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 ローレンツ=ヘルマン=グロスタール。由緒正しいグロスタールの紋章を継ぐ僕は、同盟貴族の未来を担う重要な役割を持つ者として生まれた。
 貴族と言うのは、生まれ落ちたその日から、平民が持たぬ多くのものを手にしている。餓えないだけの資産、学ぶことの出来る権利、そう易々と踏みにじられぬことのない尊厳、これらの代わりに求められるのは、貴族として生きる覚悟だ。肩書きだけでは務まらぬ。僕たち貴族は平民を守る義務があるのだから、そのための良識は持っておらねばならないし、勉学に励むことも、武勇を磨くことも、最終的には同盟に住まう民のためだ。
 彼らの暮らしを保障し、安寧の未来を作り出さねばならない。それが貴族の責務だ。幼い頃に教え込まれたそれは、僕の信念としてこの骨身を作り上げる。僕の根底に、それはある。
 ガルグ=マク士官学校で学ぶ一年というのは、見分を広めるための期間だ。ここには同盟領外の貴族や、騎士を目指す平民が集まる。誰が言ったか、フォドラの縮図。まさしくその通りだ。僕はここを足掛かりにして、同盟に、フォドラに安寧をもたらすのだ。
 そのためにもゴネリル公、コーデリア伯、エドマンド辺境伯などと言った他の五大諸侯とその血縁者との関係は今から強固にしておくべきだ。癪に障るが、リーガンとも。幸運なことに、というよりは、奇跡的なことに、今年のガルグ=マク士官学校にはレスター諸侯同盟における五大諸侯の血縁者が揃っている。ヒルダさん、リシテアさん、マリアンヌさん、そして僕とクロードがそうだ。ならばこそ、この一年で僕たちは互いに手を取り合い、研鑽すべきだろう。同盟の未来のために。
 そんな中、彼女も今年の士官学校に入学するらしいとは父から聞いていたのだ。
 グロスタール家と、かつては円卓会議における議決権を所有していたダフネル家、それから水の都デアドラを有するレスター諸侯同盟の盟主であるリーガン家、これらの真ん中に、まるで守られているかのように存在する小さな穀倉地帯。そこを治めるアレキサンドル家の娘であるは、僕の幼馴染だ。








「ちょっといいか?」



 そうクロードに声をかけられたのは、今節の課題である農作業の手伝いを終え、士官学校に戻るその道中でのことだった。
 領地の視察の際に何度か目にしていたとは言え、実際に体験するとなると苦労が分かるものだ。我がヒルシュクラッセには元々平民の出身である人間が他の学級よりは多く、彼らに先導してもらうことにより効率よく課題を片付けることができたものの、慣れない作業に疲労の色を隠せない女性陣の力になろうとしてしまったせいか、僕自身も予想以上に体力を消耗してしまった。漁村の出のレオニーさん以外の女性たちは、こういった力仕事に慣れていない。
 穀倉地帯を治めていた彼女だったらどうだったか。十年前、良く領民に混ざって収穫の手伝いをしているのだと胸を張ったあの子なら、きっと手際よく仕事を手伝えたのだろう。だが、そのは、今はいない。前節で負った怪我の回復が、芳しくないのだという。
 僕は声をかけてきたクロードの顔を見つめる。級長であるこの男は村でも随分とこき使われていたように思うが、そこに疲労の一切は滲み出ておらず、いつもと変わらぬ飄々とした表情で僕の肩に手を置いたため、思わず振り払った。



