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大方の予想通りと言うかなんというか、クロードくん不在のヒルシュクラッセで、ローレンツくんは実に生き生きとしていた。
授業にも訓練にも前のめり、直接彼に関係のない、ちょっとした会話なんかにも首を突っ込んでくるローレンツくんにリシテアちゃんが大分苛立っていたのでつい彼の名前を呼ぶ。彼の自尊心を刺激すると後々面倒だから、「理学で分からない問題があってね、教えてもらえるかな」と申し出れば、彼は「仕方がないな」と言いながらも私の勉強を見るために手近な椅子を引いた。
リシテアちゃんは後で私に「助かります。クロードがいないんじゃ、ローレンツは普段の倍は調子に乗りますからね」と耳打ちしてくれたけれど、実際理学の問題で困っていたのは確かだったので、問題はないどころか付きっ切りで見て貰えて助かったのだ。ローレンツくんは私がどういうところで引っかかるのかを最初から分かっているみたいに、あまりにも適切な助言をくれる。
とは言え最近は以前よりも、ちょっとだけ手が止まる問題の難易度が上がっている気がする。何となくそう自覚していたところもあったけれど、実際ローレンツくんにもそう指摘してもらえたということは私の勘違いではないらしい。
「なかなかどうして理解が早いじゃないか。僕の教え方が良いのは間違いないが」
余計な一言さえなければ、彼はもう少し他人に良い印象を与えるだろうにと、お節介なことを考えてしまう。
他方で大樹の節の学級別対抗戦の折に副官に抜擢されたヒルダちゃんは、クロードくんの不在にいつもの倍は気を抜いていた。
「クロードくんってあたしが手を抜こうとするといちいち一言残していくでしょー? おかげで最近は周りを見る癖がついちゃってねー。でも本人がガルグ=マクにいないんだったら、さすがに私に苦言を呈することも不可能なわけだしー、ちょっとの間だけど満喫しちゃおーっと!」
愛らしく微笑んでそう言うヒルダちゃんは、同性の私でも見惚れてしまうくらいに可愛い。私も男の子だったら、大多数の学生や騎士たちと同じようにヒルダちゃんの我儘をいくらでも聞いてしまったんだろう。そんなことを考えながら、早速草むしりの当番を替わってもらっている彼女の後ろ姿を眺めている。
クロードくんがガルグ=マクを発ってから数日が経っていた。
理学の勉強に限らず、翠雨の節になってからというものの、私の調子はすこぶる良かった。剣も槍も自在に振るえたし、先日の剣の訓練では唯一敵わなかったイグナーツくんに初めて勝ち越した。と言っても五本中の三本だし、うち一本は完全にまぐれだったけれど。槍の訓練中にシャミアさんから筋が良いと褒めてもらえたし、私は身体を動かすことが楽しくてたまらなかったのだ。自分が怪我をしていたことすらも頭から消えてしまっていた程度には。勿論、長い靴下を脱いでこの太腿に残った痕を視認する度に、その存在を思い出してしまうのだけど。
ヒルダちゃんではないけれど、クロードくんもまだ帰ってくる様子はないし、ちょっとくらい無茶してもいいかな、なんて訓練場に残る私を、しかしローレンツくんは毎度見張ってでもいるかのように連れ戻しにやって来た。級長代理を務めるだけある。
「クロードが不在である以上、君を見張るのも僕の仕事だからな」
と、ローレンツくんは言うけれど、そもそも級長の仕事に「私を見張ること」が含まれているのはおかしくないだろうか。
「ヒルダちゃんは良いのに?」
不公平だ、と口を尖らせる私に、ローレンツくんはぐっと言葉を詰まらせる。
「……ヒルダさんのことも気を配ってはいる。ただ、気が付くと最終的には何故か彼女の仕事を引き受けてしまうことになっているのだ」
「ああ……相性の問題かな……」
「は御しやすいからな、気を付けたまえ。妙な男に手玉に取られることのないようにな」
「今まさに手玉に取られている気がする」
「気のせいだろう」
訓練場から二人で肩を並べて教室までの道を戻る道中、女の子たちの楽しげな声を耳にして思わず顔をあげる。
ちょうど私たちとすれ違うような形で歩いてきたその集団は、一人の男の人と数人の女の子から成っていて、私は特に考えもせずに道を譲ろうと脇に寄った。女の子たちに取り囲まれるような形で歩くその男子生徒は常日頃から女性を傍に置いていたから、余程人気があるのだろうと思っていたけれど、正面から見てみるとなるほど確かに彼は整った顔立ちをしているように思う。
