■ ■ ■
クロードくんやベレト先生たちの予想通りに、女神再誕の儀のその日、大聖堂奥の聖廟にて侵入者が発見されることになる。
騎士たちの巡回は、レア様の身辺警護を優先していたことにより不十分であったとは言え、ルーヴェンクラッセ以外の二学級が周囲の警戒に当たっていた。にもかかわらず賊の侵入を知らず知らずのうちに許していたのは、その賊が王国にある西方教会に属する者たちであったためだ。
彼らは教会の関係者として堂々と正面からガルグ=マク大修道院に入り込み、聖廟へ足を踏み入れた。目的は聖者セイロスの棺にあったようだが、封印が施されていたらしいその蓋を開けるのに手間取っていたところ、聖廟を巡回しにやって来たルーヴェンクラッセと鉢合わせたと言う。
賊はそのままベレト先生たちにより縛り上げられた。逃亡者は襲撃を指揮していたという仮面の騎士のみだったと言う。
大修道院への侵入、大司教の暗殺未遂、聖廟の襲撃、そして前節のガスパール城の叛乱の先導。ガルグ=マク主導で進む教団の運営に否定的だった西方教会は、これらを通じて中央教会の権威失墜を狙っていた。今回捕まった彼らは処刑されることになり、西方教会自体にも調査と言う名の介入がなされることとなる。
「……はあ」
暗殺未遂、聖廟襲撃、それに伴う犯人たちの処刑の決定。今日はあまりにも目まぐるしい一日だった。私自身は、学級のみんなと共にただ聖廟の周囲を警戒していただけであったのに。
俄かに騒がしくなった大聖堂内の様子で、クロードくんの想像した通りに何か事が起きたらしいとは分かったけれど、決して持ち場を離れるなと指示されていた私にできることなんてなかった。大聖堂の外から、先日ドロテアさんと一緒に掃除したばかりの長椅子の一点をただただ見つめていた。あの時はこんなことになるなんて、思ってもいなかったな、なんて考えながら。
報告を受けて飛んできたカトリーヌさんや騎士の方たちの気色ばんだ必死の形相は、それだけ今回のことが重大な背信行為であるということを示していた。飛び交う怒号の中に身を置かねばならなかった緊張感から解放された今、私はこんなにも疲弊しているのだ。
解散の命を受けたことで皆はとっくに寮に戻ったけれど、私は教室の、自分の席に座っている。何だか部屋に閉じこもる気にもなれなかった。それと、一つ、思い出したことがあったのだ。クロードくんに渡しそびれてしまった焼菓子のことだ。
机の中から、二日前から置きっぱなしのそれを取り出して封を開けた。二日経ったからどんなものかと思っていたけれど、齧っても風味は変わっていない。捨ててしまうつもりでいたけれど、食べられるんだったら今ここで食べてしまおう。残りを口の中に放り込む。さくさくしてて、ほのかに甘くて、とても自分で作ったとは思えないくらいに美味しい。
自分でも知らず知らずのうちに緊張していたのだろう。昼間のことを思いだすと、まだ心臓が正常な動きをしていないように思えたけれど、甘いものの力は偉大だった。脳の端っこあたりから緩やかな痺れを伴った解放感が、少しずつ身体に染みわたっていく。
咀嚼しながら、それでも気分は完全に晴れないのだと考える。騎士の方々やルーヴェンクラッセの生徒たちが、拘束された侵入者を連れて私たちの前を通過していったとき、私は上手く呼吸もできなかった。「自分たちは騙されたのだ」「こんな予定ではなかった」喚く様に訴えていた司祭と思しき男性の震えた声が、彼の後ろを歩かされている修道士たちのどこか諦めたような瞳が、今でも張り付いて離れない。
「めでたしめでたし、とはいかないよなあ」
それを上塗りにするように響いたのは、クロードくんの声だった
背後からのそれに咄嗟に振り向いたけれど、教室の出入口に彼の姿はない。その代わりに、足音が近づいてきていることに気が付いた。恐らく、二人分だ。教室から見える石畳の奥の芝生が、いつもと変わらずに夕陽を受けて煌めいている。薄暗い教室に目が慣れてしまっていたらしい。その眩しさに思わず目を細める。そうしながらも私の耳は、まだクロードくんの声を探している。
「内部に協力者がいたんだろうよ。そうでなければ、あそこまで上手く潜り込めないさ」
協力者。いつもよりも低めの声色で形作られたその言葉に、私は目線を動かした。
壁の向こう、ちょうど私の席の真裏に位置するそこに、クロードくんと誰かの気配がある。直後に耳に入った聞き覚えのあるため息で、私はそれがローレンツくんだと気が付いた。
「随分と知った口をきくじゃないか。この大修道院内に、内通者がいるだと?」
「勿論可能性の話だ。セイロス教会はフォドラを牛耳っている。権力がある以上、その辺に敵がいたっておかしくないさ」
