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 建物の構造上仕方がないとはいえ、大広間の二階にある医務室には窓がない。
 昼間なのに薄暗い室内で、私は二床あるうちの出入口側の寝台に横たわっている。独特な薬品の匂いで長時間いると頭がくらくらしてくるのはこれまでの経験上理解していることだけれど、扉を閉めた医務室はガルグ=マクの喧騒から遠く離れたように感じられて、心地いい。
 私の右足を診るマヌエラ先生は真剣そのものだ。帝国のミッテルフランク歌劇団で、かつて頂点を極めた歌姫であるという異例の経歴を持つ彼女の手は驚くくらいに滑らかで、その指が私の腿をなぞる度、くすぐったくて身を捩りそうになる。マヌエラ先生は私よりも体温がずっと低い。
 先日食堂で思い切り引き攣らせてしまったことが原因なのだろう、私の足はあれ以来、ずっとじくじくと痛んでいた。ため息を吐いたマヌエラ先生が、長い睫毛に縁取られた瞳を伏せる。



「どうして無理しちゃうのかしら、あなたって。こう言っちゃなんだけど、結構お転婆よねえ」

「すみません……」

「あんまりこういうことが続くと来節の課題も自室待機になっちゃうわよ」

「そ、それは嫌です……!」

「だったら尚のこと、もっと自分の足を大事にしてちょうだい。乙女の柔肌に痕が残ってしまうだけでも心が痛いんだから」

「はい……」



 もういいわよ、と言われ、寝台から起き上がる。マヌエラ先生が仕切りの布の向こうに出て行ったのを見届けてから、椅子の上に置かせてもらっていた長めの丈の靴下を手に取って、大事に、大事にと言い聞かせながら神妙な手つきでそれを穿いたけれど、自分でも分かる。着替えごときにこんなに意識して時間をかけるのは、今だけだ。寮に戻れば逡巡なくこれを脱ぐだろう。私は基本的に大雑把なのだ。
 それでもせめて今くらいはと腿を覆うまで靴下を引き上げて下衣を整えながら、私は仕切り布の波が作る陰影に焦点を合わせたまま、先日のことを思い出していた。いや、思い出すというよりは、ふとした瞬間にそれはいつだって、容赦なく頭上に降り注ぐのだ。
 利はないからねと言ってのけた、幼馴染のどこか冷たい瞳が、浮かべた微笑が、私の怒りのつぼを的確につく。あれ以来私はローレンツくんとはほとんど口を利いていない。せいぜい「一般的な級友としての挨拶」程度のもので、彼が望んだとおり、これでは私たちの関係は露呈しようがないだろう。何故か私たちの関係を知っているクロードくんが、誤って口を滑らさない限りは。
 そもそもクロードくんはどこで私たちが幼馴染だと知ったのだろう。私は仲の良いヒルダちゃんにすらこの話はしていなかったというのに。いや、だけど、彼のことだから「見てりゃ分かるだろ」とか言い出しそうだし、実際にその可能性が一番高い。
 ふつふつと湧いた怒りの落としどころを探る。マヌエラ先生に相談しようかと考える。女の人だし、私よりも長く生きているし、相談に乗ってくれるかもしれない。そう思ったけれど、駄目だ。そもそも口止めをされているのだ。幼馴染であることを言いふらすなと。それをきっちり守る義理はないはずだけど、後でそれがローレンツくんに伝わったら面倒くさい。
 はいはい、何もかも、利なんかないですもんね、と心の中で悪態吐いてから仕切り布を引いて、書き物をしているマヌエラ先生に声をかけた。



「先生、ありがとうございました」



 そう言えば、彼女はきちんと手を止めて、「どういたしまして」と私の目を見て微笑むからどきりとする。
 本当にきれいな人だ。マヌエラ先生に見惚れる男子生徒っていうのは多いけど、彼女に憧れる女生徒も少なくない。結婚できない、良い男がいない、と大っぴらに嘆き、荒れては酔い潰れる先生の姿を見かけることもあるけれど、それでもマヌエラ先生は魅力的だった。きちんと揃えられた両足の向こう、医務室の隅に、いつのものか分からない書類が散乱しているとしても。



