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アッシュくんから激励を受けたは良いけれど、実際問題、私のことを視界に入れようとしないローレンツくんに声をかけるのは至難の業であるように思えた。彼は最近、よりにもよってクロードくんの傍で話し込んでいることが多かった。これでは彼に近づこうにも近づけない。私はクロードくんの傍にいると、動悸と眩暈により生来の自分を呆気なく失ってしまうのだ。
視線に思いを込めるだけで行動に移さないのは良くないとは言われたけれど、こうなってしまえばやっぱり「目が合わないかな」なんて気持ちでローレンツくんの横顔を見つめてしまいがちで、なのにその度に私の視線に気が付いて目線を返してくれるのはクロードくんの方だったから、その度に心臓が跳ねて参ってしまった。
なんてことないようにひらひらと振られた手にぎこちなく振りかえすも、しかしローレンツくんの方は頑として私を見ないのだから、悲しいを通り越して腹が立つ。ここまで来るとどう考えても故意だ。
「あたしが呼んできてあげようかー?」
見かねたヒルダちゃんがそう提案してくれたけれど、恐らくローレンツくんのことだ。意図を察して彼女の誘いに乗ることを避けるだろう。気持ちはありがたいんだけど、と素直に思うところを吐露すれば、「あーそっかー、そうだよねー……」とヒルダちゃんも同情するように頷いた。
結局のところ、私が直接彼にぶつかりでもしない限り、どうにかなることではないのだ。
以前私たちが剣呑な空気になったときは、認識のずれがあったとは言え、ローレンツくん側に明らかな問題があった。だから私から歩み寄るつもりは毛頭なく、彼からの謝罪も素直には受け取れなかったのだけど、今回はまあ、私も悪いところはあったのだと思う。完全に、全てにおいて、私に全責任があるとは言わないけれど。だって、ローレンツくんだって悪い所はあったし。でもいくら腹が立ったからって「馬鹿」はない。子どもでもあるまいし。
私がそれを口にしてしまったとき、ローレンツくんがどんな顔をしていたのかを私は知らない。私の伝え方も悪かったとは言え、「自分の意見を持て」だの「一貫性がない」だの「アレキサンドル家の悪癖」だの、あまりの言われようにお腹の底からふつふつと怒りの感情が湧き上がって、何とか反論したかったのだ。その反論が「ローレンツくんの馬鹿」だったのだから、語彙がないにも程がある。
その点については、謝りたい。謝りたいし、もし許されるならば、自分の代わりに危険の伴う課題に同行することになった彼の、その無事を祈らせてほしい、と思っている。
彼と険悪な空気になってから二週間以上、ルーヴェンクラッセが件の盗賊の根城であるコナン塔に出発する前日になって、私はようやく重い腰をあげた。ヒルダちゃんに「ちゃんと話をしておいた方がいいと思うよー」と、真剣な顔で言われてしまったのが一番大きかった。
「あたしもねー、兄さんがパルミアの軍勢との戦いに行く前日に、軽く喧嘩しちゃったことがあったんだー」
「ホルスト将軍と?」
「そうそうー」
ヒルダちゃんのお兄さんは、レスター諸侯同盟でも随一の猛将と名高いホルスト将軍だ。ゴネリル家は同盟領の東部にあって、険峻な山岳地帯であるフォドラの喉元を介して、外敵であるパルミラに接している。そのため好戦的なパルミラ軍との攻防に於いて、ホルスト将軍は同盟領を防衛するための中心的な役割を担っていた。
「喧嘩って言っても、今思えば本当にくだらないことだったのよねー。あたしが嘘吐いて訓練をサボってたことを叱られたとか、そういう感じだったんだけどー……。でも、それであたしも兄さんと顔を合わせたくなくなっちゃったんだー。パルミラ軍との戦いに出向くとき、いつも見送ってたんだけど、その時は意地を張って外に出なかったのよねー」
ヒルダちゃんの口元は何となく笑っているようだったけれど、下がった目尻がそれを後悔していると告げている。その唇が躊躇われたように一度閉じて、それから、は、と彼女は笑うような息を吐き出した。それが、ヒルダちゃんの中の複雑な感情が絡まった末に生まれた何かであるように思えたのだ。
「兄さん、その戦で珍しく怪我しちゃって」
大した怪我じゃなかったし、後遺症が残ることもなかったんだけど、でもやっぱり後悔したんだー。一息にそう続けるヒルダちゃんは、私の手をぎゅうと握る。白くて傷の無いすべすべとした彼女の手の平は、私のものよりも温度が低い。
