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花冠の節のガスパール城主の叛乱に続き、青海の節でレア様の暗殺未遂を企て処刑されたのは西方教会の人間たちだった。さらに翠雨の節では、王国の最北に位置するゴーティエ家に保管されていた英雄の遺産、破裂の槍が廃嫡されたマイクランによって盗み出されたと言う。
ここ数節の間に起きた重大な事件は全て王国領土内での出来事であり、その鎮圧、収束に動くのはいつも王国出身の生徒が集まるルーヴェンクラッセだった。
アッシュくんに続き、シルヴァンさんまで身内に刃を向けねばならぬのか、そう思うと他人事ながらも胸が痛くなるけれど、当の本人は遠目から見るだけでは明るく、いつものように女の子を侍らせているのだから良くわからない。と言ってもそもそも元々のシルヴァンさんを私は良く知らないから、もしかしたらあれでも、元気はない方なのかもしれないけれど。
目が合うと、他の女子生徒に向けるのと同じように手をひらりと振られてしまったので、私はどうにか目礼だけをする。君は御しやすいからな。ローレンツくんの言葉が脳裏を過ぎったけれど、正しい対応がどんなものなのかが私にはわからない。
学級を越えての合同訓練は、実に三節前の竪琴の節以来だった。
あの時はまだ予後が芳しくなく、隅の方で見学をしているだけだったけれど、今回は私も訓練に参加できる。しかも弓ではなく剣の授業で、指導をしてくれるのはベレト先生だ。
花冠の節、復帰直後の訓練を制限されてしまったときだったと記憶している。皆に置いて行かれることが怖くて、つい自分と直接関係のないベレト先生に弱音を漏らしてしまったことがあった。表情がほとんどなくて、生徒にもそこまで関心を持っていないような先生だったから、聞き流してもらえるだろうと思ったのだ。
あの時先生は私に、剣を見てやろうかと言ってくれた、ような気がするけれど、直後に現れたクロードくんにより話が遮られてうやむやのままに終わってしまった。あれが雨による幻聴だったのかどうかすら、今ではもう曖昧だ。
ベレト先生は、かつてセイロス騎士団長を務めていたジェラルトさんの一人息子で、幼い頃からジェラルトさんにくっついて傭兵として生きていたらしい。界隈では表情もなく淡々と賊たちを屠るその姿から「灰色の悪魔」と恐れられていたとかなんとか聞いたけれど、さもありなんだ。ベレト先生の剣技は群を抜いている。打ち合っている姿を見ると、それが良くわかる。一人ずつ、修練度別に力加減をしているようには見受けられるから、それでもあれは本気ではないのだろうけれど。
ルーヴェンクラッセの、黒い髪の男の子なんかを相手にしているときが一番気を抜いていなかったように見える。彼はいつも訓練場にいて、その目つきがあまりにも鋭いと言う理由からあまり目を合わせようともしてこなかったけれど、力も速さも私とは比べ物にならないくらいで、ベレト先生と同等に渡り合っているようにすら見えるその姿には圧倒されてしまった。
私はと言うと気合いが入りすぎていたのか、先生と剣を重ねた瞬間にするりと受け流されてそのまま軸を崩した。体勢を立て直したところまでは良かったが、ベレト先生の方が速い。皮膚を掠める剣先を見極めるのに必死で、彼がどの程度の力加減で私を相手してくれていたかは分からなかった。
ヒルダちゃんに言わせれば、「あの剣捌きにあれだけ対応できるなんてすごいよー」とのことだけど、ほとんど打ち返せなかったのだから誇れることでもない。
そもそも剣を扱う時の指の加減がおかしいとは後でベレト先生からいただいた総評だ。
「親指と人差し指に無駄な力が多いから変な癖が出る」
教本にも載っているような初歩中の初歩の指摘だったけれど、癖になっていたそれは確かに今更意識したことなんかなかった。握り直して確認する。私は剣を両手で持つから、十本全ての指の力が均等になるように意識する。アッシュくんを指導するベレト先生の動きを観察して、何度かそのまま振ってみた。
太刀筋が矯正されたような気がするけれど、身につくにはもう少し時間がかかりそうだ。