「口を慎みたまえ、クロード。君は曲がりなりにも同盟の次期盟主だ。そういう価値観や思考を持つのは自由だが、迂闊にそれを外に出せば、未来の同盟の存続にかかわる」
戒めるようなローレンツくんの声音は真に迫っていて、普段の彼とは少し違っているように思えた。貴族の女の子に声をかけるときとも、私の勉強を見てくれるときとも違う。
二人の間に緊張感が走っているのを、壁一枚隔てても感じてしまって、私まで落ち着かなくなってしまった。黙りこくったクロードくんは、やがて短い息を吐くと、いつもの調子で彼に答える。
「忠告、ありがとな」
ローレンツくんは、クロードくんの推理を突飛だと言い放った。レア様の暗殺計画を隠れ蓑に水面下で他の思惑が動いているという可能性を早々に切り捨てていた彼は、クロードくんの予想が正しかったことを受けて、一応はクロードくんを認めたつもりでいるのかもしれない。だって、普段はもっと、クロードくんに対しては感情的な人だったから。
「……君のとばっちりはごめんだからな」
その言葉の後、ローレンツくんの足音は遠くなっていった。残されたクロードくんのため息にも似た呼吸音と、そのあと彼によって呟かれた独り言を耳にしたのと、手にしていた食べかけの焼菓子を床に落としてしまったのは、ほとんど同時だった。思わず漏れた「あ」という短い悲鳴が、はっきりと教室に響く。声を、出してしまった。盗み聞きしていたことがバレた。心臓が早鐘を打っているような感覚に襲われる。どうしよう、どうしようと頭の中は混乱しているのに、私は床の上に転がった食べかけの焼菓子の行く末をきちんと目で追っている。
それが机の足にぶつかったのを確認して、身を屈めて床から焼菓子を拾い上げたとき、隣の椅子が引かれたことに気が付く。視界の端で、その足がぐ、と伸ばされたのが分かった。光沢のある靴の表面は、良く見れば傷だらけだ。級長を示す左肩の短い外套が、それを彼以外の何者でもないと伝えている。
「お疲れさん、」
クロードくんはヒルダちゃんの席に座ったまま私のことをじっと見つめていた。
膝の上で行き場をなくした焼菓子を両手で包み込みながら、私はすっかり、目を合わせることすら億劫になってしまう。緊張もさることながら、責められているように思ってしまったのだ。
「……あの、盗み聞きするつもりは……なかったの、ご、ごめんなさい」
「ん? そんなの良いよ。大した話じゃなかっただろ」
「えっ……そうかな……」
「そうだよ」
ガルグ=マクに、レア様を貶めんとする内通者がいるかもしれない。それって、真実であろうとそうでなくても、すごく、人に聞かれてはいけない話じゃないだろうか。もし真実でなかったとしても、下手な流布は教会の、ひいてはフォドラ全土の混乱を招くのだから。
だけど顔をあげれば、彼は有無を言わせぬような、何もかもを曖昧にねじ伏せるような笑みで私を見ているから、結局私はすべてを飲み込むしかなくなってしまう。
目線を手の甲に落とす。隠しきれていない、落下の衝撃で真っ二つになってしまった焼菓子を、無意識にもう一度割る。これはもう、食べられないな。そんなことをぼんやりと考える。丸い、手の平に握りしめれば呆気なく覆われてしまう大きさの焼菓子。もしも渡す相手がローレンツくんだったら、あの人は紅茶が好きだって知っている私はきっと茶葉でも一緒に練り込んで焼いただろうけれど、そういうこともできなかった。私はクロードくんのことをちっとも知らない。
「なーんか掴みどころないよねー、クロードくんてー。たまに目が笑ってなくないー?」
一緒に焼菓子を作ってくれたヒルダちゃんの言うとおり、クロードくんは自分の手の内側を滅多に見せてはくれない。だから、どうしたらいいのか分からなくなる。彼のことを知らない私は、何の変哲もない、小麦粉と砂糖とバターでできた焼菓子を作るしかなかった。
私はクロードくんがリーガン家の正式な後継者として現れた去年よりも前、彼がどこでどんなふうに過ごしていたのかを知らない。食べ物の好みも知らなければ、どうしたらもっと仲良くなれるのかも知らない。適度な距離を取られているのは分かる。私に対してだけじゃなくて、きっと、皆に対して。
「」
だから私は、彼に名前を呼ばれた時、一体彼が何を言わんとしているのかを一切察することが出来なかった。
「俺もそれ、もらっていいか?」
は? 空気と一緒に、そんな声が漏れた。
私が返事をするよりも早く、彼は机の上に置いてあった焼菓子を三枚まとめて抓んで、一気に口に放り込む。ざくざくとその口の中で、焼菓子が砕かれていく音がする。「え、あ、ええ?」困惑する私をよそに、目を見開いたクロードくんはうんうんと頷く。
「お、美味い。手作りか?」
「え、うん、そう、だけど」
「へえ。こんなもんが作れるのか。大したもんだな」
「で、でもそれ一昨日作ったやつで」
「ほー? 二日経つと駄目なのか?」
