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 何とか課題も提出でき、無事に花冠の節を迎えることができた週明け、昼食を終えて食堂から教室に戻ろうとしたときに、何人かの生徒が入口で立ち止まっているところに出くわした。生徒たちの隙間から食堂の外を確認すれば、激しい雨で教室までの景色が白んでいる。どうやら天気が急変したらしい。雨季に入ったガルグ=マクの空はどっぷりと重く、雲が近い。天気は変わりやすく、雨に降られることはしょっちゅうだ。
 士官学校の外に出る課外活動であれば雨避け用の外套を準備するから問題ないけれど、敷地内の移動くらいであれば濡れるのを覚悟で屋根のあるところまで走る方が手っ取り早い。寮から士官学校までの道中、或いは食堂から教室までと言った移動時に関しては雨風の影響を直に受けるが、走ればすぐだ。だけど、ここまで勢いがある雨となると、躊躇してしまう。
 地面に音を立てて落ちる大粒の雨粒に困惑する生徒が多い中、アドラークラッセの男の子が「オレは行くぜ! うおおおー!」と叫んで駆け出したけれど、今出て行ったら教室までの間にどれほど濡れてしまうかは想像に難くない。彼は帝国貴族の出で、フォドラで一番と言われる穀倉地帯を治めるベルグリーズ家の次男だったはずだ。名前は確か、カスパルくん。小柄な後ろ姿は思い切り雨に降られているけれど、あっという間に屋根のある教室棟の方に辿り着いていた。
 屋根を打ち付ける雨音に怯んでいるのは私だけではなかったものの、カスパルくんの様子を見た生徒は次々と食堂を飛び出していく。走れば多少はマシかもしれないけど、私の場合は無理をして転びでもしたら困ったことになる。もう少し様子を見ようかな、と一人ため息を吐いた私の背後で「これは酷いな」と呟いた人がいた。反射的に振り向いた私は言葉を失う。
 そこにいたのは、ローレンツくんだったのだ。
 彼は私と目を合わせないまま、窺うように空を見上げる。どうも一人らしいが、私に話しかけているわけがない、そう考えて背を向けようとしたけれど、彼はそのまま続ける。



「肘笠雨だとは思うが、雨があがるのを待っていたら授業に間に合わないかもしれないな」

「……肘?」

「……にわか雨のことだ」



 無視をしたって良かったはずなのに、聞き慣れない単語の意味を尋ねるためについ振り返ってしまった。ローレンツくんは読書家だから、昔から時折回りくどい言い方をする。はあ、そうですか、ひじかさあめねえ。そう呟いたけれど、これから先二度と口にする気はしない。
 そうこうしている間にも、また一人、二人と食堂を飛び出して駆け出す生徒の姿がある。目の前でずっと躊躇っていた女子生徒も、とうとう飛び出していった。雨はてんでばらばらの周期で強弱をつける。判断を誤ればずぶ濡れ、そうでなければ被害は最小限に留められそうだ。いつまでもここにいたら、ローレンツくんの言うとおり、午後からの授業に遅れてしまう。覚悟を決めて私も行かなければ。どうせ、中庭を抜けて教室の方まで行けばすぐに屋根はあるのだから。
 なぜローレンツくんが私に気安く話しかけてきたのかは知らないけれど、一緒にいる義理はない。無言で一歩外に向けて足を踏み出した私の肩を、しかし彼は掴んだ。遠慮のないその力に「ぐえッ」と品のない声が漏れてしまって、傍に居た男子生徒が眉を顰めて私の顔を見る。それでようやく、ローレンツくんが本当に私に話しかけているのだと分かったのだ。



「まさか出ていくつもりか?濡れてしまうぞ」

「……そりゃあ濡れちゃうよ、仕方ないでしょ」

「やめておきたまえ。君は昔、雨の日にどうしても花が見たいと泣いて喚き結局こっそり庭園に行きずぶ濡れになって翌日熱を出したじゃないか」

「ややややめてよ急に何の話してるの」



 振り向いた私の瞳を、彼はしっかりと見下ろしている。まるで逸らす気など微塵もないのだというように。
 彼は何を言っているのだろう。あれだけ私と自分との関係を周囲に漏らすなと釘を刺しておきながら、今の言葉はまるでその発言を鑑みたものとは言えない。声をひそめる様子もなければ、いっそ親しみすら感じさせる口調だ。私と幼馴染であることが明るみに出ることに利はないと言っていたのはどの口だ。大体、雨に濡れて風邪をひいたことなんて、あっただろうか。私自身も忘れていた十年も前の話を蒸し返す彼を、彼の傍で空模様を窺っていた女生徒がちらりと見る。
 私の表情で彼は私が言わんとしていることを察したのだろう。「一体どういつもりだ」と、私はこの目で問いかける。それを受けて、一瞬だけ、彼の猫のような瞳が多分の感情を含んだように柔らかく緩んだ。そして口を開ける。それは彼にしては随分歯切れの悪い言葉のように思えた。



「……自分なりに、考えたんだが」



 ローレンツくんは背が高いから、無理をして顔をあげなければ目を合わせることも難しい。気障ったらしい彼が差した、左胸の赤い薔薇が視界にちらつく。その時、閃くように脳裏を過ぎった何かがあった。庭園の花を見たかった。確かに十年前、私はそう言って泣いた。グロスタール家の庭園は立派なのだとローレンツくんが話して聞かせてくれたから、どうしてもこの目で見たかった。
 あの日も雨が降っていて、あれはしのつくあめだと、今日は外に出るのは無理だろうと、我儘を言う私を彼が窘めた。柔らかな布に吸収された水分が外に滲出するような感覚で、私はあの日のことを思い出している。無理だと言われていたのに、私は大人の目を盗んで庭園に出た。しのつくあめは、篠突く雨。束になった篠竹を突き立てるような雨が、私の肌に髪に服に、落ちていた。



