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 自由だ。
 医務室から出た途端、叫びだしそうになるのをぐっと堪えた。感情を露わにして駆け出して階段から転げ落ちれば元も子もないのだから。だけど自由だ。私は解放されたのだ。








 昨日の放課後に予定されていたマヌエラ先生の定期診察は一日延期されることになった。教室で一人時間を潰していた私に、わざわざアドラークラッセのフェルディナントくんが「君がか? マヌエラ先生からの伝言で、診察は矢張り明日にしてほしいそうだ」と声をかけてきたのだった。
 フェルディナントくんは、帝国の貴族だ。世襲宰相の地位にあるエーギル家の嫡男で、国を治める立場にある人間を補佐すると言う意味で言えば、国は違ってもローレンツくんと似たような立場にあるのかもしれない。



「明日?」

「我がアドラークラッセの担任が申し訳ない。体調を崩しているようでね……その、何と言うか」

「ああ〜」



 言いよどむフェルディナントくんのその表情で、私は彼が言わんとしていることを察した。
 マヌエラ先生は少々男性運と酒癖が悪い。男性と上手くいかないからお酒に逃げるのか、お酒に飲まれるから男性に逃げられるのかは分からないけれど。
 マヌエラ先生はそういう時、絶望が表に出る。落ちくぼんだ眼窩に、呼吸の度に吐き出されるため息。よほど落ち込んでいることは明らかなのに、マヌエラ先生は生徒の前では極力自分の愚痴を言おうとはしないのだ。



「良いの。さすがに自分でもどうかと思うわ。生徒に愚痴なんて……しかも男の……」



 普段はそう言う先生は、私の治療中に一度だけ、どうしても耐えられなかったのか呪詛を半刻ほど垂れ流し続けたことがある。ちょっと衝撃的な内容だったので、忘れるに忘れられない。
 マヌエラ先生の心理状況をもろに受けるのか、そういう日は医務室が全体的に散らかっている。きっと、今日はそれもあって私を呼べなかったのかもしれない。前日が休日だったからちょっと羽目を外して、それで失敗してしまったのだろう。ただ、それを差し引いてもマヌエラ先生の医師としての腕は確かなのだ。



