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「今日からは僕が君の送迎に付き添おう」

「はい?」

「いや、クロードにばかり任せるのもな。君は僕の幼馴染だ。それくらい面倒を見させてくれ」



 座学の授業が終わった昼下がり、私の席の斜め前にやって来たローレンツくんは緩く腕を組むと、私を見下ろしながらそう言い放った。彼の声は芝居がかっていて良く通る。リシテアちゃんが迷惑そうに眉を顰めていることに、彼が気付くのはどれくらい先なのだろう。
 ローレンツくんに悪気はない。彼は本気で幼馴染として私のことを心配してくれているし、同時にクロードくんへの負担を慮っているのだ。その気遣いは素晴らしいと思う。例え言葉や態度に問題があっても、その視野の広さから来る行動力は、なかなか真似できることではないから。



「そもそも前節にその足が悪化したのは僕の責任なのだろう?僕との関係に思い悩むあまりに足を捻ったのだと言うではないか」

「思い悩むっていうと語弊がある気がするんだけど」

「やはり本当だったのか……。すまなかったな。そこまで心理的な負担を強いていたとは。だがならば尚のこと、僕が責任を負わねばなるまい。さて、とりあえず次の授業が始まるまでに行きたいところはあるか? 寮と教室の行き帰りだけでなく、君の移動全てに付き添おう」

「全てはちょっと息苦しいかな……」

「息苦しいとは何だね。他人の厚意は素直に受け取るものだ」



 む、と眉を八の字に寄せたローレンツくんに、私はため息を吐く。はあでもふうでもなく、細く長く息を吐ききるように。幼馴染であることを隠さないようになったローレンツくんは、逆に吹っ切れすぎているような気がしなくもない。中庸と言う言葉を知らないのだろうか。荷物を代わりに持つ、ぶつかりそうになった生徒から庇う、やたらと体調を気遣う。足をどうにか庇いたい私としては、その全てが有難迷惑だったとは言えない。だけど単なる級友としては行き過ぎた行動ではないだろうか。突然のローレンツくんの行動に不信感を抱いたらしいヒルダちゃんに「ねえ、二人に何があったのー?」と尋ねられ、詳しい経緯を話したのは記憶に新しい。
 そのおかげで、私とローレンツくんが幼馴染であったという事実は既にヒルシュクラッセ内の知るところとなった。だけど、それで何がどうなるということはない。
 ローレンツくんは自分と私が幼馴染であるというある種特別な関係性であることが周囲に露呈すれば、私の結婚にかかわると思ったらしいのだけど、彼が危惧するような事態にはなりようがなかった。私は彼が思うほど異性に人気があるわけではないのだ。例えローレンツくん以上に優れた聖人が現れたところで、そもそもその人は私を好きにならない。
 しかしそれ以前に、彼は自分の存在がどれだけ影響を与えると思っているのだろう。いくらなんでも彼自身の自己評価が高すぎはしないだろうか。そういうところがローレンツくんらしいと言えばらしいのだけど。
 勿論ローレンツくんは見た目も悪くないし、紋章も持っている。グロスタール家の次期当主という重要な立場にあり、努力家で優秀だ。彼の言う通り、彼より平凡で身分の低い男性はどうしたって気後れすることもあるだろう。でも。でも、だ。私はそもそもそこまで本気になって結婚相手を探しているわけではないし、両親から期待と言う名の圧力があるわけでもない。
 そう告げれば、彼はその猫のような瞳を丸くして「そうだったのか?」と瞬かせた。そうだったのだ。だが、彼は気難しそうに眉を寄せた後、斜め上の発想で再び私を困らせる。



「ではやはり、僕が君の傍にいて、君に相応しい男を選ぶ手伝いをしてやるべきか」



 余計なお世話なんですけど。そう呟いた私に、彼は「何、遠慮はするな」と大仰な身振りで答えたのだった。








 それから数日を跨いで、彼の過保護ぶりは日に日に悪化の一途を辿っている。
 一体何がローレンツくんに火をつけたのだろうか。そう考えていると、教室の外からやって来たクロードくんがまるで今までの話を全て聞いていたかのような口ぶりで「厚意と押し付けは違うぞ」と私の座る席の隣の椅子を引いたから、思わず「ひっ」と小さな声が漏れてしまった。直前の授業までそこに座っていたはずのヒルダちゃんは、いつの間にか教室に居ない。



「クロード、君は僕の行動が押し付けだと?」



 クロードくんに噛みつくローレンツくんの言葉に被せるように、「あれ、ヒルダちゃんは?」と声を出す。ローレンツくんがクロードくんに突っかかるのは今に始まったことではないけれど、さすがに目の前でやられると対応に困る。



「さっきまでいた気がするのに……」

「ヒルダならさっきアドラークラッセの生徒に呼ばれてたぞ。あいつもやるな〜」

「えっ、呼ばれた? なんでだろ」

「なんでって……」



 本当に分からないからそう言っているのに、クロードくんは一瞬面食らったような顔をしてみせる。そして私の顔をまじまじと見た後、ローレンツくんに目線を移すのだ。私も遅れて彼の方を見やれば、ローレンツくんは肩を竦めてクロードくんに首を振っていた。解読できない目配せはやめてほしい。ただでさえ、突然クロードくんに隣に座られて緊張しているのだから。



