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 クロードくんがデアドラでの円卓会議から戻ってきて、私は彼にここ数日のうちに自分の身の回りに起きたことを報告した。ベレト先生に今節の課題協力を要請されたこと。迷ったけれど、自分の実力が追い付いていないことを理由に断わろうと思っているということ。
 クロードくんは私の言葉一つ一つに丁寧な相槌を打ってから、きちんと私の目を見て、「うん、そうだな。俺もやめておくべきだと思う」と結論づけてくれた。俺が代わりにベレト先生に断っておいてやろうか、とも言ってくれたけれど、それには首を振る。



「自分で言いに行くから、大丈夫」



 私の言葉に、クロードくんは「そっか」とだけ言うと、労わるように私の肩を軽く叩いた。気持ちは有り難かったけれど、この件に関しては自分の口から断るべきだと思ったのだ。
 私の意志を肯定してもらえたことにはほっとした。彼がその理由を問うこともなく、言葉少なであったおかげで、私のささくれだった心も少しは落ち着いたように思う。それでも私は、ローレンツくんとの間に起きたいざこざのことはクロードくんに話せなかった。
 あれだけ頻繁に私に声をかけてくれていたローレンツくんは、あれ以来目も合わせてくれなくなった。視線が絡みそうになると、私たちはどちらからともなく目を逸らす。そういう不自然さを持った二人が教室に居れば、誰だって首を傾げたくはなるだろう。思い返してみれば、最近の私たちは良く連れ立って歩いていたのだから。



ちゃんもローレンツくんも、何かあったのー?」



 ヒルダちゃんには喧嘩でもしたのかと尋ねられ、リシテアちゃんには「ローレンツ、一体どうしたんです? 妙に静かで気味が悪いんですけど」と眉を顰められた。実際、ローレンツくんは物思いにふけるようなことが増えたようだ。黙ってた方がモテるんだろうな、と思ったのは、どこか思い詰めたようにすら見える彼が、女子生徒の視線を集めていたからだ。それはもしかしたらリシテアちゃんが感じた不自然さと同じような感情からの視線だったのかもしれない。けれど、ローレンツくんは背も高いし、顔立ちだって整っている。あの口が閉ざされていると、それだけで絵になるのだ。通った鼻梁を横から眺めていると、しかし私はやっぱり口を真一文字に引き結びたくなる。



「一貫性がないのだよ」



 そう強い言葉でもって私の優柔不断さを指摘したローレンツくんは、別に間違ったことは言っていない。実際にアレキサンドルは時勢の流れに従う家だったし、そういう家系だからこそ私たちは幼馴染という関係性になったのだ。十余年前、年の近いローレンツくんに挨拶に行ったときだって、これからの同盟を担うグロスタールとより良い関係を結べるようにと、そういう打算が両親になかったとは言えないのだから。
 だから、もしもクロードくんが幼少の頃よりリーガンの後継者としてその存在を明らかにされていたとしたら、私とローレンツくんは互いに顔も知らぬままであったとしてもおかしくない。
 私自身も彼の指摘通り、選択を迫られると途端に迷ってしまう性格であることに間違いはない。そういう意味では、自分に自信がないのだ。散々考えあぐねてから、両親や兄に後押ししてもらってようやく決断を下すということがこれまでの人生に於いて何度もあった。自分の意志がないわけではなく、肯定されなければ進めない、そういう類のものであったけれど。
 だから、今回の課題協力の件についてだって同じだ。
 これまで幾度もの厄介な課題を乗り越えてきたルーヴェンクラッセの生徒たちと違って、私には経験と言うものが足りない。いきなり実戦に飛び込んでまともに戦える気はしなかった。ただでさえ序盤の出遅れが響いている私には荷が重すぎる案件だったのだ。
 もしも参加すれば、その経験は確実に身につくし、刺激にもなるだろうとは思う。ベレト先生は実力のある人だし、アッシュくんやイングリットちゃんがいるならばルーヴェンクラッセでも居心地の悪い思いはしないはずだ。だけど、やっぱり迷惑をかけずにいられる自信がない。武器を持ち、こちらの命を奪うつもりでやってくる相手を前に、決して身が竦むことはないとは言い切れないのだ。
 それに、きっと思い出す。あの大樹の節の夜のことを、鮮明に。私は口を開けた肉をまだ覚えているし、あの時の恐怖や痛みを、忘れることなんてきっとない。もしも同じようなことが起きたら。その可能性は確かにあるのに、だけどその時傍に居てくれるのは、マリアンヌちゃんでもローレンツくんでも、クロードくんでもない。
 私はそれが、何よりも恐ろしい。







