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ロナート様の起こした叛乱の余波は今なお収束していない。
レア様の暗殺計画。ロナート様の所持品として見つかったその密書には、殿下や先生の言う通り、何らかの意図が隠されているのだろう。狙いは暗殺ではなく、どこか別の場所にあるはずだ。それを調査したところで、ロナート様がその心に抑え込んでいたものの正体を知ることができるわけではない。だけど、何もせずにぼんやりと過ごすことはできなかった。
根をつめるなと殿下は僕を気遣ってくださったけれど、じっとしていると、時間が過ぎ去るのがやけに遅く感じられる。容赦なく僕の首を絞める無数の腕の存在を、思い知らされるような感覚に陥ってしまう。眠れないまま寝所で考え事をするだけの時間に虚無を覚える、そういう自分に、僕は耐えかねていたのだった。
僕は書庫番のトマシュさんに頼み込んで、週に二度は日付が変わるギリギリまで書庫で過ごさせてもらっていた。一体ロナート様に何が起きたのか。何か僕の知らない過去が記されているのではないか。ここの蔵書は定期的に検査が入って、相応しくない書物は回収されているという噂があるが、それでも何か糸口がつかめないかと、僕は神経を尖らせる。
睡眠時間は取れていたけれど、眠りが浅いのは分かっていた。目の下に出来た隈は隠せそうもない。だけど、「大丈夫か」と、そう尋ねられる度に、煩わしくてたまらない。大丈夫なものか。そう返したら相手を困らせることを知っているから、僕は笑って「大丈夫ですよ」と答える。なんて猿芝居だ。
息苦しい。
「ねえ、やっぱりルーヴェンクラッセでも死神の噂ってあるの?」
「そうですね。僕もアネット……学級の女の子が話しているのを聞いたくらいですけど」
「ああ、や、やっぱり、ねえ、死神ってほんとにいるのかなあ」
「うーん、どうなんですかね。……死神と言うよりも、僕はお化けはいると思うんですけど」
「……いないよ何言ってるの」
「実は僕、小さい頃に見たことがあって」
「ギャー!」
脅かすつもりはなかったけれど、は大浴場へと続く階段の途中で耳を塞いでしゃがみこんでしまった。謝りながら手を貸す。彼女は何の躊躇いもなく僕の手を取って立つから、本当に困ってしまった。いや、僕だって何も考えず、彼女に手を差し出したわけだけど。
その手はしっとりと汗ばんでいて、柔らかい。僕と大して背丈なんて変わらないはずなのに、手の平は、僕よりも一回り小さいんだな、なんてことをぼんやりと考える。
「……アッシュくんてそういうの得意な人?」
「まさか! 僕もお化けは苦手です」
「そう言う風には見えないけど」
「うーん、そうですね。例えば使われていない、灯りもない真っ暗な塔に入るじゃないですか」
「入らないけど」
「いや入るとするじゃないですか。そのときに扉が閉まった、なんてことがあれば僕も叫ぶとは思いますけど」
ここ、外ですし。そう呟いて夜空を見上げれば、いくつもの星が瞬いている。お化けの類は勿論苦手だけれど、閉所の方が余程恐ろしいように思うのだ。閉所と、それによって作り上げられた暗闇という組み合わせを以てして初めて、僕はお化けの存在を意識してしまうのかもしれない。
「それに今僕が怖がったら、はもっと怖くなるでしょう?」
僕の言葉に、ぱっとが目を見開いた。
僕の目はとうに闇に慣れていて、彼女の輪郭も、表情の細部も、はっきりと分かる。だから、その頬が何となく熱を持っているように見えたとき、僕まで息を飲んでしまった。
掴んでいた手を慌てて離す。それを契機に、僕からぱっと目を逸らして、唇を引き結んでから残りの階段を駆け上って行った彼女は、今気が付いたけれど、寝間着姿に制服の上着を着ているだけという何とも言えない姿をしていた。薄い衣類の裾から見えた足首の細さに、動揺してしまっている自分がいる。
女の子だと意識していなかったわけではない。だけど、それは意識ではなく認識に過ぎなかったのかもしれない。階段を上り切り、大浴場のある方に曲がってしまった彼女を慌てて追う。「あっ」短い悲鳴のような音がしてひやりとした気持ちになったけれど、次に視界に入った彼女は灯りのすっかり消えてしまった大浴場を前に立ち尽くしていたのだった。
「暗くなってる〜……」
「ああ、やっぱりそうですよね。……日付も変わっちゃっていますし」
