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ルーヴェンクラッセが例の叛乱鎮圧の事後処理に出向いたその日、他の二学級は大聖堂に集合していた。今節の課題は、来節に迫る再誕の儀に向けての大聖堂の大掃除である。
主である女神が住む星は春になると地上から見えなくなる。その星が再び空に現れる日を信徒が大々的に祝うのが女神再誕の儀であった。
「ぃよおし! オレに任せろ! 掃除だろうがなんだろうが、何だってやってやるぜ!」
アドラークラッセの列の中で拳をあげてそう叫んだのは、例のカスパルくんだ。隣に立っていた小柄な女の子が、髪の毛を掠った彼の腕に慄いて「ひええッ」と小さな悲鳴をあげる。見覚えのない彼女が、ほとんど寮の部屋から出てこないと言われているヴァーリ家の息女のベルナデッタちゃんだろうか。その隣で眠たげな眼を開いたり閉じたりしている男の子は確かヘヴリング家の子息で、そのまま小柄なベルナデッタちゃんに寄りかかって潰してしまいそうで冷や冷やする。
帝国出身の生徒が集まるアドラークラッセとは、あまり馴染みがない。合同の授業もほとんどなければ、元よりの顔見知りもいないのだから当然だ。
級長であるエーデルガルトさんは帝国の次期皇帝で、凛とした佇まいをした人だ。私と年は変わらないはずなのに、漂う風格と威厳に気圧されてしまう。彼女の傍に常に寄り添うように控えているヒューベルトさんがまた近寄りがたい印象を与えるせいもあるのだろう。彼も帝国貴族の一人であるはずなのだが、目つきが鋭く、一度でも目が合えばそれだけで取って食われそうだ。
あんなにも近寄りがたいのに、クロードくんは「ようエーデルガルト。雑巾の絞り方を教えてやろうか」なんて気安く声をかけているから、ひやっとしてしまう。私とは神経の作りからして違うのだろう。エーデルガルトさんは、冷ややかにその瞳を細めた。
「結構よ。貴方こそ、雑巾の絞り水をお茶に入れる、なんて作法をヒルシュクラッセの純真な子たちに教えないことね」
「はは、相変わらず手厳しいな」
エーデルガルトさんがほとんど抑揚もなく言ってのけた言葉に、クロードくんは「そもそも、うちの学級にはそんなことを俺から学んじまうへそ曲がりなんていないさ」と実に泰然とした笑みを浮かべるだけだった。
「なあ、」
クロードくんと目が合った途端に同意を求められてしまって、私は苦笑いを浮かべることしかできない。エーデルガルトさんは、僅かに目を細める。だけどそこに滲んだ感情を読み解く前に、ふいと背を向けられてしまった。
どこの級長も、一筋縄ではいかないらしい。
古い布を回収して手作りしたというレオニーちゃんお手製の雑巾を手にした私は、普段からお世話になっている長椅子を丁寧に拭いていく。正面から入って丁度右手側にある長椅子の拭き掃除を割り振られたが、いざ始めて見ると結構な労働だ。レオニーちゃんに、この雑巾は耐久性がないから扱いに気をつけろよ、と言われたときは首を傾げたが、なるほど縫製が少し甘いらしい。
大聖堂は二学級の生徒が散っても人手が足りないほどに広い。ただ、私たちが掃除するのはあくまで手が届く場所、目につきやすい場所のみだ。祭壇や像は、後日改めて大司教の補佐であるセテス様自身が掃除をなさるらしい。
この日は雲の切れ間から薄らと日差しが差していた。おかげで汚れが目につきやすく、掃除も捗る。ただこの捗るとは「やりやすい」と言う意味であり、進捗が捗々しいという意味ではない。
手すりにこびり付いた汚れを黙々と拭いていると、突然手元が暗くなった。陽が翳ったのだろうかとさして気にも留めずに拭き続けているうちに、私はそれが人の影だということに気づく。
咄嗟に顔をあげた瞬間だった。
「ちゃん、だったわよね?」
息を飲むほど美しい女の子に、名前を呼ばれたのだ。
アドラークラッセの生徒であることは間違いない。私は彼女を見かけたことがあるし、その度にきれいな子だと思っていた。意志の強そうな瞳は、深い水のような色をしている。姿勢が良く、指先に至るまで神経を張り巡らせたような所作で、彼女は小首を傾げて小さく微笑んだ。
