一つの理由は、まだルーヴェンクラッセの生徒たちがガルグ=マクに戻ってきていないというところにあった。英雄の遺産を持つ賊の征討は、例え騎士の方を伴っていたとしても難しかったのではないだろうか。ルーヴェンクラッセに所属するアッシュくんたちや、課題協力という形で彼らに同行したローレンツくんが心配だった。クロードくんもきっとそうなのだろう。彼らが戻って来ないかどうか、様子を見に行ったのかもしれない。
 寝間着姿のまま、上に羽織るものも忘れて飛び出してしまったけれど、夏の香りの濃く残るガルグ=マクの夜風は剥き出しの手足に心地よかった。暗闇の中、月明かりに照らされる釣り池の水面はきらきらと輝いている。それに沿うように、門の方へ向かって歩く人影に私は声を張り上げた。



「クロードくん!」



 夜の闇に目が慣れ始める前だったけれど、その背格好は私の良く知る人物のそれだった。級長の証である外套を外してはいたものの「ん?」と振り向いた彼はいつもの士官学校の制服を着ていたから、私は途端に寝間着の自分の姿が気恥ずかしくなるのだけど、今更部屋に戻るわけにもいかず、彼の元へ駆け寄る。



じゃないか。こんな夜更けに部屋を出ていいのか?」



 口元を笑みの形に固定して、からかうように「幽霊が出たらどうする?」と続けたクロードくんに私は思わず「ヒッ」と悲鳴をあげてしまった。私たちの真横に広がる池は星の灯りを受けて美しいのに、私はいつだったかのようにそこから何かがぬっと現れるような妄想に憑りつかれてしまい、思わず水面から距離を置く。



「はは、冗談だよ、冗談。でもま、夜はあんまり出歩かない方がいいぜ。幽霊以外にも、色んな噂があるだろ?」

「あ、ああ、死神がどうとか?」

「そうそう。鎌で命を刈りに来る〜……だっけ?」

「ななななんでそういうことを今言うのかなあ?」



 死神という言葉につい反応してしまった身体を悪寒が巡って、私は手の平で腕を摩りながら周囲を見回してしまった。
 しんと静まり返ったガルグ=マクの釣り池付近には、他に人の気配はなく、「いやだから冗談だって」と笑うクロードくんの明るい声だけが響く。間違いなく私たちは今二人きりだ。そう思った瞬間、突発的に部屋を飛び出てしまった自分の行動力が信じられないもののように感じられる。その直前まで確かにあったはずの恐怖心はなりを潜めて、私は途端に冷静になってしまった脳を恨めしく思った。
 今日は、ごめんなさい、まともに動けなくて。そう言いたかったのに、声が出ない。責められたら立ち直れなくなってしまう。私だって、あんなに自分が戦えないとは思ってもみなかった。手の平に残る肉の感触が恐ろしくてたまらなかった。だけど、クロードくんは私の内心を察しているのか、決してそのことについて触れようとはしなかった。まるで今日が何の変哲もない一日だったみたいに、彼は目を細めている。少しだけ居心地が悪くなってしまって、目を逸らした。
 クロードくんとは、意識してしまうと上手く話せなくなる。事務的な、或いは何らかの目的があるような会話でなければ、世間話すらもまともに目を見て話せない。その瞳が痛いくらいに真っ直ぐで、美しいことを知っているから、顔が上手くあげられなくなってしまうのだ。



「あ、あの、ろ、ローレンツくんと、ルーヴェンクラッセの皆、大丈夫かな、まだ戻ってきてないよね」



 私がこのことについて心を割いている以上、極めて事務的な、と言うには無理のある話題だったけれど、ヒルシュクラッセの課題について話をするよりは落ち着いて言葉を作れた。どくどくと音を立てていた心臓が徐々に平生の速度を取り戻していく中、クロードくんは薄い笑みを浮かべたまま「そうだなあ」と特別心配してもいないような声音で吐き出すと、彼の背の方にある門の方角へと目線を向ける。
 そこに人の、ましてや一個の学級が列を成して戻るような気配は感じられない。



「まあでも、もしも何かあるようだったらもっと慌ただしくなるはずだろ? それこそ救援を求めるための伝令もないんだから、そのうち帰ってくるさ」

「あ、ああ、そう言われてみればそうだね……」

「ローレンツだって簡単に死ぬタマじゃないしな。それに……」



 す、と目を細めたクロードくんの顔を、私はぼんやりと見つめている。
 クロードくんって目が笑ってない時があるよね、かつてヒルダちゃんが言った言葉の意味を、私は理解できなかった。眦を細めて、口角をあげるそれは押し並べて笑顔に相違ない。それの些細な違いなんて少し見ただけで分かるはずがなかったし、そもそも周囲に対して「笑顔を作る」ということそれ自体の必要性を私は感じていなかったから、よしんば彼が他人に向けて浮かべた笑顔が偽物であったとしても、その真意までは理解が及ばないはずだった。だけど今、私は気づいている。