「ちゃんも、迷ってるなら絶対に謝った方が良いってー。ね? あたしも応援してるからさー」
ヒルダちゃんにそう勇気づけられてしまえば、私はもう、頷くしかなかった。
コナン塔への出立を前日に控えたその日の夕方、ローレンツくんはルーヴェンクラッセでの話し合いの場に出席していた。
目的地は違えど、ルーヴェンクラッセの生徒もヒルシュクラッセの私たちも、明日の朝一番に賊の討伐のためガルグ=マクを出ることになっている。今日を逃せば彼と顔を合わせるのは角弓の節に入ってからになるだろう。さすがにそれは困ると思った私は、彼が教室に戻ってくるのを一人で待っていた。どう考えても、自分勝手な都合によるものだったのだけれど。
似たような最終確認のための話し合いはヒルシュクラッセでも行われていた。ただ同じ賊の討伐であると言っても、ルーヴェンクラッセが征討するのは英雄の遺産を持つ相手だ。ヒルシュクラッセが解散した後の隣の教室から話し声がやむことはない。長くなりそうだと、理学の教本を取り出す。ローレンツくんが戻ってくるまで教室にいることを決めた私に、ヒルダちゃんは自分も付き合おうかと声をかけてくれたけれど、それには首を振った。いつになるか定かではなかったし、二人きりでないと、彼とは上手く話せない気がしたのだ。
黙々と問題を解き始めてからどれくらいの時間が経ったかは分からない。一問目から手が止まってしまったのは集中力が欠けていたせいもあっただろうけれど、それ以上に問題が難しかったのだ。「ちょっと小難しいですけど、応用力がつくんでお勧めですよ」とリシテアちゃんから借り受けたものだったけれど、私にはまだ早かったのだろうか。どれが必要な数字でどれを切ればいいのかもわからず、「ん〜……?」と思わず口にしてしまった、その瞬間だった。
「……その数字は使わないんじゃないか?」
背後から気配もないままにそう声をかけられて、私は思わず短い悲鳴をあげてしまった。
声だけではそれが一体誰なのか、想像もつかない。咄嗟に振り向いて、そこに居た人物にさらに驚かされてしまう。どうしてここにいるのだろう。一際目を引く明るい色の髪に、ローレンツくんに劣らない長身。普段は女の子を伴って行動しているはずの彼は、今一人だ。
シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエさん。ルーヴェンクラッセに所属する彼は、私の右手のすぐ外側に手をついて、腰を屈めて私のことを見つめていた。彼が、本来ならば今まさに壁一枚隔てた隣の教室で行われている話し合いに参加していなければならない人物であるはずなのは、間違いない。
「えーと、、だったよな? 勉強なんてやめて、俺と話でもしないか?」
彼の存在に、私は教本を抱えたまま目を見開き、微動だにできずにいる。
話と言われても。ぐるぐると脳の中で巡るのは、「ああいう男にこそ気を付けたまえ」という、いつかのローレンツくんの言葉だ。女性と見れば口説く、女の子なら誰でもいい、そんな印象が先行して身構える私に、シルヴァンさんは笑いを噛み殺したような表情で隣の椅子を引いた。うんともいいえとも言ってないのに、彼は勝手にここで時間を潰す気でいるらしい。
「あの、でも、教室に行かなくてもいいんですか、明日の、会議みたいなことしてませんか?」
ルーヴェンクラッセの教室がある方を指差せば、シルヴァンさんは一瞬目線をそちらにやる。
「え? あー、うん、でも、俺が行ってもみんな困るだろ」
「へっ?」
「いやさ、だって俺の兄貴を殺す算段をしているわけだし。俺は全然気にしないけど、あいつらが気ぃ遣うだろうから」
「あ…………」
穏やかに微笑んでそう言う彼に、何と言葉を発したらいいか分からない。咄嗟だったとは言え、軽率な発言だったと反省する。
いくら廃嫡されたと言えど、明日彼らが討伐するのは、シルヴァンさんの血の繋がった実の兄だ。同じ教室で学んでいるルーヴェンクラッセの彼らがシルヴァンさんに気を遣う、というのは分かるけれど、でも、じゃあこの人のこの軽さは一体何なんだろう。普段の彼を良く知るわけではないけれど、今の彼には気負った部分もなければ、打ちひしがれる様子もない。
じっと見つめれば、彼はふ、と目を細めた。その笑顔に息が止まりそうになったのは、それが、クロードくんの浮かべるものに少しだけ似ていたからだ。曖昧に全てを飲み込むような、見えない膜を張るような、そういう類の微笑に、私はどうしたらいいか分からなくなる。