授業が終わって訓練場を後にしようとした私の名前を、誰かが呼んだ。
とはっきりそう呼ばれたから、私は勝手にその人の可能性を頭から除外していたのだけれど、振り向けばそこにいたのはベレト先生だったから、思わずたじろいでしまう。
「……? 何故驚く」
「え、ああ、名前、覚えてくれたんだなあって思って……この前は忘れられてたので……」
「そうだっただろうか」
不思議そうに目を瞬かせてから首を傾げるベレト先生からは、先ほど剣を握っていたときと同一人物とは思えない。表情のない人だと思っていたけれど、普段は私が思っているよりも気を抜いているのかもしれないと、何となく感じる。
「もう訓練に出て良かったのか」
「先生、それ私、前も言いましたよ」
「……そうだっただろうか」
「言いましたよ。課題も訓練ももう出られるんだって、雨の日に、釣りをしてたじゃないですか、先生」
「…………」
あまりにも反応が薄いから、私の方が心配になってしまう。
ベレト先生は私のことをまじまじと見つめていた。標高が高いとは言え、さすがに翠雨の節ともなればガルグ=マクも気温が上がる。訓練の後なのだから猶更汗が流れていて然るべきなのだが、目の前のベレト先生は言葉通り涼しい顔をして、その肌には一筋の汗も滲んでいなかった。
人間じゃないみたいだ。
ふとそんなことを思う。私は先生の表情が変わるところを見たことがない。ルーヴェンクラッセの生徒でないから、そんなことを思ってしまうのかもしれないけれど。
私が彼の目を見た瞬間、ベレト先生は「ところで」と、あまりにも唐突に口を開いた。
「ルーヴェンクラッセの今節の課題に協力してもらえないだろうか」
私はそれを、すぐに飲み込むことができない。
ヒルシュクラッセの、=フォン=アレキサンドル。
大樹の節の課外活動中、賊に襲われた際に足に重傷を負ってしまい、約二節に渡ってその行動に制限を課せられていたのが彼女だ。士官学校の中では身体つきも平均程度、剣はそれなりに扱えるようだが、群を抜いているという程ではない。
記憶力が良いのは分かる。いや、記憶力というよりも、人のことを良く見ている。と言う方が正しいか。他人を見るとき、自分とは違うところに目を向けているのだろう、とは思う。そしてそれが本来の人としてのあるべき姿なのだろう、とも。
アッシュの養父が叛乱を起こした花冠の節、大聖堂でアッシュが誰かと話し込んでいるところを偶然見かけた。長椅子に並んで座って、一体どんな話をしていたのかは分からない。けれど、記憶の中では強張るばかりだったアッシュの表情が、酷く穏やかになっていることにだけは気付いた。
相手は、ヒルシュクラッセに所属する少女だった。
アッシュはあの頃酷く落ち込んでいた。養父が何故叛乱など起こしたのかを理解できないと彼が喘ぐように吐き出したとき、自分は彼になんと答えるべきだったのか、それが今でも分からない。
課題として、ガスパール城近くのマグドレド街道まで後処理に向かうことが決まっていたが、同じ戦場に立つだけでも辛いのではないだろうかと思いつき、ガルグ=マクでの待機を打診した自分に、しかしアッシュは緩く首を振った。青白い顔が、噛みしめて色を失った唇が、けれど鈍い光を放っていた双眸が、アッシュの意志の強さを物語る。
「いいえ、ベレト先生。僕にも行かせてください、お願いします」
分からないのだ、と思う。
昔からそうだ。自分は、父以外の人間とまともに接したことがない。依頼はいつも父を介し、向かい合うのは武器を持った敵ばかり。金のため、相手の話も聞くことなく、物言わぬ障害としてただただ斬り伏せて生きてきた自分には教師になる資格などなかったはずだ。だのに、なぜ今こんなことになっているのだろう。
脳内に棲みつく少女がため息を吐く。
「余程乾いた半生を送ってきたんじゃのう、おぬし」
その通りなのだから、反論もできない。
自分は恐らく何か感情的な部分が欠落していて、けれどその欠けた部分が、教師と名のつく人間にこそ必要なものなのだ。自分は、生徒を支えることが出来ない。相手が何を求めているのかを察知できない。困っていることや、苦しんでいること、そういう状況に直面していることそれ自体は分かっても、そこから救い出すために何が必要なのかを知らないという点では、本当の意味で理解はできていないということなのだろう。
