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なんでよりによってあんな大事なものを忘れてきちゃったんだろう。
陽もとうに落ちて、食堂の利用だってとっくに全生徒が終えたような夜半、寝台に横になる直前に、私は父が持たせてくれた首飾りが胸元にないことに気が付いた。お風呂に入る前まではきちんとあったはずだから、きっと大浴場の脱衣所に置いてきてしまったのだろう。
取りに行かなければいけない。そう思った直後に、これから、一人で? と自問自答してしまう。寮の部屋の上部に取られた窓の外の夏の夜空を見上げれば、深い藍の色をしていた。外に行けば屋外灯が等間隔に作る光の円はあれど、やっぱり一人で出歩くには暗いし、あまりにも静かだ。
ここから大浴場へはそれなりに遠い。湯上りにヒルダちゃんと談笑しながらのんびり歩いて部屋まで戻って、それで丁度火照った身体が落ち着くくらいの距離がある。
「大浴場ってさ、あたし達の部屋からだと、ちょっと遠くて不便なのよねー」
入学当初のヒルダちゃんのぼやきを思い出す。
ガルグ=マク士官学校に在籍する生徒が使う寮は一階と二階からなっていて、室数を確保するために敷地面積を広く有する。そのため、大浴場に程近い部屋もあれば、教室や食堂に近い部屋もある。温室や釣り池が目の前、という部屋もあるわけだが、二階で生活する学生は一つしかない階段を上り下りしなければ外には出ることはできない。
唯一の階段は温室脇へと続いていて、これがどこに行くにもなかなか不便なのだ。私やヒルダちゃんの部屋は階段を上ってすぐのところにあるからまだ良いけれど、クロードくんやローレンツくんなんかは部屋が奥まった位置にある分、大変だと思う。
せめてもう一つ、二階の一番つきあたりの位置に階段があれば良かったのに。こんなにそれを欲したことはない。だってもしそこに階段があれば、わざわざ外に出るまでもなく大浴場の近くに出ることができるはずなのだ。廊下であれば、一人で歩いても外程の恐怖は感じない。
だって、夜になると死神が現れて、三日月の鎌で襲われてしまう。どこまでが真実で、どこまでが噂で、さらに言うならばどこまでが自分の脳内補完であるかはもう曖昧だけれど、死神という単語それ自体は私に色濃く染みついていて、恐怖心を忘れさせるにはまだ時間の経過が不十分だった。闇夜に光る鋭利な刃物の切っ先の光を想像し、身震いする。やっぱり無理だ、無理はしないようにしよう。そうしよう。
「お父様、すみません、明日、必ず、必ず取りに行きます」
懺悔しながら寝台に潜り込む。真っ暗にすると眠れないという理由で枕元に小さな燭台を置いているのだけれど、暗闇の中でその暖色の光は瞼の裏にぼんやりと浮かんでいた。いつもは気にならないのに、今はそれがやけに煩わしい。
頭まですっぽり布団の中に潜って丸くなる。そうしていると、どうしてか父の声が耳元で再現されるから、私はとうとう唸ってしまった。
「。制服の下にこの首飾りをつけなさい。この飾りは宝石などではないが、魔除けの念が込められていてね、きっとお前を何者からも守ってくれる」
守ってくれる……。
守ってくれる……。
そもそも幻聴である以上布団の中でそんなの反響するはずがないのに、何故そこだけが永遠のように響いていたのか。お父様の柔らかな笑顔が脳内にはっきりと浮かび上がって、わしゃわしゃと頭を撫でられているような感覚が蘇る。私の頭上には、今、自分の体温で温められた布団しか存在しないのにもかかわらず。
ぎゅう、と目を閉じて、私は思い切って起き上がった。楽な部屋着に着替えてしまっていたから、制服の上着を羽織って、勢いのままに部屋を飛び出す。
両隣のヒルダちゃんとマリアンヌちゃんの部屋は、揃って灯りが消えてしまっていた。淡いというにはあまりにも仄かなものだったけれど、もしかしたら付き合ってもらえるのではないかという期待を打ち砕かれてしまい、ぐ、と唇を噛んで階段を駆け下りる。
「く、暗い……」
温室の中から誰かが飛び出してきたらどうしよう。池から何か出てきたら絶対泣く。食堂にだったら片づけをしている人がいるかもしれないけど、灯りが見えない以上それは期待できそうにない。駆け抜けるしかないのだ。幸い足は完治して、下手な転び方さえしなければ問題ない。
一階の皆もほとんどが寝静まっているようであったけれど、リシテアちゃんの部屋だけは灯りがついていた。声をかけて一緒についてきてもらえないか尋ねようかと思ったが、あの子も相当な怖がりだったことを思い出す。私に付き合わせるわけにはいかない。