「先生の持つ天帝の剣があれば、例えどんな危険があってもねじ伏せられると思わないか?」



 その時のクロードくんは、目を細めて、唇を弧の形にしていた。けれど確かに、笑ってはいなかったのだ。
 ぽかんと口を開けて彼を見上げていた私に、クロードくんは僅かに小首を傾げた。「さーて、じゃあお嬢様、行きますか」と芝居がかった口調で吐き出された言葉を、私は理解のできぬままに聞いている。その表情があまりにも間抜けだったのだろう。クロードくんの整った眉が、一瞬だけ八の字になったような気がした。



「ここで待ってたって仕方ないから、部屋まで送ってやるよ。朝起きたら、きっとローレンツもルーヴェンクラッセの連中も戻ってるさ」



 私の肩に手を置いて、柔らかな力をもって方向転換させられる。寮に向けられていたはずの背は、あっという間に反転してしまった。「うえっ」と声を裏返して驚く私に、肩に添えていた手を離したクロードくんは小さく笑う。
 そのときこっそり盗み見た彼の顔は、決して作ったような類のものではなかった。睫毛が長かった。浅黒い肌は少しの歪みもなく美しかった。黒い髪が夜空に溶けたように見える。心臓が煩い位に鳴っている。きれいだ。きれいだと、私はそればかりを考える。
 だから、私が見た彼の、どこか得体の知れないようにすら思えた作り笑顔なんて、何かの見間違いだ。あれはきっと先入観で歪んだ私の目が見せた、幻なのだ。
 そうでないと言うならば、いっそ私は本当に盲目になりたい。








「僕の留守でも大事はなかったか?」

「開口一番それか」

「未来の同盟の担い手を案じることはおかしいことではないだろう」



 薄暗い部屋の中、クロードの乾いた笑いが漏れ聞こえる。



「ああ、そうだな。おかしくないさ、お前は何も」



 クロードの部屋は相変わらず散らかっていた。机の上には得体の知れない薬品、床に散らばる書物はどれも高価なものだろうに乱雑に積まれている。寝台の上をも占領する本に、この男はほとんど眠ることすらもしないのではないのだろうかと考える。事実、明け方近い今この時ですら、彼は僕の帰還を待っていた。
 僕の不在をものともせず、ヒルシュクラッセは見事に賊を討伐したらしい。八面六臂の活躍をしたのはラファエル君だとか。なるほど彼の巨体は目立つから、敵にとっては恰好の的であったのだろう。囮となったラファエル君とイグナーツ君の援護で、あっという間に鎮圧できたと聞く。「みんな良くやってくれたよ」と話を終えたクロードは敢えて口にする気はなかったようだが、も目立った怪我はなかったに違いない。察した以上、いちいち尋ねるような無粋な真似をする気はなく、僕は「そうか、それは良かった」と頷くに留めた。
 一瞬目を閉じた瞬間、ぐらりと身体の芯が揺れる。軸足に力を込めて耐えれば、蓄積された疲労の存在に向かい合わぬわけにはいかないことを知った。僕は疲弊していた。型にはまった戦い方を知らぬ賊連中の相手をするのに神経をすり減らし、挙句利き腕を傷つける始末。慣れないルーヴェンクラッセの生徒たちとの連携を求められたとは言え、彼らと僕との経験は雲泥の差だった。結局あの「獣」にとどめを刺したのだって、ベレト先生だ。彼の援護のために、怯むことなく捨て身の攻撃を繰り返した生徒たちにも頭は下がるが。
 シルヴァンの兄であるマイクラン、彼は英雄の遺産を扱うに足る資格を持っていなかった。推測するに、その代償があの姿だ。



「……これまでぬるま湯に浸かっていたツケかな」



 無意識に呟いた言葉に、クロードは肩を竦める。



「それは仕方ないさ。何せ、あの先生はレアさんのご贔屓だ。あの人に選ばれなかった時点で俺たちは負けてるんだよ」



 選ばれなかった。
 吐き捨てるような言葉尻だったが、恐らく、それが、それこそが真理だ。
 開いていた本を、彼は閉じる。扉に寄りかかっていた僕をその目が映した。「それで、どうだった?」翠の双眸は、薄闇の中得物を前にした獣のように光る。



「お前が見たものを、残らず教えてくれよ、ローレンツ」



 どうせ、僕が見たあれについては明日にでも箝口令が敷かれるだろう。例えそうであったところで従うかどうかは別として。だが、部屋に戻ろうとしていた僕を待ち構えていたクロードは、どんな手を使ってでも僕から情報を引き出すつもりだ。今回のことに関しては抵抗なんて端からする気はない。そのつもりでいたはずなのに、それでも僕は多少なりとも、背筋を凍らせてしまう。
 あと半刻もすれば、やがて朝陽は昇るだろう。けれど、今、この部屋は薄暗い。最低限の灯りに揺らめいたその瞳、僕はその光の中に、得体の知れない獰猛さを見たような気がした。


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