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「あの」
声をかけられたことに気が付いて振り向いたのは、訓練場の外にある射場から教室に戻る道中のことだった。
今日は他学級との合同訓練の日だった。講師はセイロス騎士団に所属する弓の名手のシャミアさんで、元々傭兵だったと言う彼女の話は聞いているだけでも随分と勉強になる。シャミアさんはほとんど笑わないし素っ気ない。貴族であろうが平民であろうが王族であろうがお構いなしに檄を飛ばすような、芯のある人だった。
座学で基本的なことを学んだ後は、射場で修練度別に別れて弓を引く。まだ後遺症の残る私は邪魔にならないように、隅に腰を下ろして見学をしていた。同じ学級に所属しているからクロードくんとイグナーツくんが弓に長けているのは知っていたけれど、その二人に混ざって、一番習熟度の高い組にもう一人、灰白色の髪の色をした男の子がいた。彼もまた弓の扱いに秀でているらしく、鋭い音を立てて、次々と的に矢を命中させていく。この組は圧巻だ。そういえば、彼のことは前節の学級別対抗戦でも見かけた気がする。
頬に薄らそばかすの浮いた彼は、確か、ベレト先生の学級の生徒だったはずだ。
「よし。お前たちは曲射も混ぜて射て」
きょくしゃ。さっき座学で習ったやつだ。遮蔽物の向こうにある目標を狙うときに有効で、大きな射角で放物線を描いて矢を落とす射方だ。そんな器用な真似、出来る気がしないけれど。でも彼らだったらできるのだろうか。じっと見つめていると、ルーヴェンクラッセの彼が放った弓矢は緩やかな弧を描いて、遥か遠い的の真ん中に刺さった。
「わあ」
口の端から存外大きな感嘆の声が漏れてしまって、思わず口を塞いだ。続くクロードくんもイグナーツくんも、難なく的に中てていく。脳内で思い描いてみたけれど、上手くいく気がしない。私は弓の扱いが苦手だ。
やっぱり早く復帰したいな。先週よりは随分痛みのなくなった足を撫でながら、どんどん皆に置いて行かれてしまっているようで、心細く思う。
入学して一節と少しが経過したけれど、私はまだ他の学級のほとんどの生徒とまともに会話をしたことがない。だから彼に声をかけられたとき、さっきの弓の上手な子、と思いながらも、名前がすぐに出てこなかったのだ。
訓練場から出てくる生徒たちが足を止めている私たちを一瞥していく。彼と私とでは目線の高さはほとんど変わらず、顔立ちも柔らかな印象を与えたから、私は突然声をかけられたことにもそこまで狼狽することがなかった。もしもこれが他の「おっ! アッシュ、やるねえ」と今しがた声をかけていった背の高い男子だったら、たぶんもっと困惑していたはずだ。見た目で判断するのは良くないとは思うけれど、アッシュと呼ばれたこの男子生徒は相手に警戒心を抱かせない雰囲気を持っていた。
彼は私に、「突然すみません」とわざわざ謝ってから切り出す。
「さっき見学していた人……ですよね?君が座っていたところに落ちていたんですけど……」
「あっ」
言われて差し出された見覚えのある手巾に、私は咄嗟に下衣の内側を探る。確かにない。そういえば見学の際、座るときに身体の下に敷いていたのだ。よりによって今日に限って白い手巾か、と地面の上に敷くのを躊躇ったことは覚えているけれど、そのまま忘れて行ってしまうとは。
「わ〜、ありがとうございます、私の手巾です……」
「良かった。汚れちゃっていたんで、軽く土を払っておきました」
「そんな、ええ〜すみません……ありがとうございます」
手渡された手巾と彼の顔を交互に見て、恐縮する。他の学生たちは既に教室の方に向かっていて、私たちもどちらともなく歩き出す。午前の授業はこれで終わりだから急ぐ必要はない。
「えーと、君はヒルシュクラッセの」
「です。あなたは」
「僕は、ルーヴェンクラッセのアッシュです」
「アッシュくん。弓が上手なんですね、びっくりした。曲射、すぱーんと当たってましたもんね」
「いや、僕なんて全然。それこそ君の学級のクロードの方が才能があるなって思いますよ」
