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「随分苦しんでいるようだな」



 予習に勤しむ私の前に立ったその人の声は私の幼馴染のものだったから、あげようとした目線をそのまま教本に落とした。
 お困りのようならこの僕を頼ると良い。品行方正、容姿端麗にして才気煥発の、この、ローレンツ=ヘルマン=グロスタールに! といつもの調子で続けられたおかげで、途中だった計算が飛ぶ。思わず下唇を噛んだけれど、でも多分、今の式を続けていたところで正解には辿り着けなかっただろう。
 改めて式を立て直すために、もう一度問題文を見る。張りつめた糸の上で何とか均衡を保っていた欠片ほどの集中力は、けれどとっくに消失してしまっていた。問題文の数字のどれが必要でどれが飾りなのかも判別がつかない。
 理学の術式計算は、もしかしたら信仰の授業よりも苦手かもしれない。そもそも私は計算自体が不得意なのだ。どの術式を当てはめれば威力が強まるのかなんて分からない。魔法が放てればそれでいいんじゃないだろうかと思わなくもないが、実際問題、そんな大雑把な感覚は戦場では命取りにしかならないだろう。扱いこなせる気がしない。
 努力ではどうにもならないものってある。私にとっては、理学や信仰の勉強、弓の扱いなんかがそうだ。特に理学に関しては基礎問題すらも危ういのだから、リシテアちゃんが眺めている問題集なんて一生かかっても解けそうにない。
 そう本人に向かって呟いたのは、前節の頃だったと思う。ぼやいた私に、リシテアちゃんは手帖に走り書きをしながら、ほとんど独り言のように呟いたのだった。あれは、まだ雨季に突入する前の、良く晴れた放課後のことだった。



「でもわたしは、あんたみたいに剣とか槍だとか、上手く扱えませんから」



 その頬がいつもより赤みが差して見えたのは窓から差し込む光のせいだけではなかったはずだ。
 人間は誰しも一長一短を持っている。この士官学校での生活は、足りない部分は仲間と補い合うべきだということを私たちに教えてくれる。それは理解しているのだけど、こんな計算もまともにできない今はそれどころじゃない。



「……はあ……頭痛くなってきた……」



 唸りながら、私の前で緩く腕を組んだローレンツくんに計算を記した紙を差し出した。どうしても答えが出ないのだ。



「ローレンツくん、ここ、これ、ここまであってる?」

「…………いや、違うな。まず使っている数字が違う」

「…………なんで?」

「君が問題文を良く読まないからではないか?」



 信じられないようなものを見るような目で見たら、彼はほとんど憐れみの感情だけで私を見つめ返した。
 長身のローレンツくんは立ったままだと机に置いた紙に字を書くこともままならない。けれど、しゃがみ込むのは彼にとって、明らかに「貴族的」から外れたところにあるのだろう。彼は小さくため息を吐くと、結局私の背後をぐるりと回って、今は無人のヒルダちゃんの椅子を引いた。
 ローレンツくんは数年前まで王都フェルディアにある魔導学院に在籍していただけあって、理学に関してはリシテアちゃんにも引けを取らない。それを知っているから、私はこうして彼に頼ることが出来る。



「まず問題にはきちんと目を通すんだ。言い回しが難しいだけで、これは大した問題ではない」

「嘘だ……ていうか、問題文自体が長いよ。目がすごい滑る」

「そういう時は文章に線を引くと良い。重要な部分は限られているからな。この問題の場合、必要なのは……」



 ローレンツくんは私の持っていた筆を「失礼」と一言添えて手に取ると、躊躇いなく問題文に線を引いた。



「ここと、ここだな」



 なんて言われても、まず膨大な文章からそれらを見つけることが難しいように思える。それを訴えれば、「それは数をこなすしかない。いくつかの形式があるから、それを覚えてしまえばいいだけだ」と何てことないように言うのだから、私は耐えられず目を閉じて天井を仰いだ。主よ。だいぶ難しいです。こんなに頭を使ったのに、これからさらに授業だなんて耐えられる気がしない。
 予習はこの問題で最後だった。解き終えてはいないけれど、その方法を教わったのだから終わったも同義だ。いや、同義ということにさせてほしい。無言で教本を閉じた私に、ローレンツくんが分かりやすく息を吐く。