「だから、こう言っちゃなんだけど全然関係ない人とどうだっていい話がしたくてさ」
シルヴァンさんがそうして吐き出したその言葉に、私はすっかり胸を打たれてしまった。
だって、お兄様を討たなければならないって、やっぱりつらいことだと思うのだ。それが例えどんな悪人であったとしても、きっと兄弟である以上嫌な思い出ばかりだったわけではないはずで、こうして彼がいくら軽薄さでそれを隠していても、そこにはやっぱり、情みたいなものがあるはずだから。辛いとき、誰かに傍にいてほしいと思うのは当たり前だ。そして彼は今、ルーヴェンクラッセの皆と一緒にいることはできないのだ。
ずっと開きっぱなしだった教本を閉じる。机の下にしまっていた足の先を、隣に座るシルヴァンさんに向けた私の笑顔は、きっとぎこちなかっただろう。私が彼の力になれるとは到底思えないし、そういう立場には他の人が収まるべきだ。だけど、一時的な拠り所として、そのささくれに触れないように寄り添ってあげることくらいは私でもできる。
分かりました、そう口にした私に、彼はほんの少しだけ目を見開いた。
「じゃあ、何の話がいいですかね」
ヒルシュクラッセの話が良いだろうか。それとも女子の間で流行っていることとか。いや、彼のことだからそういうのは全部把握しているような気がする。首を傾げて考える私に、けれどシルヴァンさんは思いもよらないことを言ってのけた。
「には、確か兄上がいるんじゃなかったか?」
「へ?」
「どんな人なのか、俺に教えてほしいんだ」
「はい?」
思わず口からついて出た語気の強めな声にも、彼が動じる様子は一切ない。どうして知っているんだろう、不思議には思うけれど、クロードくん然り、こういった情報はどこからともなく収集する性質の人なのかもしれない。だけど兄の話って、この状況で求められていいものなのだろうか。
「あ、兄の話ですか? 今?」
「俺に気を遣わなくてもいいさ。元々人の家族の話を聞くのが好きなんだよ」
シルヴァンさんの細められた双眸は、本気なのか冗談なのか判別が尽きにくい。人の家族の話を聞くのが好きって、随分限定されているように思う。だけどじっと見つめられると、私はやっぱりそこにクロードくんが浮かべる笑顔を重ねて、一人で勝手に参ってしまうのだ。「わ、わかりましたから、そんなに見ないでください」顔を両手で隠してそう言えば、シルヴァンさんはとうとう声を出して笑った。そんな彼となるべく目を合わせないようにしながら、私は話し始める。私と同じ髪の色、同じ瞳の色をした、母よりも父に良く似た兄の話を。
兄は、私よりも年が三つ上だ。彼もまた三年前にこの士官学校を卒業している。猫が好きで、ガルグ=マクの敷地内にいる野良猫に餌付けをして歩いていたせいで、いつしか兄が歩けば猫が集まるという事態になってしまったらしい。昔は犬派だったのに、大型犬に鞄ごと本を奪われてしまった恐怖で今でも犬は苦手なんですよね。もう大人なのに、私の背後に隠れるんですよ。子犬でも関係なく。そう言えば、シルヴァンさんは声を殺して笑った。
張った膜の下で、シルヴァンさんは穏やかに微笑んでいる。私がそれに触れる気はないのだと彼は知っているのだろうけれど、それでもこの向き合った爪先同士の距離と同じだけ、彼は他人を警戒しているのかもしれないと、彼の浮かべた笑みを見ていて、なんとなく思った。机に置かれた彼の指先は、どんなに意識して見ていても震えることがない。
私は彼を良く知らない。知らないけれど、いずれゴーティエの極寒の地に立つ彼は、全てを背負うと決めている。私にはない覚悟を、とっくに彼は持っている。
それがどういうことなのかすら、私にはまだ良く分からない。
どれくらいそうして話をしていたかは分からないけれど、「?」と聞き慣れた声に名前を呼ばれて、私は我に返った。教室の外に目をやれば、ベレト先生とローレンツくんが足を止めて私たちを見つめている。どうやら話に夢中になっているうちに、ルーヴェンクラッセでの話し合いは終わっていたらしい。
「あ、終わりましたか先生」
「ああ」
ローレンツくんの瞳には驚きと困惑が見て取れたけれど、ベレト先生の方は、シルヴァンさんの言葉に返事をした後は特に何かを続けることもなく立ち去ってしまった。
「いや〜、本当にうちの先生は寡黙だな。それが有り難いときもあるんだけど」