「気安く触るのは良したまえ」



 疲労のせいで苛立っていたというのもあるが、それ以上に僕は、この男が気に入らない。「おっと」わざとおどけて見せる、人を食ったようなこの目が。
 王国からの独立を主導して以来三百年、リーガン家はその間、常に同盟の盟主の役割を担っている。とは言え、現リーガン公の嫡男は公務中の事故により既に他界しており、他に居たという女子は現在行方不明。後継者のおらぬまま高齢を迎えたリーガン家の現当主は、ゆくゆくはその権威を別の家に譲らねばなるまい。それも、そう遠くない未来。そしてそれは、我がグロスタールこそ相応しい。誰もがそう思っていたはずなのに、この男は突然現れた。
 クロード=フォン=リーガン。一年前、僕の一つ年下であるこの男の存在がリーガン家の次期当主として公表されたことは、まさに青天の霹靂と言ってもよかっただろう。
 ガルグ=マク士官学校に入学してから今までずっと、僕は彼が未来のフォドラを担うための存在として相応しいのかを見極めようとしている。それに足る人間でなければ、いつだってその地位から蹴り落としてやるつもりでいたし、そのための目というのは必要以上に厳しかったはずだ。
 だがこの男は僕の視線をのらりくらりと躱す。その癖、他者に向ける双眸が、時折酷く鋭くなる。攻撃的であるというわけではない。クロードは相手を測る。他者を陥れるための材料を探そうとせんがためのものではない、あれはきっと、癖なのだ。息をするのと同じだ。そしてクロードが持った物差しに何が書いてあるのかを、僕は見ることが出来ない。
 振り払われた手を何てことないようにひらひらと振りながら、クロードは薄く笑う。



「まあまあ、そうカッカすんなって。話があるんだよ。お前だってそうだろ?」



 その掴みどころのなさを、僕は時折恐ろしいと思うのだ。



「話? 一体何の」

「何って」



 その薄い唇が弧を描くのを、僕は視界の端で見つめている。殿を歩く僕たちの前にはレオニーさんとラファエルくんがいた。この二人なら、例えこの会話が耳に入ろうとそこまで気に留めることはないだろう。それを見越して僕の隣を歩いていたのだとすれば、恐ろしいどころの話ではない。
 食えない男だ。そう考える僕に畳み掛ける様に、彼は続ける。



「ここにあいつはいない。腹割って話そうじゃないか。ガルグ=マクに帰るまでの短い間だけどな」



 とぼけて見せても無駄だった。僕はその顔に向けてため息を吐く。
 彼が言っているのはのことで間違いない。大方、僕たちを不和であると思い込んでいるが故のお節介なのだろう。この男だけが、僕とが幼馴染であることを知っている。



「余計なお世話だ、クロード。僕たちの関係を不和であると思っているのなら、それは君の勘違いだよ。僕たちは互いの利害関係を一致させているのだからね」

「その利害関係ってのは何だ? いや、その前にお前たちの関係を知っている奴っていうのがどうも俺以外にいないらしいっていうのが引っかかるね。俺に口止めまでして、何故隠す必要がある?」

「それこそが僕たちの利害に繋がるのだよ、クロード。少し考えれば分かるだろう」

「さあ、俺には皆目見当もつかないな。思いつくことがあるとしても、それは果たして利害に関係あるかどうか」



 クロードの言葉に、一瞬息が詰まる。
 利害に関係あるかどうか。何を言っているのだと思った。思いつくことがあると彼が言った時点で、それは恐らく僕の思惑と同様のものを想起していると思っていいだろう。聡いやつだ、恐ろしいほどに。僕はこの二節の間に、それを痛感している。まだ、自分よりクロードの方が優れているのだとは、認めることはできそうにないけれど。「あるさ」つい口にしてしまったその一言に、クロードの瞳が細められた。いっそそれは、どこか怒りを携えているようにも見えたのだ。