「わかりました。わざわざありがとう」



 そう頷けば、フェルディナントくんはその藤黄色の髪を揺らして軽く頭を下げる。



「本当に申し訳ない。では伝えたぞ」



 貴族然とした彼がそのまま食堂の方へ向かっていくのを見届けた後、小さくため息を吐いた。待ちわびていた診察が延びてしまったことが、ちょっとだけ残念だった。







 
 そして私はその翌日である今日、とうとうマヌエラ先生から訓練再開の許可を得たのだった。喜びのあまりに感情の制御ができずマヌエラ先生の手を、お礼を言いながらぎゅうぎゅうと握りしめてしまう。そうでもしなければ溢れる感情の処理が出来なかったのだ。
 諸々の注意事項は勿論ある。再開と言っても、何をするにも馴らすところから始めること。あまりにも激しい運動は当分不可。今節の課題に関してはガルグ=マク内で、それもただの大掃除だから参加していい。自分のことは自分が一番よく分かっていると思うから、間違ってもまた悪化させるようなことがないように。感情に飲み込まれそうになったときは数を数えて深呼吸。そういうことをマヌエラ先生は懇切丁寧に教えてくれた。
 自由になった! 医務室を出た私は、無意識に拳を作ってしまっていた。廊下の掃除をしていたツィリルくんが、ぎょっとした目で私を見ていたけれど、すぐに逸らされてしまう。
 少しだけなら訓練してもいいって。無理をしなければ課題に参加してもいいって。誰かにすぐにでも教えたいのに、こういう時に限ってヒルシュクラッセの皆が見つからない。
 大広間の二階の階段を降りた私は、そのまま教室には戻らず大聖堂へ向かった。誰ともこの喜びを分かち合えないならば、せめて女神様にお礼を言いたいと思ったのだ。
 ここガルグ=マクに総本山があるセイロス教はフォドラの大半の人が信仰している宗教で、私もそれなりに真面目な信者の一人だ。と言えば聞こえはいいかもしれないが、信仰の授業や合唱の練習以外ではほとんど大聖堂に行くことをしなかった私は果たして本当に真面目なのか。だけど折角復帰が決まったのだから、これを機に祈りを捧げることを習慣化しても良いのかもしれない。
 修道女の方に紛れて大聖堂へ続く門を通る。ここに来ると、自然と背筋が伸びるのは何故だろう。一年に一度、再誕の儀がある青海の節になると、フォドラ中の信徒は等しくここへ足を運ぶことになる。勿論私もかつてはその列の中に居た。士官学校の生徒になってから、大聖堂に来る度に思い出すのはいつもその時の記憶だ。
 母に繋がれていた手は、決まってあの門をくぐるときに離された。それが酷く心細かったのだ。小さいときは、この天井の高さがあまりにも恐ろしく思えて、いつあの玻璃硝子が割れてしまうか気が気ではなかったから。今では、多種多様な色形をした硝子の美しさを、いつまでも眺めていられるのに。
 大聖堂は、花冠の節だというのに肌寒かった。襲ってくる寒気に、思わず腕を摩る。
 この大聖堂は燭台もあるけれど、天井付近に設置された玻璃硝子や、開け放たれた扉から主に採光している以上、曇りの日はやはりどうしても薄暗い。祭壇の前で手を組み、祈る修道士の方の隣で、私もいつものように祈る。主は、愛、絆、喜び、平和、信仰、親切、自立、謙虚さ、我慢強さ、これらのものを否定することはありません。と主の五戒にあるように、私のこの身体から溢れる喜びを美しきものとして受け止めてくださるだろう。
 主よ! 足が治りました。これからは皆と一緒にまた訓練や課題に参加できるみたいです。これからもがんばります。
 創世記や啓示録、そういったものを学ぶことはあっても、祈りの仕方なんて今更教わらないから、どういう形式が正しいのかなんて分からない。入学したばかりの頃に思い切ってレア様に尋ねてみたら「あなたの心に従うと良いでしょう」と微笑まれて、私はその柔和な、けれど底知れない笑みにすっかり飲まれてしまった。自分の心に従うだなんていう曖昧な表現で、この私が理解できるはずがない。信仰の授業は、だからあまり得意ではなかった。
 それでも祈りを捧げると、自分の頭の中にあったものが整理されていくような感覚になるときがある。そういうとき私は、皮膚に静かな鳥肌を立てている。だから、敬虔な信者というのは、そう言うことが得意で、或いは祈りを重ねたことで、祈り続けた果てに見える、色んなものが美しくはまるような、泡が弾けるような儚いあの一瞬を、この感覚を、知っている人なのだと思う。
 残念ながら今日はその感覚には至らなかった。あまりにも個人的な祈り過ぎたのだろうか。だけど、お礼を言えたのだから充分だ。存分に主にお礼をお伝えした後、祭壇に背を向けて歩いていると、足が治ったという興奮が、漣のように引いていることに気付いた。
 だから、彼の姿を大聖堂内の長椅子に見つけたとき、私はそれが今で良かったと、心の底から思ったのだ。気心の知れた自学級の生徒ならともかく、彼のことをまだほとんど知らない以上、溢れる興奮を彼に差し出すことはさすがに躊躇われたから。



「アッシュくん」



 何の逡巡もなく彼の名前を呼んだ。天井の高い大聖堂では、足音だけではなくて声すらもよく反響する。アッシュくんは、長椅子に座ったまま、足元に落としていた目線をそっとあげた。







 彼に呼び捨てにされることには未だに慣れていない。そうと気づかれないようにアッシュくんに微笑んだら、彼も口元に小さな笑みを浮かべてくれた。少し顔色が悪いように見えたけれど、ステンドグラスからの光がほとんどないせいかもしれない。
 祈ってくれると言っていたし、彼は元々信仰心の篤い人だったのだろう。しかし、ここで彼に会えたのは主の思し召しとしか思えない。彼には、お礼を伝えておきたかったのだ。