「……クロードくんが、駄目じゃないなら、いいけど」
私の台詞を待たずして、彼はもう一つ焼菓子を手に取る。
聡い彼のことだ、この何往復かの会話で、彼はもしかしたら察していたのかもしれない。二日前に作られた焼菓子が、自分のためのものだということを。クロードくんは目を細めた。それが酷くきれいだった。
私は彼のことが良くわからない。この笑顔が作ったものなのか、そうでないのかも分からない。ヒルダちゃんの言うとおり、きっと彼は本当に「たまに目が笑っていない」のだろう。私の目は盲目だから、彼を前にすると全ての判別機能が死んでしまう。
「ありがとな、」
クロードくんはそう言うと、私の頭をぽんぽんと軽く撫でた。それだけで胸に迫る何かがあって、ともすれば泣いてしまいそうだったのだけど、俯いて、唇を噛んで耐える。
「頭が固い奴」
ローレンツくんが立ち去った直後に彼が言ったその言葉の意味、更に深層にあるものを、今の私はまだ理解できないけれど、それでもクロードくんの、その手の平の温度だけは本物だった。
■
■
■
士官学校には節毎に学級全体で行う大がかりな課題の他にも各々の生徒が細かな奉仕活動に従事する必要があって、今週私に与えられた当番は書庫の整理だった。
大広間の二階にある書庫にはフォドラ中の書物が集められていて、初めて足を踏み入れたときは、あまりの蔵書量に度肝を抜かれた。しかも、書物の一部は定期的に入れ替えられているらしい。聞いたところによると、どこからともなく紛れ込んだ「相応しくない書物」がこの書庫にはあって、それをセテス様が処分なさっているのだとか。
その分を補充するための入れ替え作業だったわけだけど、これがまたちょっと厄介だった。よりにもよって梯子を登らなければ届かないような位置にばかり新しい本を収めるよう指示を出されてしまったのだ。しかもそれがやたらと厚い本ばかりで、梯子を登りながらも傷まないように細心の注意を払わねばならず、精神的にも肉体的にも疲弊してしまった。
最後に予め渡されていた表と確認して、一冊足りないことに気がついたときなんか最悪だった。片付けたばかりの書物を一冊ずつ確認していったとき、一番厚かった図録の隙間に件の本が挟まっているのを見つけてようやく安堵したけれど、全て終わったときにはもうすっかり陽が暮れていたのだから、自分の要領の悪さに泣きたくもなる。
最後まで付き合ってくれた書庫番のトマシュさんにお礼を言って外に出たときには、解放感と疲労で叫びだしてしまいそうだった。
「あ〜終わったあ」
我慢できず、ちょっと口に出してしまったけれど。ぐぐ、と背中を反らして伸びをしたとき「お」と聞き覚えがあるようなないような声が耳に届いて、私はそのままの姿勢でその人と目を合わせてしまう。逆さになった視界の中にいたのは、いつぞやの美しい男の人だったから、思い切り目を見開いてしまった。
「なんだ、良く会うな」
久しぶりに会ったな、そう思った私とはほとんど真逆の感想を口にするその人に不思議に思いながらも、慌てて身体を起こして体勢を元に戻す。
「こんな遅くまで何してんだ? 補習か?」
「ち、違います。補習じゃなくて、書庫の整理当番だったんです」
「はー、なるほどね。そりゃあ大変だ」
あまり同情的でもないように小さく首を傾げて笑うその人こそ、こんな時間にこんな場所で何をしているんだろう。私の背後から現れたということは、間違いなくこの大広間の棟からやってきたということだけど、もう他の生徒は誰一人歩いていないような時間帯だ。
「ま、あんま無理すんなよ」
あなたは何をしていたんですか? と口にしかけた私を見透かして制するように、彼は言った。
ここの生徒でないことは確かだ。でも、節を三つも跨いでも顔を合わせるくらいだから、ただの信者の人であるようにも思えない。やっぱり騎士団の人かな、それとも教団の人だろうか。分からないけれど、線を引かれてしまった以上はあまり踏み込まない方が良いということなのだろう。
ぺこりと頭を下げて彼に背を向けた瞬間、「あ、おい」と呼び止められたので振り向く。彼は自分の足を指さすと、「もう治ったんだってな。よかったじゃねえか」と、言うので、一瞬何のことか分からなくて言葉に詰まってしまった。だけど、そうか、足のことだ。そういえば、竪琴の節に声をかけられたときも、彼は私の足の怪我を知っていた。
なんで知っているんだろう。そういう思いを表情に思い切り出してしまったにもかかわらず、その人はただ目を細めて笑っているから、益々困惑する。なんと答えるべきかわからず「ありがとうございます」とお礼を言って今度こそ歩き出す。大分距離を取ってからちらりと振り向けば、彼はまだこちらを眺めていたようだったから、心臓がびくっとなってしまった。