「いや、本当はクロードに言われた、というのが実のところ、大きいんだ」



 結局私は守衛の人に捕まって、庭園まであと一歩というところで部屋に戻された。それから熱を出して、ローレンツくんとは結局別れの挨拶もまともにできなかったはずだ。
 薔薇が見たかった。弾かれたように顔をあげる。私はここにきて、そして、初めて彼の顔を正面から見たのだ。



「やっぱり君は僕の幼馴染以外の何者でもないんだよ」



 だけどそんなの、勝手すぎる。
 飾らない言葉が口をついて出たのに、それはどうしたって震えていた。ローレンツくんの唇が象った微笑の形は、慈しむように穏やかだ。それを、気に入らないと見ないふりをすることは簡単だった。だって私はずっと怒っていたのだから。絞り出すように口にする。知らずに握りしめた手の平に、切り揃えたはずの爪が突き刺さった。その痛みすらも、どうしてか懐かしい。



「……幼馴染っていう関係に、利はないって言った」

「ああ、あの時はそう思った」

「私なんかいなかったことにしようとした」

「……そういう意図は」

「私はそう感じた!」

「許してはもらえないだろうか」



 私が声を荒げたことで、幾人かの生徒の視線が集中する。私とローレンツくんの様子を窺うような視線が、その関係性を探るような声音が、彼にだって届いているはずだ。なのに、ローレンツくんは気にする素振りを見せない。彼は、私以外を見ようとしなかった。
 謝罪というには、彼の姿勢は聊か相応しいようには思えない。私が折れないわけがないと彼が思っていることを、その目は如実に伝えている。だけど、彼はローレンツ=ヘルマン=グロスタール、相手が幼馴染であろうと、同盟の次期盟主であろうと、彼はその態度を変えることはない、それだけなのだ。「狡い」と言った私に、彼は答えない。
 そうだ、だから、仕方ない、この人はそういう人だ。自分の中に凝り固まったまま存在していた筋のようなものが、ローレンツくんを前にするとやわやわと解されていく。私は結局、単純なのだ。いつまでも怒りを持続させておくことができるほど、強くもない。ならば望み通り、多少は柔らかくなった怒りの種を砕いて飲み込んでやっても良い、のかもしれない。癪に障るけど。
 迷っている私を察したのか、そうでないのかは分からない。そのとき、彼が不意に私の名前を呼んだ。「」と。さん、をつけるのではなく、昔のように。咄嗟に彼の口をついて出た、あの夜のように。それを私は、信じられないことのように思ってしまう。
 あの日、薔薇を見ることは叶わなかった、ローレンツくんが美しいと言っていた薔薇を、帰る前にどうしても見たかったのに。彼に会ったのは、あれが最後だった。



「僕はもう子供ではない」



 そう私に呟いたローレンツくんもきっと、あの日を見ている。あれからずっと背が伸びた。私が背伸びをしたって、その鼻面に頭突きもできないくらいに。



「だからせめてものお詫びに、君の外套になろう」

「はい?」

「雨もちょうど和らいでいるな。さあ、早く、授業に遅れてしまう」

「え? ちょ、待って」



 手を緩く繋がれて、声をあげる。
 授業に間に合わなくなることを察した生徒たちが、次々と雨の中を駆けだす。引っ張られたら転ぶ、それは困る。前節の課題を休んでまで大事にした足なのだから。彼の歩幅に合わせて、私は走るというにはあまりにも慎重な足取りで進んだ。水分を含んだ地面は、気を抜けば滑る。
 温い雨が、ぱたぱたと音を立てて制服に染みを作っていく。下衣に模様ができていくのを視界の端に入れた。だけど、不思議なことに顔には雨が当たらないのだ。足元に気を付けながら顔を空に向ける。影が、私の頭上に落ちている。
 肘笠雨。ローレンツくんは私から放したその腕を掲げ、雨避けを作っていた。



「転んでくれるなよ」



 白んだ空に乳房のような形をした雲が垂れさがっている。髪を、頬を濡らしたローレンツくんが私を見下ろしている。その細めた目に、一瞬胸が鳴った。太陽なんか、厚い雲の奥に押し込まれていたはずだったのに、その輪郭が酷く眩しかった。耐えられなくて瞬きをしたら、初めて、生ぬるい雨の滴が頬をなぞって落ちていく。
 胸が震えていることに気が付いた。だって私はもう一つ、思い出したのだ。
 ローレンツくんが話してくれた薔薇を見たくて雨の中外に出たあの日も、あなたは手を繋いで、一緒に走ってくれた。こうして私を雨から守ってくれた。それで一緒に熱を出したんじゃなかっただろうか。私が先に熱が下がって、寝込んだローレンツくんに挨拶が出来ぬままに自領に帰った。私たちはあの日を境に会えないまま、こうして十年を経た。
 髪も、顔も、制服も靴も、ローレンツくんは私以上に濡れている。こんなときまで、何も十年前の再現をしなくたっていいだろうに。



「……ローレンツくんこそ、これで昔みたいに寝込んじゃだめだよ」



 そう言えば、彼は一瞬目を見開いた後、くは、と貴族らしからぬ笑い声をあげた。細められた眦を縁取る睫毛から、水滴が一つ、落ちる。彼の胸元の薔薇は今日も鮮やかだ。十年越しに、私は彼の薔薇を見た。
 日を跨いでも、彼も私も、十年前のように体調を崩すことはなかった。


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