「何が利害関係だよ。幼馴染にあんな顔させてまで優先させることじゃないだろ」



 一際低い声だった。殴られたように思った。彼は、僕の矜持を踏みにじることこそしないが、僕を否定する。
 声が出て来なくて、何とかひねり出したそれは、ただの乾いた空気になって僕の口から漏れた。頬が強張る。
 君に何が分かる。そんな愚かな台詞は吐き出すべきではない。なぜなら、クロードは恐らく全て分かった上で言っているのだ。僕の考えも、彼女の立場も。だけど、それでも僕は思うのだ。君に何が分かると。彼が「あんな」と言った、の揺らいだ瞳が、脳に浮かんで消えていく。
 僕はグロスタール家の嫡男だ。いずれは同盟領の南部を背負うことになる。帝国との国境沿いにあるアミッド川以南に広がる領地を持つアケロンが頼りにならない以上、そのすぐ北に位置するグロスタールこそが要だ。僕はだから内外に示さなくてはならない。グロスタールここにありと。領民を、同盟を僕は守るのだ。そのために学んでいる、武器を振るっている、人脈を広げている。
 その中でも婚姻というのは、一際重要だ。
 結婚ほど他の家との結びつきを強固にするものはない。それは口約束とは違う効力を持った呪いに似た何かだ。互いの家を人質にした賭け、そう口にするのは憚られるが、似たような物だ。
 僕が女性に声をかけるのは、未来のグロスタールのため。ただそれだけのために相応しい相手を探しているのだと思ってもらって差支えない。誰と結ばれればグロスタールの、ひいては同盟の利になるか。僕は女性の人となりを、美醜を選ぶのではない。未来を選ぶ。
 例え誰に批判されても、僕はそれがおかしいことだとは思わない。それは僕に与えられた貴族の責務の一つに過ぎない。貴族として生まれた以上、僕はこの人生を民に捧げる。互いに利となる結婚ができたそのとき、その相手を心から愛せるならば、それが理想なのだろうと青臭いことを思っていることは、否定できないけれど。
 僕に限らず、多かれ少なかれ、結婚相手を探すことを目論んで士官学校に入学する人間はいるだろう。もその一人だ。だが、彼女は紋章を持たない。領土も小さく、その上家督を継ぐ資格を持った兄がいる。
 もしも彼女が一人娘であるならばあの穀倉地帯の吸収のために婚姻を結ぶことも視野に入れたが、彼女に継承権がない以上それは不可能だ。彼女の家は円卓会議の決定に従順で、リーガン主導であろうがグロスタール主導であろうが構わないという、良く言えば柔軟、悪く言えば主体性のない考えを持っているから、余計に婚姻関係を結ぶことで得られる利はない。
 僕は彼女を結婚相手の候補とは見ていない。例え幼馴染だろうと。大体、十年もの間疎遠だったのだ。彼女は舞踏会にもとうとう現れず仕舞いだったし、勿論舞踊の相手もしたことがない。いきなり再会して、親しげに振舞うことこそおかしい。それに、彼女をそういう目で見ることが出来ない以上、僕が傍にいれば、は自身の結婚相手を見つけることなどできないはずだ。
 なぜなら、僕は品行方正にして容姿端麗、才気煥発のローレンツ=ヘルマン=グロスタール。大抵の男は僕に敵うまい。僕のような男が彼女の傍にいれば、彼らは自ら身を引いていく。それは彼女の本意とするところではないはずだ。
 だから傍にいるなと言ったのだ。



「……貴族として生まれた以上、生じる利害こそが重要なのだよ、クロード」



 自分に言い聞かせるように呟く。だけど、言いながら、違うのだと思う。昨日の教室で、足が悪化したのだと告げた彼女の頬は強張っていた。食堂でこの関係を周知させることに利はないはずだと言い放ったとき、あの子は確かに僕から目を逸らした。あの時の、何もかもを飲み込んだような瞳が、頭から離れない。
 違うのだ。心の中で繰り返す。違う。僕はあの子にあんな顔をさせたかったわけではない。



「自分が傍にいることであいつが自分の目的を果たせないかもしれない、とか考えているなら、改めた方が良いぞ」



 クロードの言葉は全てを見透かすようだった。痛いところを、彼は容赦なくついてくる。
 間違ったことはしていないと、僕は今でも思っている。だけどこの男はまるで僕の方がよほど愚かであるとでも言うかのような口ぶりで指摘するのだ。君に何が分かる、僕はそう思っているはずなのに、だけど、彼女の見開かれた丸い瞳が脳裏にこびりついて離れない。あの時は何とも思っていなかった。僕の選択が正しいと僕は信じているから、本当は、今でも。だけどクロードはそんな僕を、呆気なく潰す。



の将来をそこまで気にかけてやってるんだったら、いっそお前が幼馴染だって主張して、あいつの相手を選んでやるくらいまでしてやれよ。あいつ、だいぶ抜けてるし、変な奴に捕まっちまうかもしれないだろ?」



 それこそ、未来の同盟のために、さ。僕は彼の吐き出したそれに、返す言葉を持たない。
 幼い頃を思い出す。僕の語る理想を、膝を抱えて聞いていた彼女のことを。僕はこれからの同盟のために、あの子と結婚することはできない。だけど、僕の態度が彼女を傷つけているというのならば、僕はこの態度を改めるべきだった。こめかみを抑える。ああ、そうだな、と思うのだ。癪だけど、きっと君が正しいと。
 クロード。僕はあの幼馴染の少女に、笑っていてほしい。十年前に僕の前で胸を張って見せた、あの頃のように。人並み以上の幸せを手に入れてほしいと、僕は確かに思っているのだ。
 小さく息を吐き出した頃、街の門が目に入る。時間切れだ。後は僕が向き合うしかない。
 門をくぐる直前、クロードが独り言のように吐き出す。「の相手が俺みたいな男だったら、嫌だろ」冗談にしか聞こえないその言葉に、僕はとうとう笑った。