ほとんど息を止めて、普段から歩きなれているはずの道を走る。夜に歩いていてね、死神に襲われたって。私が耳にしたのと同じ噂話は、いつの間にか士官学校中にもじわじわと広がっていた。クロードくんはそれを聞いても「死神? どうせ老木かなんかと見間違えたんだろ? ま、ほんとにいるってんなら是非にお目にかかりたいもんだけどな」なんて笑っていたけれど、でも、実際に襲われた人がいるなんて聞いたら……いや、それだって、街の噂の延長に過ぎない。今この状況で噂を肯定してどうする、否定するのだ。
そんなのあるわけがない。死神もお化けもおとぎ話だ。足音のようなものが聞こえる気がするけれど、それだって私のものが反響しているからに過ぎない。
風による木の葉の擦れる音にいちいちびくりと肩を震わせて、私は目的地に向かってひた走る。男子の部屋に灯りがついていた。でも、誰の部屋かまでは分からない。その扉の隙間から漏れたその灯りに安堵したけれど、その直後消灯されてしまい泣きたくなる。
人の影なんて、どうしてこんなときに見つけてしまったんだろう。
私は足を止めてしまった。もしも背後にいたのだったら、そんな明らかな間違いは犯さなかっただろう。だけどその人影は私の進行方向、まさに大浴場の側にある訓練場の方からこちらに向かって歩いてきていたのだ。
「ああああ」
声にならない声が口の端から漏れる。主よ、主よ、どうかお守りください。こんなときのための祈りの言葉は脳から飛んで行った。さすが苦手科目なだけはある。
暗いのと、恐怖心が先立って、それがどういった風貌の人なのかまでは分からない。ただ近づいてくるその人物の手に何もないことだけは確かだった。もしそこに鎌の影があろうものなら走って逃げてすぐ傍にあるベレト先生の部屋の扉を泣きながら叩いたはずだ。
武器を持たない死神なら、護身用の短剣でなんとか、いや、待って、それ以前の問題で、その死神とやらに実体があるのかどうかも分からない。短剣が身体をすり抜けてしまう可能性を考慮するならば、やっぱり走って逃げるべきでは。そう思って後ずさった、その時だった。
「あれ? じゃないですか?」
その人は、私の名前を呼んだ。逃げずにその顔を真っ直ぐ見ることができたのは、その声に聞き覚えがあったからだ。
「あ、あれ、あ、アッシュくん」
屋外灯の柔らかな光に、まだ幼さの残った顔が照らされる。丸い瞳に、癖の少ない灰色の髪。そばかすの浮いた鼻は、彼を人懐こく見せていた。
アッシュくんだ。アッシュくんだった。死神じゃなかった。張りつめていた緊張が一気に切れて、そのまま地面に座り込んでしまいそうになる。さすがにそれは出来ないものの、この安堵だけはどうしても表現しておきたくて、私は両手で顔を覆った。だけど厳密に言うならば、死神ではなかったという安心感だけではなかったのだ。友人であるはずなのに、自分から声をかけられずにいた日々は私の中で薄らとした後悔になって降り積もっていた。幾重にもなった層が上の方から溶けて浸透していくような、じんわりとした嬉しさで息が詰まる。
「アッシュくんだった〜」
だけど、アッシュくん本人にこの感動を感じ取られては困るから、私は吐き出したかったため息を丸ごと飲み込んだ。アッシュくんは、不思議そうに首を傾げる。
「はい。誰だと思ったんですか?」
「…………し……」
「し……。……シルヴァン?」
神妙な顔でそう言うアッシュくんに「死神……」と言うのは少々憚られた。言ってしまったけれど。そうすると、アッシュくんは曖昧に頷いて、「ああ、例の」と、否定するでも肯定するでもなく微笑んでくれるから、強張っていた体中の筋肉がゆるゆると解けていくような気になる。
「それはそうとして、こんな時間にこんなところで何をしているんですか?いくらガルグ=マクの中とは言え、一人で歩くのは危ないですよ」
「あ、実はその、大浴場に忘れ物をしちゃって……」
「大浴場に……」
考え込むように目線を動かしてから、彼は身体を捻って振り向いた。大浴場へは訓練場に程近い階段を昇らねばならず、ここからではその屋根の輪郭しか見えない。
「……まだ開いてますかね?」
「あっ!」
アッシュくんの言葉に驚きすぎて、ハッ、と口から息が漏れてしまった。そうだった、失念していた。大浴場は使用時間が定められているのだ。もし今から行ったところで、鍵が開いていなければ中に入ることもできない。「み、見てくる」とアッシュくんに断れば、しかし彼は「待ってください」と私を呼び止めた。
「僕も一緒に行きますよ」
その瞳に私があの日見た色は、ない。
今日が終わろうとしていた。私は彼が、こんな時間まで一体どこで何をしていたのかを、聞くことが出来ずにいる。