「ところで、今日は診察だったよな?授業が終わってから一刻程後に来てほしいって、マヌエラ先生が」

「あ、ありがとう。了解です」

「一刻か……それでは少し時間があくな。まあ問題はない。僕が付き添おう」

「いやいや、別に大丈夫だよ。申し訳ないし。クロードくんもいつも付き添ってくれてたけど、もう大丈夫。朝とか、帰りも含めてね。今までありがとう」



 いつ切り出そうかとずっと迷っていたが、その言葉は存外呆気なく口をついて出た。こればかりは、隣に居てくれるローレンツくんに感謝せざるを得ない。
 私の足は随分良くなっていた。痛みもなければあれだけ頻繁にあった、引き攣るような感覚もほとんどなくなっている。後は庇ってしまう癖だけどうにかすれば、以前と変わらずに動けるようになるのではないかと思う。転んだり、無理な動作をしたりしなければの話ではあるけれど。でも、生活を送る上で常に誰かに傍についていてもらわなければならないほどのものではなかった。本当のことを言えば、花冠の節に入った頃から。私は少しだけ自分の立場に甘えていた。
 だって、クロードくんと二人で過ごせる時間は本当に貴重だったのだ。結局最初から最後まで緊張しっぱなしで、二人でいる時はいつも以上に彼の顔を見られなかったし、言葉も上手く出てこないことがしょっちゅうだった。今でもそうだ。なのに、ローレンツくんが隣にいるだけで、緊張は随分解れるらしい。あれだけ話すべきだと思っていた言葉が何の逡巡もなく口をついて出たのだから。
 クロードくんは私に身体を向けたまま、机に片肘をついて足を組む。



「一人で歩いて、植木に突っ込まないか?」



 悪戯っぽく笑うその顔が、私はやっぱり、直視できないくらいに綺麗だと思う。
 私は彼の心配するように、植木に突っ込んだこともなければよろけたこともなかった。私は彼の前では気を張ってしまって、神経を摩耗させていたのだから。でもその緊張とも今日でお別れだ。



「突っ込まないよ」



 そう言えば、クロードくんは「そっか」と微笑んだ。
 唯一ローレンツくんが未だに納得のいかない表情を浮かべていたようだったけれど、次の授業の開始を知らせる鐘のおかげで、席に戻らざるを得なくなったようだ。二人が席に戻るその後ろ姿を眺めながら、小さく息を吐く。
 もう少しだけ、彼の「特別扱い」に収まっていたかった。本音を言えば、そうだ。
 一日のうちのほんの少しの間でも、その隣にいたかった。その鼻梁を眺めていたかった。彼の語る話を聞きたかった。どんな下らないものでも構わないから。何か一つでも、クロードくんと共有できる何かが欲しかった。
 だけど私は、今度は自分の力で彼を振り向かせてみたい。私では無理かもしれないけれど、それでも、この境遇に頼ることなく、怪我をさせたことの責任を取るだなんて言う前提からではなく、ただ並んで歩きたい。相変わらずこの人の一番なんかになれる気はしないけれど、それでも私は、そう思うのだ。
 ローレンツくんに何か言葉を投げて笑った彼のその横顔を、私は後ろの席から見つめている。








 教壇に立ったハンネマン先生は、今節の課題について軽く触れた後、すぐに紋章学の授業に取り掛かった。ハンネマン先生は紋章の研究以外のことには基本的に興味が薄く、時間をかけることを避ける傾向にあるけど、その授業は内容が濃くて面白いから、私は好きだ。
 今節のヒルシュクラッセは、来節に迫った再誕の儀に供えて大聖堂の掃除を行うことになっていた。一方でルーヴェンクラッセは例のごとく別の課題が与えられているらしい。それも、叛乱の鎮圧。相変わらず私たちの平和な課題とは大違いだ。
 叛乱が起こったのが、王国領での出来事だったからなのかな。もしも同盟領や帝国領でのことだったら、うちやアドラークラッセが駆り出されたのかも。ふとそう思ったけれど、先日クロードくんが口にした「さあ、そいつはわからんさ」が突然脳に降ってくる。例えどこでの叛乱だろうと、それに関係なく、あの学級が対応に当たったのかもしれない。ベレト先生の受け持つあの学級は、どこか特別な気がする。何となくだけど、そう思う。
 ハンネマン先生の指示棒が黒板を叩く音があまりにも小気味よくて、目を閉じる。ガルグ=マクは今日も雨だ。さあ、と音を立てる雨は、柔らかく、途切れない。少しだけ傷が疼くけれど、以前に比べれば随分と良くなった。もしかしたら今日の診察で、訓練や課題の参加の許可が下りるかもしれないと思えるくらいには。
 アッシュくんが女神様にお祈りしてくれたおかげかな。ルーヴェンクラッセのことを思っていたせいか、不意に私の怪我が良くなるように祈っておくと笑った彼のことが脳裏を過ぎる。
 今度会ったら、随分良くなったのだとお礼を言おう。そう考えながら、板書を写すために筆を持つ。


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