女の子たちも楽しそうだし、きっと会話も上手なんだろうなあ、なんてぼんやり考えていたら、すれ違う寸前で、その人と目が合ってしまった。たれ目がちの瞳は、近くで見ると思ったよりもずっと優しげだった。なのに、私の隣を歩いていたローレンツくんは彼とすれ違った後「ああいう男だよ」と吐き捨てるように言うから、私は「はい?」と聞き返してしまう。
「異性に慣れていない君は、ああいう男にこそ気を付けたまえ。女性と見れば口説くあの男こそ貴族の風上にも置けない」
「ええ〜ローレンツくんがそれ言うの? いっつも女の子に声かけてるでしょ」
「……僕は声をかける相手は選んでいる。グロスタール家の後継として相応しい妻を娶るのが僕の責務だからな」
「そういうことあまり大きい声で言わない方が良いよ……」
「そうそう。身分に限らず、全ての女の子には敬意を払わなきゃな。ローレンツ」
私たちの会話に割って入るように、背後からそう声をかけられて思わず振り向く。だけど、私が完全に向き直るよりも早く、ローレンツくんが私を自分の背に追いやってしまった。士官学校の中でも長身のローレンツくんと私では背の高さが圧倒的に違うから、視界はすっかり彼の背に覆われてしまう。
「君の方は相変わらずだな、シルヴァン」
そう答えるローレンツくんの脇から顔を覗かせようとしたけれど、彼は背中に目でもあるのだろうか。今度は腕で制されてしまい、見えたのは彼と向かい合っているのであろう学生の左腕だけだった。彼は、ああ、そうだ、シルヴァンさんと言うんだった。ルーヴェンクラッセの生徒で、貴族の出だったはずだ。どうやら先の女の子たちとは別れたらしく、既に一人であることが雰囲気からも窺える。
「そちらにいるのは君の幼馴染っていう女の子かな? 確か前、アッシュとも話していたよな。俺は」
「、教室に戻っておきたまえ」
「へ?」
「おいおいおいローレンツ、今その子は俺と話してただろ」
「一方的に話しかけただけだろう。幼馴染に妙な虫はつけたくないものでね」
「この俺が虫とはねえ……幼馴染っていうのはそこまで過保護にならなきゃならないものか? 交友関係を育むのは自由だろ? 勿論、恋愛もさ」
ローレンツくんにさっさと行けとでもいうかのように身体を押され、私は二人からそっと離れる。だけど教室に入る直前、こっそり振り向けば、二人の声の大きさにか徐々に生徒たちが足を止め始めているのが分かって、戻るに戻れなくなってしまった。
「貴族の婚姻に必要なのは情ではないだろう」
「はー、お前……虚しいやつだな……」
「貴族に生まれておきながら、貴族の何たるかを理解できていない君こそが虚しい人間なのではないか?」
「ほ〜う、言ってくれるねえ」
剣呑な雰囲気になり始めた二人に、教室に戻ることを躊躇してしまう。このままでは殴り合いに発展しかねないのではないだろうか。今からでも戻ってローレンツくんを連れて帰るべきか。
「シルヴァン! 何をしているのですか!」
だけどその直後に響いた怒声は、不穏な空気を呆気なく壊してしまったのだった。二人の間に割って入ったのは、ルーヴェンクラッセに在籍しているイングリットちゃんだ。二つ隣の部屋で寝泊まりしている彼女とは、学級を異にしていてもそれなりに親交がある。とても真面目で、芯のある女の子だ。
彼女は「先生に呼ばれていたのでしょう! もうあなたも大人なのですから、約束の時間は守りなさい!」とシルヴァンさんを一喝すると、彼の腕を引っ張って連れて行ってしまった。矢張り相手が女の子であるためなのだろうか。シルヴァンさんも一言二言文句を言っているようであったけれど、彼女の手を振り払うような真似はしない。
大広間の裏口へと向かっていった二人を見送っていると、毒気を抜かれてしまったらしいローレンツくんが肩を竦めてこちらを振り向いた。
シルヴァンさんと共通点はたくさんあるように思うけれど、似たところがあればあるほどそりが合わないのだろうか。しかし、シルヴァンさんと聞いてどこかで引っかかるような思いがある。シルヴァンさん、シルヴァンさん。脳内で彼の名前を繰り返していた私は、「あ」と声を漏らした。
シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。
閃きのように脳に降ってきた彼の家名は、ゴーティエだ。
今節討伐を予定されている、英雄の遺産を盗み出したマイクランは、恐らく、彼の実の兄で間違いない。
イングリットちゃんと共に小さくなっていくその背中は、まるで、今節実兄を討伐する弟であるようには見えなかったけれど。
二人を見送る私に、ローレンツくん言葉もなくただ目を細めている。