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その日の授業を終えて、私は一人寮までの道を歩いていた。
ローレンツくんに雨を遮ってもらった日以来、私は雨が降りそうな日は予め支給されている雨避け用の外套を着て外に出るようにしていた。花冠の節も半分を過ぎたけれど、まだ雨季の季節は終わらないらしく、外套に手を通さない日はほとんどない。
もう足は完治したとは言え、急いで走って転んでしまうことは避けたい私からしてみると、外套を着ているだけで大分心にゆとりが持てる。雨の中走らなくていいというのは、存外楽だ。
帽子を深く被って、手が隠れるように袖を限界まで引っ張る。身を縮めて歩いていると、撥水性のある生地に水滴が跳ね返る音がして心地いい。
雨の音は好きだった。雑念が取り払われていく気がするから。勿論気がするだけで、雨に打たれながら私は様々なことを思い悩んだり、考えたりしているのだけど。
今までだったら軽々飛び越えていた水溜りを前にして、私は大きく迂回するように歩く。無理はしない。先日クロードくんにも、そう言いつけられていたのだった。
先日、復帰宣言をした私に対するヒルシュクラッセの皆の反応は様々だった。
「完治したのー? おめでとー! でも、あたしだったらそのまま黙って休んじゃうかもー」
「ああ、本当に良かったです! また一緒に頑張りましょうね」
「ふーんそれはおめでとうございます。ところであんた、史学得意でしたよね。この記述についてどう思いますか」
「おお! じゃあ快気祝いしねぇとなあ! やっぱり肉だよなあ」
「ふむ、だがやはり無理は禁物だろう。何かあれば相談したまえ、君の幼馴染である、このローレンツ=ヘルマン=グロスタールにね」
「あ……その……良かった……です……あの……私、ずっと心配で……」
「お、案外早く治ったじゃないか。またわたしの訓練に付き合ってくれよな」
剣と槍を好んで扱う私は、入学当初からよくレオニーちゃんに訓練の相手を頼まれていた。背格好もそれなりに近く、練度も似たり寄ったりで、お互いに都合がよかったのだ。何の迷いもなく「うん」と言おうとしたその瞬間だった。クロードくんが私たちの会話に割って入ったのは。
「いやいやいや、ちょーっと待て。。授業以外の訓練は一先ず禁止だ」
「は? かたいこと言うなよクロード。も鈍ってるんだから、ちょっとは動いた方がいいだろ?」
「そのちょっとは授業で補えるだろ。焦って訓練したっていいことはないさ。当分無理はしないこと。わかったな?」
まるで子どもをあやすようなその言い方に、私は閉口してしまった。勿論、クロードくんの言い分が正しいのは痛いくらいに分かる。彼は見抜いているのだ。私が焦っていることも、根を詰めてしまうタイプであるということも。だからこうしてきちんと釘を刺しておいてくれたクロードくんは、慧眼の士だ。
レオニーちゃんも彼の言葉を受けて眉を寄せながら「まあ、確かにそれでまたの足が悪くなったらわたしも困るな」と納得する。私だってそうすべきだとは思う。自分の性格は自分が一番分かっているのだから。だけど、ではこの溢れんばかりのやる気はどうしたらいいのだ。
表情に出てしまっていたのだろう。クロードくんは何だか少しだけ、困ったような顔で笑った。
「級長命令だ」
そう言われてしまえば、私は彼に何一つ反論することができない。
焦ってもどうにもならないのは分かるけれど、焦りたくもなる。皆は私が休んでいる間にどんどん力をつけているのに、私は未だに入学当初から毛が生えたような動きしかできずにいるのだ。
計算の絡んだ理学や戦術、信仰の学問だとかはあまり得意ではないけれど、それ以外の座学ならば平均以上を取る事は出来る。ハンネマン先生の紋章学の授業は楽しいし、史学だったらヒルシュクラッセの中でも一番得意だ。
でも、武器の扱いに関しては、訓練や実戦を重ねなければ上達はしない。
ぱたぱたと身体に落ちていく雨の音を聞きながら、私は自分がどんどん早足になっていくのを感じていた。外套の下、制服の下衣と長めの靴下によって隠された、これから先も消えないらしい太腿の傷がちりちりと痛んで存在を主張している。
濡れた石畳に注意しながら寮の二階に続く階段に向かおうとしたとき、釣り池に落ちる雨音に紛れるように、ぼとんと言う音が響いた。質量のある何かを無遠慮に投げ込んだような音だった。反射的に池を見ると、そこに立つ人影があることに気が付く。こんな雨の中、私のように外套を着ているわけでもないように見えるその人は池の前で微動だにしない。何かを持っているのは分かるが、こんなところで訓練をするわけがないし、武器の類ではなさそうだ。
あれはなんだろう。つい足を止めて、その人影を凝視する。薄らと白む視界で、その人影が手にしていたものが何かを識別した。釣竿だ。まさかとは思うが、あれは釣りをしているのではないだろうか。こんな雨の日に、何故。
釣れるのかな?
