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今週の教室の掃除当番は私とマリアンヌちゃんだったのだけど、彼女はどうやらハンネマン先生に呼び出されてしまったらしい。
「すみません、さん……。その、なるべく早く戻ってきますから……」
申し訳なさそうに謝る彼女に「大丈夫だよ〜! 掃除くらい一人でできるよ!」と告げれば、安堵したようにその長い前髪の下の眉尻を下げられた。
マリアンヌちゃんはいつも俯きがちでほとんど人の輪に入ろうとしないけれど、とても優しい子だ。私の足のことだって、責任を感じる必要なんてないのに、いつも心配してくれていた。復帰が決まったときも、どれだけ喜んでくれたか。それでいて彼女には気品がある。長い睫毛に縁取られた瞳を丁寧に細めたマリアンヌちゃんは、まさしく淑女然としていた。
円卓会議の議決権をダフネルから譲り受けたエドマンド家の出である彼女は、ローレンツくんの求める「婚姻関係を結ぶに値する貴族」の一人であることは間違いないのだろう。不意にそんなことを考えてしまっている自分に気が付いて、私は内心で首を傾げた。だからなんだって言うんだろう、鈍く痛んだのは、鳩尾よりも拳一つ分くらい上の、良くわからない場所だ。
マリアンヌちゃんを見送ってから、一人で教室の掃除を始める。食堂のお皿洗い、馬の飼育、敷地内の草むしり、大浴場の清掃、倉庫の整理に温室の水やり、週替わりで当番が回ってくるそれらのうち、教室の掃除はそこまで手間がかかるものではない。机を拭き、床を掃く一連の作業は、体力も必要なければ時間もかからないため、一人でもそこまで苦ではなかった。
後ろの机から一列ずつ拭いていく。その中でローレンツくんの座る席はきちんと整頓されていて、随分と掃除がしやすかった。あまり意識しないようにしながら、乾いた布で拭く。木目に沿うように、丁寧に。その間で少しでも思考する隙を認めてしまえば、そこに彼の存在は如実に浮かび上がってしまうように思えた。
ベレト先生に言われたことを本人に確認しようと思ってはや一週間、私はローレンツくんと、相変わらずまともに目を合わせることすらできていない。
教室の隅を四角に掃きながら、私はベレト先生の言葉を思い出す。
「恐らくは断るだろうとローレンツは言っていた。代役が必要ならば自分が代わろうとも」
私のことを否定するだけ否定して、私にはそんなこと、一言だって話してくれなかった、そんな幼馴染を、恨めしく思う。
「自分も、それなりに動ける人間であれば誰でも構わなかった。連携を考えればアッシュと交友のあるにとは思ったが、ローレンツもメルセデスやアネットとは士官学校以前からの知り合いだと言うからな」
メルセデスさんにアネットちゃん、私の方がほとんど付き合いのない二名の名前がベレト先生の口から出てきたとき、私は「えっ! そうなんですか?」と思わず口にしてしまっていた。少なくとも、私はローレンツくんと二人が会話をしているのを見たことがない。
ローレンツくんは二年前、王都にある魔導学院に通っていたことがあるとは聞いていたから、恐らくそのときの知り合いなのだろうとは察しが付くけれど、わけもわからず落ち着かないような気持ちになってしまう。お腹の底で、やり場のない感情の原始の種のようなものが芽吹いたのを自覚した瞬間だった。教室の出入口付近から、誰かに声をかけられたのは。
「あれ? 、一人なんですか?」
その声に、丸くなっていた背中がびくりと震える。
振り向いたその先で、私の視界の真ん中に映ったその人は、小さく首を傾げていた。彼が醸し出す飾り気のない空気に、私はどれだけ安堵しただろう。
「一人じゃ大変でしょう。掃除、手伝いますよ。僕は自分の仕事も終わったので」
こんな私にも優しい言葉を向けてくれるアッシュくんを前にすると、引き攣っていた頬がゆるゆると解けていくように思う。細く長いため息を吐いた私に、彼はその瞳を丸くしている。
アネットと一緒に教室前の草むしりをしている最中、ヒルシュクラッセの教室からマリアンヌが出ていくのを見かけた。開放された教室の様子は、外からでも良く見える。手を振って彼女を見送ったのはで、僕は実を言うと、その時から彼女が一人、掃除当番として教室に残っていることを知っていたのだ。
だから、僕は自分の吐き出した「一人なんですか?」が白々しく響かぬよう、細心の注意を払ったつもりだ。他に何と声をかければいいのか、思いつかなかったから。の反応を見るに、思うほど不自然であったわけではなさそうだったけれど。
は「一人じゃ大変でしょう。掃除、手伝いますよ」と言った僕に、一度は断ろうと思ったのだろう。煮え切らないような音を唇の隙間から発した後、しかし彼女はやがて「ありがとう」と頷いた。その表情から彼女が何か思い悩んでいるのは明らかで、ならば僕は、その力になってあげたいなと、差し出がましいことを思うのだ。