「ここ、座っても良いかな?」

「ああ、はい。どうぞ」



 断ってからその隣に座った後で、もしかしてお祈りの邪魔だろうか、と気が付いてしまった私は、小声で「ご、ごめん、邪魔だったかな?」と尋ねてしまった。そんなことを聞かれて、邪魔だなんて言える人はうちの学級のリシテアちゃんくらいだろう。そのリシテアちゃんだって、「ええ邪魔です」と言った直後、「でも、まあ、別にいいですよ。気にしませんし」くらいは言ってくれるけれど。
 アッシュくんは一瞬だけ、どうしてか目を丸くした。元々まだ幼さの残った顔立ちをした、少年然とした男の子だったから、丸い目がさらに丸くなってしまったと言ってもいいだろう。何かを考えているのか、彼は一度だけ深い瞬きをした後、それから、小さく笑った。その時の笑顔が、なんだか泣き出しそうにも見えたのだった。
 こんな顔をする人だっただろうか、とふと考える。勿論、彼のことを私はほとんど知らない。ただルーヴェンクラッセの生徒の一人であること、弓の扱いに長けていること、穏やかで話しやすいこと、私が知っている要素を並べても、それはきっとアッシュくんの形には成り得ない。今の彼からはその実年齢に相応しくないだけの、渇きに似た何かが見え隠れしているような気がするのだ。



「いいえ。邪魔なんかじゃないですよ」



 だから、彼がそう言ってくれたときはほっとした。例え社交辞令でも。微笑んで「良かった」と言えば、なぜかアッシュくんの方が救われたような顔をしていた。その理由を、私は知らない。







  
 この人は何も知らないんだな、と思った。
 彼女は、僕に何の躊躇いもなく声をかけてくれたから。腫れ物に触るようにでもなく、気遣うようにでもなく、平生通りに。
 何も知らないって言うのは、こういう時、生ぬるい温度を持って僕の表皮を撫でていく、柔らかな手の平のような存在であるように思える。僕は疲れてしまっていたのだ。王国領内で起きた叛乱に、ロナート様が深く関わっていると聞かされた数日前から。
 僕が元は平民の出で、ガスパール城の城主であるロナート様の養子であるということを知らない人は、ルーヴェンクラッセの中にはいない。だから、教室にいると、僕は神経をすり減らしてしまう。同情や好奇の目、気遣い、優しさ、そのいずれかが欠片もない人って言うのは、そうそういないから。
 僕は血が繋がってはいないとは言え、「セイロス教会に叛乱の狼煙をあげた男の息子」だった。そして僕は、実際酷くそれに狼狽している。ロナート様が一体なぜ叛乱を起こすに至ったのかを考えて、悩んで、それは昼夜僕の皮に張り付いたまま、僕の息を緩やかに止めようとしている。
 だって僕は何も聞かされては居なかったのだから。
 僕は、悩んでいる。考えあぐねている。袋小路に入ってしまった僕は、それでもその壁を殴るべきなのか思案する。ロナート様の無事を祈るべきなのか、ロナート様を討伐せよとの命令に従い、息子として養父の行いを正すべきなのかも、今の僕には決められない。
 そういうある種呪いのような思考に浸った僕は、疲弊していた。この沼から上がろうにも、どこにも浅瀬がない。周囲の僕を気遣う目。ベレト先生ですら、恐らく僕を慮った。辛ければ今節はガルグ=マクで待機することも可能だと、眉も動かすことなく言ったのだ。教室は、息苦しくてたまらない。大聖堂にいればその空間の広さが手伝って、幾分か楽に呼吸が出来る気がした。



「足がね、もう、治ったの」



 だから、がそう言って笑ったとき、僕は何だか、自分が浸かっていた沼に柔らかな水を流されたような気がしたのだ。
 彼女は何も知らない。僕が彼女を良く知らないように、彼女もまた僕のことなど知らない。
 それがこんなに楽なことだなんて、知らなかった。張りつめていた糸が、彼女の手によってたゆまされる。一時的であっても、それは確かに、この痛みから目を逸らさせてくれたのだ。



「だからね、今度から訓練も、課題も出ていいんだって。アッシュくんがお祈りしてくれたおかげだと思うんだ。ありがとう
「そんな。が頑張ったからですよ」

「私は休んでいただけだよ」

「休むことを頑張ったんです」

「ああ〜、言い方だねえ」

「そう。でもなかなか出来ることじゃないですから」

「ほ、褒めるねえ……」



 分かりやすく狼狽えて照れるに、僕は笑った。あまりにも自然に浮かんだ笑みだった。
 気遣いも、同情もないと言うその点だけで、僕は確かに救われている。そのままのでもって、僕と向き合ってくれる。それが何よりも、今の僕にはありがたかった。例えそれが、一時の逃避に過ぎずとも。久しぶりに、まともに息が吸えた。それは確かな延命だった。
 傷が残ってしまったらしいという、その太腿に目が行きそうになるのを意識的に堪える。
 彼女の身体の向こう側、開け放たれた扉の向こうで、白んだ空に稲光を見た。


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