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「ルーヴェンクラッセの今節の課題に協力してもらえないだろうか」
そうベレト先生に言われたとき、私はただただ困惑していた。
学級別に異なる課題が与えられたとき、課題協力という体で他学級の生徒を一時的に借り受けることもあるというのは話に聞いていたけれど、特別秀でているものもない自分には関係がない話だと無意識に思っていた節もあるからだろう。
しかしベレト先生の目は真っ直ぐに私を射抜いていて、私の反応を待っている。聞き間違えたわけでも、勘違いでもないらしい。
課題協力。私がベレト先生の学級で、ベレト先生や級長のディミトリくんの指示の下、動く。それは何だか絵空事のようで、現実になるとは思えなかった。無理だ。だけど、この強い双眸の前で、今そう言う勇気が私にはない。
「……保留、にさせてもらっても、いいでしょうか」
やっとの思いでそう口にしたとき、ベレト先生は瞬きを一つした。考え込むように目線を右下あたりに落として、それから手の甲を口元に当てた先生は、まるで何かについて深く思案しているような顔付きであったけれど、幾らかの沈黙の後、「構わない」と抑揚のほとんどない声で答えたのだった。
明確な保留期間を指定されたわけではないとはいえ、あまり時間を置くのも良くはないだろう。待たせないようにしなくては、と思いながらも、しかしそうして深く思案に耽ったところで、ベレト先生が私に頼んだ理由というものは分からないままだった。
ルーヴェンクラッセの課題に協力する。私が。なぜ。
私はベレト先生と別れた直後から、そのことばかりを考えていた。授業も上の空で、その日の夜に至っては、大浴場に行く時間になっても現れない私をヒルダちゃんがわざわざ呼びに来てくれたほどだ。心ここにあらずである状態を察知したヒルダちゃんには心配されてしまったけれど、自分でも理解しきれていない状況をどう相談したらいいのか分からなかった。
それに、私が相談を持ちかけたところでヒルダちゃんの答えは聞くまでもなく分かる。「えー? 危なくない? やめておきなよー」だ。
実際妄想の中のヒルダちゃんの言葉は正しい。今節のルーヴェンクラッセの課題と言えば「英雄の武器を持った盗賊の首領を征討すること」だ。ただの賊の討伐でもなければ、その後処理でもない。危険が伴うのは間違いないが、とは言えそれを理由に断るのは士官学校の生徒としては問題だ。
まずはクロードくんに相談すべきなのだろう。ヒルダちゃんと大浴場に向かって歩きながら、灯りのついていない、彼の部屋の窓を見上げる。
クロードくんはまだ、デアドラから戻らない。
「何かあったのか?」
翌日食堂での昼食を終えた私に、そう声をかけてきたのはローレンツくんだった。
私は思わず自分の頬を触って表情筋の変化を確認してしまう。顔には出ていなかったと思うのだ。思い悩んでいると言っても何か精神的な負荷がかかるような類のものではなかったから、食欲が湧かないと言った変化は起きていなかったし、今日一日だって、ヒルダちゃんに心配をかけないようにいつも通りに振舞ったつもりだったのだから。
露骨に態度に出ていたとは思わないのに、と探るようにローレンツくんに目線を送れば、彼は「ぼんやりしているようだったからな」と得意気に目を細めて見せる。ローレンツくんは、こういうところがやたらと鋭い。
「う〜ん」
しかし、どう相談したものか。食堂を出て教室の方へ向かいながら、視線を彷徨わせる。
丁寧に剪定された庭木の葉が、翠雨の太陽の強い光を受けて輝いていた。その眩しさに目を細めていると、その木の奥に見知った人影を見つける。ベレト先生とルーヴェンクラッセの級長のディミトリくんだ。二人から目を逸らして、突然方向転換した私はさぞや不自然だっただろう。食堂の外壁に沿う形で植木の作る道を早足に抜けていく私を、ローレンツくんは追ってくる。
「待ちたまえ、どこへ行く」
「厩舎にでも行こうかなあと」
「今日の飼育当番は君ではなかっただろう」
「突然馬に会いたくなるときってない……?」
ローレンツくんは私の隣を歩きながら、ちらりと背後に目線を送る。今の一連の挙動で彼がどこまで実情を把握したかは定かではないけれど、私がベレト先生かディミトリくんのどちらかを避けたのだろうということは彼にも分かったようだった。
はあ、とため息を吐いたローレンツくんは、大人しく厩舎まで着いてきてくれた。しかし、未来の同盟のため、結婚相手探しに余念の無いローレンツくんは、その貴重な時間を私に割いていいのだろうか? さっきだって、食堂で別の学級の女の子に声をかけているところを私はしっかり見ている。鬱陶しがられていることに彼自身は気が付いていないようだったけれど。