そうだ、もう片側の長椅子は、この子が担当していたのだ。
「随分一生懸命なのねぇ」
長い髪の隙間から、大ぶりの耳飾りが揺れる。同じ制服を着ているはずなのにそう見えないのは、恐らく骨格から違うのせいだ。胸元を大きく開けた着こなしをした彼女のそれは、けれど決していやらしさを感じさせない。ヒルダちゃんの可愛らしさとは違う、香り立つような華やかさが彼女にはあった。
ドロテアさんだ。弾かれたように、名前を思い出す。マヌエラ先生と同じ帝国のミッテルフランク歌劇団に所属していた歌姫で、貴族でも一般の平民でもない異色の生徒。そう噂されていたのを、確かに耳にした。
きれいな人を前にして、私は思考停止に陥ってしまう。緩い癖のある長い髪を耳にかきあげたドロテアさんは、声も出せずに瞬きだけをしている私を見て、どうしてか楽しげに見えた。
ねえ、と柔らかく吐き出された言葉に、絡め取られたような感覚に陥る。頬が熱くなるのを感じた。私の様子を見て、ドロテアさんは笑いながら、手にしていたものを掲げて尋ねる。
「一緒にお水、替えに行かない?」
その時初めて、私はドロテアさんが木製の木桶を二つ、手にしていることを知った。その片方は、紛れもなく私が使用していたものだったのだ。
「ド、ドロテアさん、一個持ちます!」
「だーめ。ちゃん、聞いた話によると、足を怪我してるんでしょ?」
「もう治ってます! だから片方貸してください……」
「あなたって、本当にいい子なのねえ。でも気にしないで。これくらい大した重さじゃないから」
大聖堂脇の井戸は混雑していたけれど、ドロテアさんは新しい水を入れた私の木桶まで持ってくれた。これじゃあ一緒に来た意味がない、そう訴えれば、彼女は何食わぬ顔で「今一緒に歩いてくれてるじゃない。意味なんて、それで充分だと思わない?」と言ってのけるから困惑する。こういう台詞がすらすらと出てくるのは、彼女が元々舞台役者であったためなのだろうか。
ドロテアさんは、帝都では人気のある歌姫だったという。私はガルグ=マクよりも南に行ったことがなかったから、彼女の輝かしい経歴は伝聞でしか知らないけれど、確かにこの人が舞台に立てば、一際目を引くだろう。
ドロテアさんが歩くたびに、兵士や信者の男性が振り向く。彼女の身体は、足の先から頭のてっぺんの細部に至るまで、他人の視線を集めるために出来ているのかもしれない。そう思わせるような魅力が、ドロテアさんには確かにあった。彼女は言葉通り、水の入った木桶を軽々と手にして歩いている。だけど、少し歩くだけで必ずと言っていいほど男性に声をかけられるのだ。「僕が持とうか?」「転んだら大変だ」「そんなに重たいものは君に持たせられないよ」と言った具合に。だけど彼女はそれらの全てを、完璧に整えられた微笑で断る。
「今、これでも逢い引きの最中なの。また困っているときにお願いするわね」
そうすると、彼らは必ずドロテアさんの隣を歩く私に視線を移して、何とも言えない表情を浮かべる。相手が男性ではないことに安堵しているような、或いは、こんな小娘が隣に並んでいること自体を理解できないとでもいうような。
だけどドロテアさんはそれらのどれにも全く気に留めることをしない。「なんて、こんなの持って逢い引きも何もないわよね」そう言って木桶を掲げて見せる彼女は、片目を閉じる。
「私ね、あなたと話してみたかったのよ。ちゃん」
「へっ? な、なんでですか?」
「なんでって……」
大聖堂の、私たちが掃除をしていた長椅子。それを分かつ真ん中の通路の椅子の足元に、彼女はそれぞれ木桶を置く。
その日のガルグ=マクは、雲の隙間から日が差していた。ドロテアさんの頭上では太陽の光を受けて、玻璃硝子が輝いている。舞台上の照明と言うには、あまりにもそれは優しすぎる自然光だったけれど、微笑んだドロテアさんは、本当に、翳りの一つもない美しさを持っていたのだった。
「可愛い女の子と話したいって思うのに、理由なんか必要なのかしら」