「先の訓練の授業、復帰早々にしては良い動きをしていると思ったのだが……」

「えっ? ほんとに?」

「ああ、なかなかどうして、見惚れんばかりの槍捌きだったよ」

「へへ、嬉しいな、ふふふ、ありがとう」



 突然褒められて顔がにやける。剣術と槍術は、それなりに得意だ。幼い頃から父母に教わっていたおかげだろう。平民の出の父は士官学校に入るまでは槍を使って狩猟を行うことを生業としていたし、母は領地で専任の教師から、母曰く「行儀のいい」剣術を教わっていたから、私も兄も、基礎的なことは士官学校に入るその前にとっくに身についていた。残念ながら、家族揃って魔導の才には恵まれなかったようだけど。
 一節と半分の空白はあれど、染みついた身体の動きというのはそう消えはしないらしい。勿論体力ばかりはずっと減ってしまっていて、入学当時は難なくこなせた準備運動から若干ではあるが息があがった。
 だけどいざ手合せの形を取ってみると、勝ち越しはできないものの誰を相手にしても必ず一本は取れたのだ。相手をしてくれた皆が私の足を気遣ってくれたという可能性は否めなくもないけれど、それでも自分が脳に描いた動きとほとんど変わらない挙動で槍を振るえたことには手ごたえを感じた。本当だったら空き時間にでももう一度動作の確認をしたいところではあるけれど、クロードくんは良く訓練場にいるイエリッツァ先生にまで私が来ても訓練場を使わせないようにしてほしいと伝えたらしい。周到すぎる。



「まあ、だからと言って座学を怠っていい理由にはなるまい。貴族たるもの、武勇、学問、会話術、舞踊や馬術の全てに於いて優れていなければならない」

「……い、いや、でももう、数字は見たくない」

「僕が隣にいるのだから何の問題もないだろう。幼馴染として君に落ちぶれられるのはごめんだ」

「お、落ちぶれ……」



 落ちぶれるという表現はなかなか、学生の恐怖心をかきたてるものがあるのではないだろうか。
 明らかに狼狽する私に向かってローレンツくんは涼しげな瞳をすっと細めるから、私はとうとう言い返す言葉を失ってしまう。
 できないことを嘆いたって仕方がない、とにかく地道にやれるところからやるしかない。昨日クロードくんと別れた後、自室でそう気合いを入れたのは私だ。ベレト先生の真意は考えたって分からないし、そもそもあのときの言葉が追いつめられた私が聞いた都合の良い幻聴だったとも限らない。実際今日は朝から偶然にもベレト先生と数度すれ違ったけれど、先生が私に声をかけてくることはなかった。思いが先走りすぎたのだ。今ではそう思っている。それに、そうしてやきもきしたところで今すぐにクロードくんが私の自主訓練を認めてくれるわけでもない。ならば、できるところからはじめようと。
 この理学の予習は、そのための第一歩なのだ。閉じたばかりの教本を薄目でちらりと見て、顔を背けたいのをどうにか耐えながら、引き結んだ唇をやっとの思いで開けた。



「わ、わかりました、やってやります、やります、苦手を倒す……」

「よし。ではさっきの頁をもう一度開いて、そこにある問題を最後まで解いてみたまえ」

「そんな無茶な……」



 素直に思いのたけを呟いた私に、ローレンツくんがどんな表情を浮かべたのかは分からない。
 だけど彼が私の、向学心と呼ぶあまりにもささやかなものを喜んでくれているのは手に取るようにわかった。ただ、だからと言って私がすぐに問題を理解できるのかというと別の話だ。
 授業が始まる直前に何とか一問、正解に導けた。ローレンツくんが数式にくれた花丸は、それすらもやたら優雅で、思わず笑った。


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