だけど、正直に言うとほっとした。私はこの問題に一人で向き合うことができそうになかったのだ。ベレト先生に、どういう風に返事をしたらいいのかも分からなかった。
何かを選択しなければならないとき、決定に至るまでが長い私は、簡単に言うならば優柔不断なのだ。一度思い悩んでしまった時点で、その問題の深みにはまってしまう。理学の勉強なんかと一緒だ。閃きがなければ、ずぶずぶと沈んで抜け出せない。
今回の問題に関しては、自分の中で答えは出ている。「無理」って。だけど、これでいいのだろうか、とも思うのだ。中立の視点を持つ誰かの意見を聞きたい。さらに言えば、私の選択は間違いないと背を押してほしい。
クロードくん不在の今、今回私が直面している問題について一番真摯な解答をくれるのはローレンツくんであるように思えた。厩舎では当番の人が水の交換をしているのが見えるが、この距離では会話の内容までは届かないだろう。
「……あの、ちょっと相談が」
「ほう? 相談」
任せてみたまえ、品行方正、容姿端麗にして才気煥発のこの、ローレンツ=ヘルマン=グロスタールに! と続くかと思いきや、ローレンツくんはやけに静かだった。表情を窺えば、しかし彼がぐ、と堪えているのが分かる。声をあげて注目を浴びることを避けようとしてくれているのだろう。だけどその口元が隠しきれないほどに緩んでいる。ローレンツくんは、元々他人から頼られることが好きなのだ。
けれど、「実はね」と切り出した私に、ローレンツくんの顔色ははっきりと変わった。
「……が?」
何と言ったらいいのだろう。その目に不信感と驚愕が滲み、整った眉が僅かに歪む。
手の甲を顎に押し当てたまま、彼は私の顔をじっと見つめた。「ベレト先生がそう言ったのか?」疑うというよりは、確かめるような口調だった。慌てる必要もないのに、何故か焦ってしまう。
「うん、あの、でも別に、私じゃなくても良いんだとは思う。偶々声をかけやすかったんじゃないかな。……だって、私なんかより他にももっと適役はいるんだし……」
例えば、剣の使い手が欲しかったのなら、イグナーツくんでも、アドラークラッセの生徒でも良かったはずだ。アドラークラッセに所属している、ブリギットからの留学生であるぺトラちゃんなんか、私より余程戦い慣れているのだから。
「まずはクロードくんに相談すべきだとは思ったんだけど……ローレンツくんはどうしたらいいと思う?」
ローレンツくんは、けれど何か思案するように目を伏せる。思いもよらなかった反応につい言い訳がましい言葉を並べ立ててしまったが、彼は壁に背を預けたまま私の言葉には何も反応してくれないから、私はすっかり困惑してしまった。
頭上でぴいと音をたてて飛ぶ鳥はなんだろう。私の背後では、馬の飼育当番と思しき生徒が「ああっ! おいそれは食うな、それは餌じゃねえ!」と叫んでいる。何を食べられたのだろうと振り向けば、カスパルくんが教本らしきものを馬から取り返そうと躍起になっていた。
居心地の悪さをそうと自覚しないようにと、馬の嘶きや生徒の話し声に耳を傾けていると、ずっと黙りこくっていたローレンツくんが「それで」と不意に呟く。
「君はどうしたいんだ? ルーヴェンクラッセの課題に出向く気はあるのか?」
彼のその声に、私は思わず背筋を伸ばした。真摯な答えをくれるだろうと思っていた。だけど、その声音はいつもの何倍も低い。怒っているようにすら思えるほどに。
「その話を聞かされた以上、僕にも意見はある。だが、君の意志はどうなんだ? 僕が行けと言ったら行くのか? 行くべきでないと言ったら納得するのか?」
「え、ええ、ちょっと待って、ゆっくり話して」
「他人の意見に左右されるのは、君の……いや、アレキサンドル家の人間の悪癖だ。自分の意志を持たぬ人間に、貴族の責務は果たせない」
「待って、ていうか、なんで急にうちの話になるんですか……」
「前々から思っていたことだ。アレキサンドル家は大勢につく。一貫性がないのだよ」
「た、たいせいにつく? そんなこと……」
ない、とは言い切れない。
うちは弱小貴族だ。土地も小さければ、領民も少ない。ほとんどが穀倉地帯となっていて、リーガンやグロスタールに作物を買い付けてもらうことでようやく成り立っている。自足自給、近隣の領地の台所、そう言えば聞こえはいいかもしれないが、その分武力をほとんど持たず、万が一、戦が起これば他の領地に助けてもらう他ない。
一方で円卓会議にて決議された物事について異を申し立てたことなどなく、決定事項には常に従うのが我が家だ。それがリーガン主導であれ、グロスタール主導であれ、結局のところ関係がないのだ。長いものに巻かれる、そうすることでアレキサンドルは領土を守り、細々と存続し続けてきた。