ガルグ=マクには色んな人が集まる。王位継承者も貴族も平民も、一級の歌姫も。
艶やかに微笑まれて、言葉に詰まった。なんと返事をするのかが正しいのかも分からないけれど、好意を向けられているらしいことは確かだ。
わけもわからずに頬に熱がこもるのが分かる。掴みどころのない人だけど、悪い人ではないのだろう、たぶん。顔が赤くなってしまったことを気づかれたくなくて思わず両手で頬を隠す私に、ドロテアさんはその双眸を細めて笑った。
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課題で疲れていたというわけではないのだけど、一度自室に戻った私は、少し休憩するだけのつもりがすっかり寝こけてしまっていたらしい。目が覚めたときには陽がとっぷりと暮れていて、食堂が閉まる寸前だったから血の気が引いた。
慌てて食堂に飛び込み何とか夕飯を食べることが出来たけれど、こんな時間に食事をしているような人は私の他にいない。それでも叛乱の鎮圧へと向かった騎士団の皆さんやルーヴェンクラッセの皆はまだ課題から戻ってきていないらしく、彼らが戻ってくるまでは食堂を開放しているからゆっくり食べて、と声をかけてもらえたことにはほっとした。お言葉に甘えて急がずに食事を摂れたけれど、私が食事を終えて食器を下げても、ルーヴェンクラッセの皆が戻ってくる気配はなかった。
何か問題でもあったのだろうか。
なんとなく正門の方が気になって、食堂から寮へと戻る道中にそちらに目線を向けたとき、不意を打つように真横から「よ」と声をかけられて、悲鳴をあげてしまう。
「ぎゃっ」
もしももう少し手前側に階段があったら、私は階段を踏み外してそのまま転げ落ちていたに違いない。顔をそちらに向ければ、食堂からの灯りに顔の半分を照らされる形で、その人は立っていた。食堂の外壁に寄りかかって腕を組んでいた彼は、前節私が課題をしているときに一方的に声をかけて去って行った男の人で間違いなかった。
「ルーヴェンクラッセの連中はまだ戻ってないんだよな?」
世間話でもするように切り出され、私は面食らう。それでも「そうみたいです」と頷けば、彼は「ははあ、そうか」と考え込むように目線を空にやった。瞬く星々を眺める美少年、であるにはあるけれど、どうしてこんな夜中にガルグ=マクにいるのだろう。もしかしたら、こう見えて騎士団の方なのだろうか。それにしては独特の雰囲気であるように思うけど。
じっと見つめていたら、不意に視線を向けられて心臓がはねた。萎縮してしまうくらいに綺麗な人だから、目が合うだけでびっくりしてしまう。彼は私と距離を測るように曖昧な笑みを浮かべると、小さく首を傾げた。
「ありがとな。これから寮に戻るんだろ。気をつけろよ」
その笑顔があんまりにも完璧に整っていたから、私は「は、はい」と頷いて、逃げるように階段を降りる。足がもつれそうになったけれど、手すりに掴まって耐えた。
彼が一体何者なのか、考えても答えは出なかった。
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霧が晴れたその向こうで僕は養父の姿を見た。怒りの中にある、少しの悔恨、僕の知らない養父だ、僕は、何も知らないまま、のうのうと生きていたのだろう。
決別せねばならぬのだ、と、僕はその時に知る。
覚悟ができていたかと尋ねられれば、僕はその答えを飲み込んだ。
先生は、僕をいつもの、ほとんど感情の無い目で見つめていた。弓を構える。見た顔の領民を僕の矢は射抜いて、その度に、あの子の言葉が耳の奥から、まるで今そこに存在するかのように生々しく響く。「弓が上手なんですね」「びっくりした」僕は、だけど、こんなことをするために強くなったわけじゃない。
吐き出した息は震えていた。この戦いが終わっても、僕はもう、あの頃の自分には戻れない。だけどどうか、汚れたこの手を見ても、逃げないで、僕の話を聞いてくれても、くれなくても、どっちでもいい、ただ、何も知らないまま、また隣に座って、どうか君の話を聞かせてほしい。
だけどまあ、そんなのもう無理か。