は明らかに落ち込んだ様子であるけれど、余程大切なものがここにあるのだろう。「明日……朝……いや、朝はまだ閉まってるもんね……昼過ぎに取りに行けば大丈夫かなあ……」そう言いながらも諦められないのか、鍵のかかった扉が開かないものか確認しているから、諦めたくないというのが本音らしい。怖がりらしい彼女がこんな夜中に一人で外を飛び出てきたのだから、当然だろうけれど。
「放っておいたら捨てられてしまいかねないものなんですか?」
「あ、それはさすがに大丈夫だと思う。首飾りだから……」
「首飾りか……じゃあ盗まれる可能性の方が高そうですね」
「ぬす……? ……ああ、ああ〜」
盗まれる、という可能性が頭になかったらしい。は僕の言葉に納得した様子で頷く。そうやって脳に情報を染み込ませたのか、何度目かに頷いた後「……困る!」と叫んだ。
この大浴場を使うのは生徒と教員ばかりで、大聖堂のように不特定多数の信者が出入りするということはないのだけれど、生徒の中にそう言った倫理観が欠如している人間がいないとも限らない。それを指摘されなければ気がつけないほど、彼女は大切に育てられてきたのだろう。
それに対して羨望の気持ちはあれど、憎悪とか、侮蔑とか、そう言った感情は湧かない。ここではむしろ、そう言う恵まれた立場にある人間の方が圧倒的に多いのだから。
僕は彼らとは違う。ロナート様は養父であって、僕の父は酒場を営んでいた。両親が早くに亡くなり、頼る伝手もないままに幼い弟たちと残された。住む家はあったけれど、お金も尽きれば、食べ物もなくなってしまったから、生きるために盗みを働いた。あの時の僕が置き去りにされた首飾りなんて見つけたら、一切の逡巡なく懐に入れただろう。そうされて悲しい思いをする人がいるということに思いを馳せることもなく。そうしなきゃ生きていけなかったんだから、仕方ないじゃないか。その時は、僕はそう思っていた。言い聞かせていた。これは生きるための術なのだと。
幼い弟たちの喜ぶ顔が見たかった。両親が死んで心細いのは幼い彼らだ。僕がしっかりしなくちゃ。だって僕はお兄ちゃんなんだから。そう言い聞かせて、何度も盗みを働いた。食べ物もお金もそれ以外でも、売ればお金になりそうなものなら何でも盗った。僕にはそういう才能があった。
ロナート様の屋敷で盗んだ一冊の本、もしもあのとき、何か一つでも間違っていたら、僕はここにはいないのだろう。ロナート様の死に涙することも、過去の過ちを悔いることもなく、あの街で、悪事を繰り返していた。
ロナート様は僕を、僕の弟たちを、引き取ってくれた。不自由のない生活を与えてくれた。読み書きを教えてくれて、弓を見てくれた。領民の皆も優しくて、義兄だって、ロナート様の血筋を色濃く引いた、痛いくらいに真っ直ぐな人で。彼ももう、亡くなってしまったけれど。
でも、それでも恩人だったのだ、今も、ずっと。
は眉を八の字にして、窓まで開かないか確認している。よっぽど大切な首飾りに違いない。僕が盗まれる可能性を指摘しなければ、きっと彼女は諦めて、今日のところは寮に戻ったのだろう。ああ、口が滑ったな、今更後悔する僕は、それでもやっぱり七年前の、自分と弟たちのためだけに生きていた僕とは違うから、僕を救ってくれたロナート様のように、この手の届く人を笑顔にしてあげたいと思ってしまう。
「」
それが、ロナート様が僕にのこしてくれた、遺産だ。
「僕が鍵を開けますから、下がっていてください」
は僕の言葉に目を丸くして「鍵を持ってるの?」と首を傾げた。小さく笑って首を振る。黙っていればよかったのだろうけれど「昔取った杵柄で」と、そう口にしてしまう。は分かっているんだかいないんだか、はあ、と空気のあまり入っていないような声で頷いた。
僕は今でも、彼女が僕のことをどこまで知っているのかを知らない。前節に叛乱を起こし処断されたロナート様が僕の養父であることは、もしかしたら彼女も耳にしているのかもしれないけれど。だけどそれより前の、泥水を啜って生きていた日々のことを僕が彼女に話すことは、これから先もきっとないだろう。それは自尊心の問題でも、忘れたい過去だからでもない。
何の気遣いもされたくないのだ。だってこれは、僕自身の、僕だけが抱えた問題なのだから。
程なくして音を立てて開いた鍵に、は「すごい! どうして? 魔法?」と興奮気味に目を見開くから、僕は初めて、自分のこの褒められたものではない特技を誇らしく思うのだ。
無事に首飾りを回収して戻ってきたを寮の部屋まで送り届けた後、寮の階段を下りて外に出る。星の瞬く夜空を見上げて、僕はここ数日の自分が、地面ばかり見て歩いていたことを思い出す。