そんな疑問がふつふつと湧いて、私は寮に戻ろうとしていた足を釣り池へと向けた。何だかもやもやしていたというのもある。このまま一人で部屋に戻っても、私はきっと悶々としてしまっていただろう。だから、時間を潰したかったのだ。こんな雨の中釣りをしている人が誰なのかも知りたかったし、もし知っている人であるならばちょっとだけ話をしたかった。そんなことをするような奇特な知り合いは思いつかなかったけれど。
だけど、その人影の輪郭がはっきりとした頃、私はその奇特な知り合いを一人思い出さざるを得なくなる。小雨の降る中、その人は私のように外套も着ずに釣り糸を池に垂らしていた。
「ベレト先生」
それは、ルーヴェンクラッセの担任である、ベレト先生だったのだ。先生は名前を呼ばれて目線だけをこちらに寄越す。温度もなければ感情もないような瞳は、初めて言葉を交わしたあの日からちっとも変わっていないように思えた。睫毛に溜まっていた雨粒が、瞬きと共に彼の頬を伝う。
普段から血の匂いをその身体に纏わせていたベレト先生からは、今日は濃い雨の匂いしかしない。確かめるように鼻を啜った私の全身を、ベレト先生は隈無く観察した。
「……ヒルシュクラッセの」
「……です」
「」
以前も同じような会話をしたな。そう思いながら、ベレト先生の隣に立つ。きちんと釣果はつけているようだけれど、肝心の魚は一匹も釣れていないらしい。或いは釣っても池に戻しているのか。
何だかんだ言って、士官学校には生徒が多い。自分の受け持っている学生でもなければ、よほど接点がないか生徒が優秀でもない限り、名前と顔を一致させてはもらえないだろう。それを分かっているから、一度名乗ったはずの名前を忘れられていてもそれほど落ち込みはしなかった。実際私は、まだ先生の受け持つ授業を受けたことはない。
ベレト先生は、ガルグ=マクの施設内ですれ違っても自分の進行方向にある一点しか見ていない。先生は、独特だ。私たちとあまり年は変わらないように思えるのに、その皮膚の周囲にきっちりと均等な厚さで覆われた膜がある。セイロス騎士団の団長になったジェラルトさんの一人息子らしいけれど、これまで傭兵として生きてきたという経歴以外は、一切が謎に包まれていた。彼のことを良く分からないのは、私がヒルシュクラッセの人間だからなのだろうか。
「……釣れますか?」
「駄目だ」
「この池で良く釣りをするんですか」
「いや、ここでの釣りは今日が初めてだ」
「へえ?」
思いもよらぬ反応が返ってきたせいで、声が上ずってしまった。
初めての釣りに相応しい天候でないことは誰が見ても明らかだ。ぱたぱたと先生の頬を叩く雨粒は小さいけれど、濡れてしまうには充分で、しっとりと水分を含んだ髪がその皮膚に張り付いている。この後雨があがるのだろうか。見上げた空に、雲の切れ間はない。
そのとき先生が不意に「復帰はいつからだ?」と尋ねたから、一瞬理解が遅れてしまう。ほとんど反射的に「はい?」と聞き返しながら、もしかして私のことを聞いているのだろうかと思いついた。ベレト先生の瞳は、今は反応のない水面に向けられている。
「あ、私の足ならもう完治したんです。なので、課題は今節から参加しますし、訓練の授業自体はもう再開してるんですよ。授業だけで、自主練はまだ、だめなんですけど……」
そうなのか、と答えたベレト先生は、いくら待ってもそれから先の言葉を口にしない。私の名前はすぐ出てこなくとも、私が以前まで訓練を見学していたことは覚えていてくれたらしい。足を怪我していたことも、きっとハンネマン先生かマヌエラ先生あたりから聞いていたのだろう。だけど、深くは尋ねようとはしない。その距離感が、今は丁度良く思えた。
雨粒が水面に落ちて作る波紋を視界の中央に据える。ベレト先生は、口数は少ないけれど、迷惑そうな素振りも見せない。私が居ても居なくても、きっと何も変わらないのだろう。そういう他人への執着の無さは教師に向かないようにも思えたけれど、でも、だからこそ口にできる感情もあるのだ。
縋りたかったわけではない。建設的な意見を求めたかったわけでもない。だけど、でも、それらの一切を期待していなかったと言えば嘘になる。私は思い通りにならない現状に、若干ではあるけれど打ちのめされていたし、心だけが前のめりになっていることが苦しかった。そしてそれは一人寝台に潜って吐き出したところで一切の解決も成さないと、この時既に知っていたのだ。
「……先生」
雨音にかき消されるには、明瞭な発音だった。「私は」続けてそう言えば、ベレト先生が、僅かにこちらに意識を割いたような気配がある。けれど、私は自分の目線をそちらには向けられない。
先生、私は。それに続く言葉を、どうして私は上手く吐き出せないのだろう。