僕は彼女の存在に救われたことがある。それは、彼女が僕の触れてほしくない傷を、そこにあると知りながらも触れずにいてくれたためだ。それを思うならば、僕はに倣ってつかず離れずの距離を保つべきなのだろう。そう結論付けようとした僕に、しかし彼女は箒を抱えたまま「ねえアッシュくん」と、ため息交じりに呟いた。何だか縋るような、弱々しいその声音に動揺してしまうけれど、顔には出さないように意識する。
「今節の課題でね、ローレンツくんが、ルーヴェンクラッセを手伝うことになったんだって」
「ローレンツ?」
「うん、ローレンツ=ヘルマン=グロスタールくん」
「ああ、いや、知ってます」
あの長身の生徒だ。同盟領のグロスタール家の子息で、シルヴァンに劣らず女性に声をかけて回るせいで、女の子からは少しばかり煙たがられていると聞く。「幼馴染なんだけど」だから、がそう口にしたとき、僕はすっかり驚いて「え?」と上擦った声を出してしまった。彼とが幼馴染、それはまあ、何と言うか。彼女の家とグロスタール家の地理的な問題から鑑みても、何もおかしい話ではないのだけれど。
「そう言えば、良く一緒に歩いてましたっけね。そうか、幼馴染だったんですね」
「そ、そんなには歩いてないよ。その、それで、そう、ローレンツくんが今節はお世話になると思うので、その、よろしくお願いします。迷惑をかけるかもしれないけど、悪い人じゃないの」
「はい。それは全然。学級が違えば慣れないと思うし、僕も及ばないかもしれませんが、力になります。先生もいますから」
「うん、うん、そう、そうなんだけど」
歯切れの悪い彼女の言葉に、思わず首を傾げる。は徐々に俯きがちになり、とうとう目線を床に落としてしまった。
どこまで踏み込んでいいものか、彼女と同じように僕もまた箒を持ったまま目線を床に向ける。僕たちの履いた靴のつま先は向かい合っていて、どんなに目を凝らしてもそこには床の模様しか見えないのに、何故か僕は、そこに一本の太い線があるように感じてしまう。
重ねた日々の重さか、信頼の有無か、或いは生まれ育った国の違いによるものか。僕たちは今この教室に二人きりなのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
耳を澄ませば、教室の外の学生たちの声に紛れる様に、彼女の小さな呼吸音が届く。吸う、吐く、吐く。意識しているのだろうか、なぜだかそれはぎこちなく、僕はがんばれ、と思ってしまう。がんばれ、がんばれと。それに応えるように、やがて彼女は「私」と切り出した。
「……私、馬鹿って言っちゃった……」
泣き出す寸前のような声音だったけれど、のその双眸は乾いていた。
は掃除をしながら、ぽつぽつとローレンツの話をしてくれた。
誤解されやすいけど真面目な人で、その発言にも悪気はないのだ。貴族としての矜持を持っていて、だからこそそうでない自分のような人間を見ると苛々してしまうのだろう、と。
僕としては、ローレンツの気持ちも分からないでもない。一連の話を聞いたけれど、彼が怒ったのは、の優柔不断を責めてのことではないだろう、それは同じ男でなければピンとこないのかもしれない。相談する際に、彼女がクロードの名前を出したせいじゃないだろうか、それで自尊心を傷つけられたのではないだろうか。そういうことを僕は、心の奥に押し込めながら聞いている。
自分の代わりに課題の協力に立候補した件について、はローレンツと話をしたかったらしい。だけどいくら目線を送っても、彼はそれに応える様子もなく、結局一度も話ができないまま今日で一週間が経ったのだと口を尖らせて並べる彼女に、「話があるなら、から話しかけなくちゃ」と助言すれば、彼女は益々顔を顰めた。本当に、表情がくるくると変わる女の子だ。
箒を片付けようとしていたは、僕の意見に言い返す言葉がなかったらしい。目線を泳がすと、けれど不意に「あ」と呟いてしゃがみこんでしまった。何をしているのかと思って覗き込めば、どうやら箒を引っかける紐が切れてしまっていたようだ。解れた紐は経年劣化で傷んでほとんど使い物にならなくなっているように思う。あまり器用ではないのか、上手く結べないでいる彼女に「貸してください」と言えば、は「え?」と上目使いで僕を見た。
古くなった部分を懐の短剣で切ってから長さを調節し改めて結び直せば、は目を丸くする。
「道具なら使えない部分はこうして切っちゃえばいいですけど、人間はそうもいきませんからね」
だから、どんなに不格好でも醜くても、どう見たって結べないくらいにどちらか一方がほつれちゃっていても、何とかするしかないんですよね。
そう続けた僕に、はぽかんと口まであけて、呆けている。
「でも、どうにかしようと思えば案外結べるもんなんですよ」
手の中に残った、切り落としたばかりの傷んだ紐を結んで形を整えた僕に、は、と彼女が息を飲んだのが分かる。限界まで見開かれたその瞳は、窓からの光を受けて、きらきらと輝いていた。だから、あ、と思う。あ、きれいだな。と。
その双眸に、惚けた僕が映った。細められた瞳を縁取る睫毛が、緩く震えている。薄く色づいた頬、結ばれた唇、そういう彼女を構成する一つ一つに、僕の手はきっと届かないんだろう。が浮かべた笑顔に、僕はなぜか、そんなことを考えていた。