「へへ、クロードくんはすごいですからね」
クロードくんのことを褒められて思わず破顔し胸を張ってしまった後で、何で私が得意気になるんだと我に返るが、アッシュくんは穏やかに微笑むばかりだ。「敬語、いらないですよ」と言ってくれるから、有り難く言葉を崩させてもらうことにした。話しやすい人だ。小柄だから気圧されることもないし、声音も穏やかで、柔らかい。
竪琴の節の穏やかな風が温く髪を撫でていく。角を曲がればすぐにアドラークラッセの教室があって、その次がルーヴェンクラッセ、食堂側にあるのがヒルシュクラッセだ。ラファエルくんは「食堂に一番近い教室で良かったなあ」と言っていたけれど、教室はそれぞれ隣接しているわけだからそこまで距離に差があるわけではない。
アドラークラッセの前に差し掛かったあたりで、アッシュくんが「あの、こんなことを聞くのも失礼かもしれないんですが」と遠慮がちに呟いた。生徒たちの喧騒で掻き消えそうなほどの声量だったけれど、隣を歩く私の顔を覗き込むようにしてくれたから、声をかけられているのだとすぐに気づけた。目を見て話すことを、臆さない人だ。私はすぐに目を逸らしてしまうから、余計にそう思う。
「大樹の節の課外授業で怪我をしたヒルシュクラッセの生徒って言うのは」
「それは私で……じゃなくて、私」
知られていることに一瞬驚いたけれど、良く考えれば後遺症が残るほどの怪我をした人間がいれば、学級を跨いで生徒の口の端に上っていたとしてもおかしくはない。アッシュくんの眉尻が僅かに下がる。それだけで小動物のような、可愛らしい表情になってしまったから、思わず心臓の隅っこあたりが跳ねた。
「そうでしたか……。見学しているってことは、まだ悪いんですか?」
「うん、もうちょっとかかるみたいで」
「よっぽど深い傷だったんですね、可哀想に……」
「うん、何ていうかその、まあ私が悪いっていうのもあるんだけど……大人しくしてないから」
「大人しく?」
訓練の授業は総じて見学しているし、前節の学級別対抗戦だって応援に回っていたはずだ。充分大人しくしているだろうに、何故。思い込みかもしれないけれど、アッシュくんの淡緑の瞳がそう問うているように思えて、私は言葉に詰まる。
「いや、こう、なんか、結構頭に血が上りやすくて、その……カーッとなったときに、ガツンと」
「ガツン……?」
「あの、こう、ガッと、なので、自業自得というか」
傷に気を遣いながら大股で歩く素振りをしてみせた私に、アッシュくんが目を見開く。「あ、それは……」と言われてしまったが、続く言葉を飲み込んでくれたのはありがたい。
そうこうしているうちにルーヴェンクラッセの教室の前に差し掛かって、アッシュくんは「じゃあ僕はこれで」と私に小さく会釈をした。せいぜい飾ってある学級旗が違うだけで中の作りは同じであるはずなのに、他の学級は随分と雰囲気が違うように思えるのは何故だろう。
会釈を返す私に、アッシュくんは「無理をしちゃだめですからね」と気遣いの言葉までかけてくれた。初対面で、隣の学級だっていうのに優しいな、なんて思っていたら、彼はそのまま続ける。
「の足が早く良くなるよう、僕もお祈りしておきますから」
そして私の返事を待たず、彼はルーヴェンクラッセの教室に姿を消したのだった。
。と呼ばれてしまった。
呼び捨てにされていることなんて慣れているはずだ。それなのに無意味に狼狽えてしまうのは、彼が私に対して終始敬語だったからか、それとも雰囲気のせいか、或いは、私の方が彼よりも年上に思えていたからだろうか。私は動揺を隠しきれないまま、ヒルシュクラッセの教室に戻る。そういえば彼はクロードくんのことも呼び捨てにしていたし、何もおかしくない。おかしくないし、問題もないのだけど、びっくりしてしまった。意外性というやつだろう。
ヒルダちゃんに「あ、いたいたー。ちゃん、一緒に食堂に行こー」と声をかけられて、慌てて返事をして立ち上がる。アッシュくんが渡してくれた手巾は、無意識のうちに手の中で握りしめてしまっていたらしく、ぐちゃぐちゃに潰れていた。