私は、イグナーツくんやラファエルくんのように、騎士を志しているわけではない。レオニーちゃんのように、稼げる傭兵を目指しているわけでもない。紋章もなければ、ローレンツくんのように未来のフォドラのことだって、今の私には現実味が薄い。
私には皆に比べたら、強くなる理由はなかったのかもしれない、本当のことを言えば。でも、それでも。息を吸ったら、水分を吸った髪ごと口に入ってしまった。本当はクロードくんに向けて口にしたかった思いは、思ったよりも呆気なく、私の口から吐き出される。
「みんなと一緒に強くなりたかったなって思っちゃうんです」
でもそうするにはもう、出遅れちゃったんだろうな。
ベレト先生は、釣果の残されたままの釣竿を引き上げると同時に私の方に身体を向けた。クロードくんのものよりも深い濃縹の色をした瞳は、ほとんど瞬きもなく私を見つめている。雨が降っている。ベレト先生の頬を打ちつけるというには優しすぎる雨が。
私がハンネマン先生でもマヌエラ先生でも、クロードくんでもなく、ベレト先生に本音を打ち明けることができたのは、この人がそこまで私に興味を持っていないことを知っていたからだ。私は、私のことで誰かに煩わしい思いをしてほしくなかった。私に関することで思い悩むようなことなどあってはならないと思っていた。その点で言えば、ベレト先生の他者への距離の取り方は他の誰よりも、私にとって都合が良いように思えた。
私はクロードくんの言っていることが正しいと頭では理解していたから、何か解決策を求めていたわけではない。ただ、この感情を持て余していた。内に秘めておくことができないくらいに。
ベレト先生はけれど、その薄い唇をゆっくりと開けて、確かめるように、一音一音呟いた。
「だったら自分が」
自分が剣を見てやろうか。彼はきっと、そう言ってくれたのだと思う。だけどその声は、背後からの声と足音で呆気なく潰された。聞き慣れた声に名前を呼ばれて、私はそちらに目をやる。雨の中、濡れることも厭わずに食堂側の階段を降りてきたその人は、私たちの前に立ち止まると「こんな雨の中、二人で一体何の相談だ?」と目を細める。
「クロードくん」
彼は私と先生の間に立つと、ほとんど私に背を向ける形でベレト先生に向き直った。
「あーあ先生、びしょ濡れじゃないか。風邪ひくぞ?」
「……自分は、風邪はひかない」
「先生が言うとそれっぽいんだよなあ」
クロードくんの表情は、私の位置からでは読み取れない。
風邪をひく、と彼は言ってのけたけれど、クロードくんだってベレト先生と同じく外套を身に着けていない。彼はどうして濡れるのを承知で外に来たのだろう。先生に用事があったのだろうか。
「っくしゅ」
二人の視線が私に集中する。恥ずかしい。きちんと外套を着ている私がこの状況でくしゃみをしてしまうなんて。口元を両手で抑えたまま二人の目線から逃げるように視線を逸らす。
「送ってやれ、クロード」
私は先ほど先生が言ってくれた言葉をもう一度確かめたかった。だけど、まるで何もなかったかのように、先生は釣り道具をまとめ出してしまう。
まだ話は途中だったのではないだろうか。剣を見てくれると、そういう話をしていたのでは。もしその提案が冗談ではなかったのなら、私は。
「あ、あの、ベレト先生!」
そう声をかけたけれど、ベレト先生はそのまま食堂に続く階段を上って行ってしまった。行き場のない指が、雨に濡れる。
「……先生と何の話をしていたんだ?」
「え、あ……ううん、特には」
クロードくんの言葉に曖昧に首を振る。彼の視線から逃げるように、爪先に視線を落とした。石畳を打ちつける雨は、先ほどよりも少し強くなりつつあるようだ。指先がすっかり冷えてしまっていることを自覚して、そっと袖の中にもぐす。そうしながら、先生の後ろ姿を横目で見送ってしまう。
自分がお前の剣をみてやろうかというあの言葉は、私の聞き間違いだったのだろうか。
「しっかし、どうしてまたこんな雨の日に釣りなんてしてたのかね、ベレト先生は」
クロードくんの隣を歩きながら、私は息を飲む。彼の言葉で、不意に思い出してしまったのだ。「釣りでもすると気が紛れるらしい」と事も無げに言った、ベレト先生のことを。
竪琴の節のあの日、私はローレンツくんに対して酷く腹を立てていた。苛立っていたのだ。怒っているのだと、初対面のベレト先生に言い放ってしまえるくらいには。彼には私が何かに悩んでいるように見えたらしいけれど。だけど、あの時先生は確かに私に、そう言った。
もしかしたら、ベレト先生も何か思い悩むことがあったのだろうか。気を紛らわせるために、雨の中、釣り竿を握っていたのだろうか。
考えても、答えは簡単には出ない。
ぱたぱたと音を立てて落ちていく雨は、まだやみそうになかった。