「釣りでもすると気が紛れるぞ」
自分にそう教えてくれたのは、紛れもない父だった。恐らく何の解決にもならないことを知っていながら、それでも自分は釣竿を取った。幸い、ガルグ=マクには釣り池がある。釣れた魚は食堂に提供することもできるのだと教えてもらった。そうして一人釣り糸を垂らしながら、何が悪かったのだろうと自省する。教え子の悲痛な面持ちを目の当たりにしても心が動かない、己の冷酷さを、いや、それを冷酷だと思えない自分がいることを、本当は恐ろしいと思うべきなのだろうと知っていた。
その日は雨が降っていた。だが、雨避けの外套を被るほど酷くもない。悪天候の中の依頼ならばこれまでいくらでも経験しているし、釣りで命を奪われることはないのだから天候なんて関係ないだろう。釣り池に落ちる滴の音が心地よかった。ぱた、ぱた、一定の感覚で音をたてるそれは、幼い頃父の背に耳を当てたときに聞いた心音に似ていた。
気配は感じていたのだ。それが近づいてきたことも。躊躇ったような呼吸の音が、雨音の中ほとんど雑音のように届いていたから。
「ベレト先生」
釣れますか。雨の中、釣り糸を垂らす俺に声をかけたのは、どういう方法でかアッシュを元気づけた、あの少女だった。
「ヒルシュクラッセの」
すぐに名前が出て来なくてそう言えば、彼女は素直に自分の名前を名乗ってくれた。。そうだ、=フォン=アレキサンドル。怪我を負って、座学以外の活動を禁止されている女子生徒。
あれだけ表情の暗かったアッシュは、大聖堂で彼女といるところを見かけて以降、どこか吹っ切れたような目をするようになった。恐らく、ルーヴェンクラッセの生徒に胸の内を明かすことはしたくなかったのだろう。ならばアッシュにとって、学級の異なるこの少女の存在はどれほど救いになったことか。
自分は本来、そういう役回りをすべきなのではないだろうか。そう考えはするけれど、同時に、無理だろうとも思う。自分は所詮戦うことしか知らないのだ。武器の扱い、戦場での立ち回り方、戦略の立て方、そういったことを教えることはできても、生徒一人一人の困難の乗り越え方など知らない。相手がどんな言葉を求めているのかを気づけない。思いやる、その言葉から自分がどれほど遠いところに居るかを知っていても、歩み寄り方が分からないのだから、自分はいつもある一点から微動だにできない。
シルヴァンのこともそうだ。自分は、彼の兄が英雄の遺産を盗み出し、盗賊の頭としてそれを振るっていると聞いたところで、彼に何と言葉をかけてやるべきか、他方でどうすべきなのかも分からなかった。征討せよ。ガルグ=マクにいるものとして、そう口にすることが正しいことだとは知っている。だけどシルヴァンが絞り出すような息を吐き出した、そこに込められたなにかも、自分には理解が及ばない。
を含め、ここにいる生徒たちはそれが簡単にできるだろうに。
そう言う点で彼女を評価していたとは言え、今回頼みごとをしたことに他意はない。
どのみち今回の授業で、ヒルシュクラッセかアドラークラッセの誰かに声をかけるつもりでいたのだ。何せ、その辺に出没するような賊とはわけが違う。今節我々が相手取るのは、英雄の遺産と呼ばれる武器を持った男だ。人手が欲しかった。それだけだ。
「ルーヴェンクラッセの今節の課題に協力してもらえないだろうか」
彼女でなければいけない必然性といえば特になかった。勿論、ある程度今日の授業の動きを見てということもあったし、連携のことを考えれば多少なりともうちの学級の生徒と親交のある生徒であってほしい、という狙いはあったのだけれど。
頭の中で、笑い声が反響する。「おぬし、その頼み方はちと頂けぬぞ。見てみい、困らせておるではないか!」この脳に棲みつく少女、ソティスは、歯に衣を着せると言うことを知らない。
ソティスの言葉通り、目を丸くしたまま固まった彼女は、瞬きもまともにせぬうちに「はあ」と困惑するように、縦とも横ともつかぬ形で首を振った。身体の前で組まれたその手は、恐らく自分を、無意識のうちに拒絶している。