 
「先生ですか? いえ、授業が終わってからは見ていませんね」

「そっか〜……ありがとうイングリットちゃん」

「もしも見かけたら、が探していたと伝えておきましょうか」

「うん、助かる! お願いします!」



 ルーヴェンクラッセの教室にベレト先生の姿はなかった。丁度教室に戻ってきたイングリットちゃんに言伝をお願いしたけれど、どうしたものか。まだ課題協力の答えを保留にしてそう日は経っていないとは言え、もう自分の中で決断を下した以上、早々に断ってこの問題に決着をつけたい。
 燦々と照りつける太陽の下を歩くのが億劫で、なるべく日陰の部分を歩きながら、学生や信者の方々の中にベレト先生の頭がないものかを捜す。授業がなければほとんど研究室や医務室に在中しているハンネマン先生やマヌエラ先生と違って、ベレト先生には特別に割り当てられた部屋というものがない。自室だって、未だに学生寮の一室が与えられているくらいだ。
 ベレト先生は、捜そうと思うと見つけられないし、そうでない時は視界の端でふらりと歩いていたりする。神出鬼没で気配が他より薄い。ラファエルくんくらい身体も声も大きければ、簡単に見つけられそうなものだけど、ベレト先生は簡単に周囲に埋没するくらいには目立たなかった。
 呼吸の問題らしいぞぉ、と、先日シャミアさんから呼吸法を教わったと言うラファエルくんの言葉を思い出す。気配を殺すための呼吸は「すー、はく、はく」だそうだ。真似してみたけれど、これがなかなか、意識せずにしようと思うと難しい。
 吸って、二度吐く、繰り返せば繰り返すほど酸欠になりそうだ。シャミアさんもベレト先生も、これを実践しているのだろうか。自分の歩く速度に合わせて習った呼吸をしながら、食堂へ向かう。生徒たちで混雑する長机の周辺をぐるりと見回したけれど、ベレト先生の姿はない。次に人が多い所と言えば大聖堂だけれど、元々敬虔な信者ではないのだろう。ベレト先生を大聖堂で見かけた記憶はほとんどなく、そこにいるとも思えなかった。



「誰を捜しているんだ?」



 ざわつく食堂で不意にそう声をかけてくれたのは、レオニーちゃんだ。食事中だったらしい彼女は食器を持ったまま私のことを見上げていた。彼女の快活な声はどこでも良く通る。



「ベレト先生なんだけど、知らない?」

「ああ、先生だったらさっき釣りしてたよ」

「え? 釣り?」



 思わず聞き返してしまった私に、レオニーちゃんは「そうそう」と小さく頷いた。



「たくさん釣り上げてたから分けてもらったんだ。食堂のおばちゃんたちに渡したから、夕飯は魚料理だな。隣で釣ってたアロイスさんが羨ましがってさー」

「ああ……釣りって静かにしてた方が良いって言うもんね」

「釣りの経験はほとんどないって言う割に、そつなくこなしちまうんだもんなあ。やっぱり、さすが師匠の息子ってだけあるよ」



 レオニーちゃんは昔、彼女の村に依頼を受けてやって来たジェラルトさんを師と仰いだ時期があったらしい。ガルグ=マク士官学校に入学したのも、その日々が根底にあったが故だそうだ。自分が入学した年にジェラルトさんがガルグ=マクに戻ってくるなんて、と目を輝かせていたレオニーちゃんは、けれど何となくベレト先生のことを意識している節がある。というか、彼女の場合は男性全般に対してそうなのだけれど。結局のところ、負けず嫌いなのだろう。ただそれが、ベレト先生に対してのみ、ジェラルトさんの息子であるという意味での僅かな憧憬と嫉妬という複雑な感情が込められているように思えた。
 何となく悔しそうな表情のレオニーちゃんにお礼を言うと、私はそのまま釣り池へと続く扉に向かった。ここから釣り池は、目と鼻の先だ。
 竪琴の節、私に釣りを勧めておきながら、自分は釣りの経験はないのだとベレト先生が言っていたことを思い出す。雨の日に一度釣竿を持っているのは見かけたけれど、以来彼が釣り池にいるのを見たことはなかった。勿論ベレト先生の行動を逐一監視しているわけではないし、最近になって趣味になったという可能性も捨てきれないけれど、でも、彼が釣りをしていると聞くと胸がざわめくような感覚を覚えるのは、あの日彼が私に向けて言った言葉が脳にこびりついて離れないためなのだろう。



「そういうのは、釣りでもすると気が紛れるらしい」



 やっぱりベレト先生は、私たちの知らないところで思い悩んでいるのかもしれない。
 食堂を出ると、容赦のない日差しが降り注ぐ。階段下に広がる釣り池の水面を反射する光に思わず目を細めた。そこに人影があることを、そしてそれがベレト先生であることを私は確かに認めたけれど、瞬間、駆け出そうとした足を止める。
 ベレト先生の傍に、見知った人物がいたのだ。
 二人は並んで水面を見つめながら、人が二、三人は間に入るほどの距離を保って、恐らく何かを話している。その後ろ姿を、私は嫌と言うほど知っていた。



「ローレンツくん」



 あの後ろ姿に、私は声をかけることができない。


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