今はどうだったのかについて、彼は言及しようとしない。いや、できなかったのかもしれない。つかつかと教室に入ってきたローレンツくんが、私とシルヴァンさんの間に立って椅子に座ったままの彼を見下ろしたせいで。
「ここで何をしている。彼女に近づくなと忠告していたはずだが」
「おーっと、お目付け役が来ちまったか」
「僕は彼女の幼馴染として、彼女に相応しい相手を見繕ってやるつもりでいるからね。お目付け役と言われようと構わないさ」
「それにしては、最近は彼女のことを避けていたんじゃないか?」
それじゃあ誰かにちょっかいを出されても文句は言えないだろ。そう続けたシルヴァンさんに、ローレンツくんは返す言葉を失っている。
「まあいいや、今日はありがとうな、。面白い話が聞けて良かったよ」
椅子から立ち上がった彼は身を乗り出して私の顔を覗き込んだ。その瞳は私と二人きりだったときよりも、随分と柔らかくなったように思えた。シルヴァンさんはそのままヒルシュクラッセの教室を出て行く。遠のいていくその足音が消えるまで、しかし、目の前のローレンツくんは私に背を向けた姿勢のまま微動だにしないから、私は妙に居心地が悪く思えてしまう。
長く続いた沈黙に、そのまま彼が教室を出て行ってしまうのではないかと、そう思いついてしまった瞬間、私は考えるよりも先に手が出てしまっていた。ローレンツくんの腰のあたりの服を掴む。びく、とその細身の身体が震えた。
「……、離してくれないか」
その言葉に、私はけれど返事ができない。それに、ますます服を掴む手に力を込めてしまった。何と言ったらいいのか分からないのだ。ごめんなさい、だろうか、だって私は彼に謝るために、ここにいたのだから。だけどこの期に及んで私はまだ、やっぱり自分ばかりが悪いわけじゃないと思ってしまっている。そういうところは、やっぱり私は子供だ。
やがて、ローレンツくんは、はあ、と長いため息を吐いた。強張っていたその身体から緊張がほどけていくのを、私は布越しに感じている。
「……君に言いたいことは、たくさんあるんだが」
何も言わずに彼の服を掴んでいた私の手を、ローレンツくんはそっと取った。私のものよりもずっと大きいその手は骨ばっていて、皮膚そのものは白くて滑らかなのに、関節がごつごつとしていた、ヒルダちゃんのものとは違う、男の人の手をしていた。
彼は私に目線を合わせるためにか、その意を示すためにかは定かではないけれど、床に膝をつく。紳士然としたその仕草に、どきりとした。正面からじっと見つめられたときに、私は、本当は、声をあげてしまいたかった。
「……あの時言い過ぎたことは、謝ろう」
切れ長の瞳が、細い眉が、確かに下がっているのを認める。謝ってほしかったくせに謝らせてしまった、そう思ってしまう。言葉にできない感情に支配されて、ともすれば泣き出してしまいそうだった。決壊してしまいかねないから、首を振る。振りながら「私もごめんね、馬鹿なんて言って」と何とか口にした。ローレンツくんが、は、と短い息を吐いて笑ったのを、俯いたまま私は聞いている。
「この僕に馬鹿だなどと言う人間は、君くらいさ」
いつもの調子で言ってくれたことが、今はこんなにも嬉しい。
握られた自分の手が汗ばんで、恥ずかしくて、本当は離してほしかったのに、その熱の存在に私は確かに安堵していた。握り返した瞬間、ローレンツくんの皮膚がびくりと強張ったのを知る。十年の月日は、私たちをそのままには、きっとしてはくれない。
ああ、わかるさ。一人歩きながら、喘ぐように息を吐く。
兄弟ってのはそうあるべきだよな。くだらない話で笑って、互いに守りあって、そうして手を取り合って。だってこの世界の誰よりも、近しい存在なのだから。
俺の身体に流れるものが兄上にあればこんなことにはならなかったんだろう。煩わしい、羨ましい、だってあの子のように、そういうものを持たずに産まれた人間もいるのだ。兄に何もかもを奪われることなく生きている妹もいるのだ。あの子は真冬の井戸の寒さを知らない。おかしいと思わないか?
温度のない壁を拳で殴る。じんとした痛みが静かに伝わる。あの子の屈託ない笑みを削ぎ落とす。覚悟なんか決まっていた。だけどどうしたって羨ましかった、妬ましくすらあった、そんなつもりはなかったのに感情を揺さぶられてしまった。でもそんなの、もうどうしようもないから、産まれた瞬間から決まっていたのだから、なあ、兄上、口の中で呟いた言葉はこんなにも乾いている。
どうか来世では最初から、俺と関わりのない人間になってくれ。