「ああ、ごめんだな」



 これから雨季に入る空は、灰色がかって重い。頬に当たった雨が、瑞雨となることを祈る。














 三学級の学生がいなくなると、ガルグ=マクはすっかり人気がなくなってしまうらしい。
 こんなことって初めてだから知らなかった。人がいない教室って静かすぎて、昼間でもちょっと怖いくらいなのだ。遠くで人の話し声のようなものが聞こえるけれど、学生たちの交わすような明るい声音ではないし、笑い声なんてどんなに耳を澄ませてみても届かない。
 しんと静まりかえった教室は自分の息づかいや、書物を捲る音しか聞こえなくて、何だか自分だけ世界中から切り離されてしまったような気持ちになる。私の背後、開け放したままの扉から、竪琴の節の柔らかな風がそよそよと吹いて心地良いから、それほど孤独ではないけれど。
 ハンネマン先生に与えられた課題は、紋章の社会に与えうる影響について例をあげ論じよ、というものだった。こういう時頼りになるリシテアちゃんは勿論いない。ハンネマン先生は書物の類に頼らず、自分のこれまで培った経験から考えてみてほしいと言っていたから、人に聞くのもあまり良くはないのだろう。一人で向き合わなければならない。どのみち、誰も居ないし。
 まずは箇条書きにしていく。紋章の有無で後継が決まる。というのは貴族の世界では常識だ。平民でも紋章を持って生まれれば成り上がることが出来るけど、それでも力を持って生まれた以上は、背負わなければならないものも多い。ガルグ=マクにやって来て二節、私は改めて、紋章の持つ影響の大きさを肌身で感じている。
 うんうんと唸っていた私は、そこにあるはずのない人の気配を感じ取るのに遅れた。いや、そもそも、気配がなかった。こうして背後から話しかけられた今だって。



「今日って課題の日じゃねえのか?」



 ひ、と口の端から息が漏れた。筆が羊皮紙からはみ出しかけたのをすんでのところで耐える。



「いーっ!」

「あ、悪ぃ悪ぃ」



 これで机を汚していたら惨事だった。「なんか書いてたんだな。えーとなになに? 紋章学の論文か何かか?」聞き覚えのない声の人物が、私の背後から机に手をついて身を乗り出す。視界の端に映った薄い藤の色をした髪は、このガルグ=マクでは見たことがないように思えた。勿論、まだこの士官学校で学ぶようになってまだ二節。知らない場所もたくさんあって、知らない人だって大勢いるわけで、私はもしかしたらこの人とすれ違ったことがあるのかもしれない。でも、ここに残っているということは、この人は少なくとも学生ではないのだろう。私のように、課題の見学すらも許されない学生がいるとは聞いたことがなかったから。
 教会の人だろうか。椅子に座ったまま首を上に向けてその人の顔を確認した瞬間、しかし、私ははっきりと慄く。長い睫毛、くっきりとした美しい二重、通った鼻梁に薄い唇。お化粧が施されているようだったけれど、そんなものがなくたってその容姿は完成されていると分かってしまった。ちょっとびっくりするくらいに、顔立ちの整った人だったのだ。「あー」と、不意に彼は言う。



「別課題を渡されてガルグ=マクに残ってるってことは、お前がこの前怪我をしたってやつか」



 私はこの人のことを知らないのに、一方的に知られているらしい。目を見開いたまま固まる私に、その人は微笑を携えたまま「それ以上悪化させて退学にならないように気をつけろよ」と縁起でもないことを言って、慣れた足取りで食堂のある方角へと消えて行った。その姿が既に視界から消えていることを理解しながらも、私は微動だにできない。



「だ、誰……?」



 身を捩って振り向いたまま首を傾げても、答えてくれる人はどこにも居ない。教室の外では、目に鮮やかな緑をした木々の葉が、竪琴の節の風にそよいでいる。


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