グロスタール家のローレンツくんが、それについて憤りを覚えるのは分かる。リーガン主導であったこれまでの時代が終わろうとしていた去年まで、その流れを汲んでグロスタールに近づいていたアレキサンドルは、クロードくんという時期当主の存在を以てして徐々にその立場を変えてきている。それを彼は、一貫性がないと非難するのだ。
でも、それとこれとは、違うんじゃないだろうか。今は家の話じゃなくて、私個人の話をしているのに。
「君は僕にどうすべきかと問うたが、まず己の意見を持ちたまえ」
「え、ちょ、ま、まって、わ、私は」
「この件で僕とクロードの意見が割れたらどうする。君は君の両親のように、どちらがより主導権を持つかを考慮した上でその主張を是とするのか?」
こんなローレンツくんを、私は初めて見た。
彼はいつも貴族の責務を説いていた。そんな彼からすれば、私の優柔不断さは耐えがたいものがあったのだろう。だけど、こんなに一方的に責めたてるような言い方をしなくたっていいんじゃないだろうか。彼が食事に誘うような、立派な、グロスタールに相応しい貴族の女の子たちには、彼はこんな顔はしないのに。
そう思ったら何故だか急に泣けてきた。ここで泣くのは、ずるい。そもそも、私は何に傷ついているのだろうか。家の在り方を否定されたことか、それを私個人にも当てはめられたことか、それとも、ローレンツくんが相手だからなのか。泣いてはいけないと分かっているのに、胸の内側からじゅくじゅくとした腐った感情の波が、皮膚の外に向かって滲出していく。
泣くな、泣くな、言い聞かせるように脳内でそう反芻させても、いくら拳を作って手の平の内側に爪を食い込ませても、意志とは裏腹に視界が滲んだ。
その奥で、ローレンツくんが息を飲んだことだけは、分かった。
ベレト先生は何を考えているのだろう。
の話を聞いて最初に思い浮かんだのがそんな疑問だった。は足の怪我から復帰して間もない。徐々に調子を取り戻し始めているとは言え、それは訓練での話に過ぎなかった。実戦経験の一度もない学生に、担任でもない教師が課題協力という形で実戦を強いるのは如何なものなのだろうか。しかも、賊とは言え英雄の遺産を持つ男を相手に。
癒し手としての補助要員を要してならば話は分かる。前線に出さなければいいのだから。しかし彼女の場合、扱うのは剣や槍だ。戦場に於いて最前線で戦うこと以外で彼女が役に立てるとは到底思えない。ルーヴェンクラッセの担任教師は、つまりを危険に晒すことを前提として話を進めているのだ。少なくとも彼女には、引き受けるだけの得がない。
経験と安全性を秤にかけたとき、自分であれば経験を重要視するだろう。だが彼女は別だ。アレキサンドル家の、継承権を持たない息女。そこまで本気でないと彼女は言うが、結婚相手を探すことを第一に考えている以上、がこの士官学校での生活に於いて必要以上の危険を背負う必要はない。
やめておきたまえ、そう言うつもりだったのに、彼女は僕に尋ねた。「まずはクロードくんに相談すべきだと思ったんだけど……ローレンツくんはどうしたらいいと思う?」それに、自分でも信じられないほど、憤ってしまったのだ。
余計なことまで言ってしまった。彼女の家まで否定してしまったのは、やりすぎだった。みるみるうちに表情が曇っていくを見て、しまったと感じたはずなのに、口が止まらない。
相談を持ちかけてくれたことは嬉しかった。クロードがいないが故だろうとは知っていたけれど。それでも頼られていると実感できたから。
僕は、けれど、彼女に、全てを他人に委ねるような女性であってほしくなかったのだ。そう言えば聞こえはいいのかもしれない。きっと底には別の何かが渦巻いていた。だからこそ今、クロードと自分のどちらの意見を選ぶかなど、聞くべきではなかった。分かっていたのに止まらなかった、これは僕の未熟さが招いた、その結果だ。
瞳を潤ませたは、僕をじっと見つめた。「自分の意見、ちゃんとあるもん」いや、ほとんど睨んでいたと言ってもいいのかもしれない。
「私は断るつもりだった」
でも、それで本当にいいのか自信がなかったから、ローレンツくんの意見も聞きたかったんだよ、口を挟ませてくれなかったのはローレンツくんじゃん。そう続けた彼女は、手の甲で目を拭う。
「ローレンツくんの馬鹿」
貴族とは思えない俗な言葉を吐き出して、はとうとう走り出してしまった。追いかけるべきだったのだろう、だけど、僕は思わず伸ばしかけた腕を空中で止めてしまう。「あーあ、泣かせてやんの」聞き慣れた、けれど今この場で一番聞きたくなかった男の声が、背後にあったからだ。
「今のはお前が悪いよ、ローレンツ」
分かりきったことを吐き出すクロードは、丁度ガルグ=マクに帰還した直後だったのだろう。荷物を背負って薄い笑みを浮かべていたクロードに、僕は深いため息を吐く。