「訓練の授業は引き続き見学。今節の課題はおやすみ。以降のことはまた二週間後くらいの状況次第ね」

「はい」

「普段も気をつけなくちゃダメよ? ハンネマン先生にもあたくしから言っておくわね」

「ありがとうございます……失礼しました」

「本当に、本ッ当に、無理しちゃダメよ?」



 最後の最後まで念を押され、苦笑しながらもそれに返事をして廊下に出る。扉は開けておいていいと言われたから、そのままにして書庫の方へと向かった。私が診察をしてもらっている間、書庫にいると言っていたクロードくんに声をかけようと思ったのだ。
 緊張とも言えないくらいのものだったけれど、やっぱり先生と二人きりっていうのは気を遣う。ハンネマン先生やマヌエラ先生と違って、私たちとそう年齢が変わらないように思えるベレト先生ですら、きっと部屋で二人きりになれば逃げたくなるくらいに緊張してしまうだろう。実際彼がいくつなのかは知らないけれど。
 先日のベレト先生との一連の会話を思い出して、うっかり笑いそうになってしまったせいだろう。書庫への角を曲がるとき、前方からやって来た人に対しての反応が遅れてしまった私は、あわや勢い余ってそのまま彼にぶつかるところだった。



「おっと」

「ひっ」

「危ない危ない、また悪化させるところだったか。……今終わったのか? お疲れさん」



 丁度よかったな、と眦を細めるクロードくんに、ぎこちなく笑みを返すことしかできない。大事にしろと言われたばかりなのに、私はどうも視野が狭いらしい。寮からの送り迎え、医務室への行き帰り、大丈夫だと言っているのに、彼はあの夜から一節近くたった今も律儀に付き添ってくれる。申し訳ないと思う反面、私はそれが酷く有り難くて、嬉しい。
 ただ恐ろしいことに、これだけ一緒にいても私はまだ慣れないのだ。マヌエラ先生と二人きりのとき以上に、彼の隣は緊張する。他の級友たちとの会話のように、思ったことを何の躊躇もなく口にすることは彼の前ではできない。私はクロードくんの前に並べる言葉を自分の中で綺麗に濾して、厳選する。作物を出荷するのと一緒だ。見た目も色艶も手触りも優れた一級品でなければ、相応しくないように思えてしまうのだ。我ながら、厄介な恋だ。



「で、どうだった?」



 芳しくはないようだが、とクロードくんは私の腿に視線を落とす。彼は目敏いから、ローレンツくんとの一件があったその日の夕方には、私の足が悪化しているのではないかと尋ねてきた。実は昼に無理をしてしまったのだと告げたけれど、その直前にローレンツくんと諍いがあったことも彼はきっと知っているのだろう。広く物事を見渡す彼は、学級内の僅かな変化にも敏感だから。



「あー、えっと、うん。この前やっちゃった分、回復が遅れるかもしれないって」

「そっか。ま、仕方ないな。だけどほんとおっちょこちょいだよなあ、怪我してるのと同じ足を痛めるなんて」

「う、弁解のしようもない……」

「……はあ、ホント、ほっとけないっつーか、なんつーか」



 大広間の一階へ続く階段を、クロードくんが先頭になって降りていく。足は痛かったけれど、手すりがあれば何とか昇降は可能だった。じくりと足が痛む度、情けなく、申し訳ない気持ちになる。放っておけないと面と向かって言われるほどに、私はクロードくんの手を焼いているのだと思うとやりきれなかった。衣類で隠された傷は、不可視であっても消えてなくなったわけではない。
 階段を降りながらも、クロードくんのつむじは遠く小さくなっていくけれど、彼は途中で私の様子を窺うように振り向いた。大丈夫か、と、彼はほとんど口にしない。それだけが救いだ。だって、大丈夫かと言われれば、大丈夫と答えなくてはいけない。本当は大丈夫なんかじゃないのに。



「ま、今節の課題はほとんど遊びみたいなもんだからな。来節に向けて、温存しとけよ?」



 悪戯っぽく細められたその目に、私は力強く頷く。確か、今節の金鹿学級に与えられた課題は、近隣の村の畑作業の手伝いだ。穀倉地帯に生まれ育った者として、そういうことに関しては経験者でもあり得意分野であるからこそ、参加できないことが悔しい。
 階段を最後まで降りれば、すぐ左手側の、開け放たれたままになっている出入り口から温い風が吹いた。隣接した士官学校の敷地に、生徒の姿が見える。授業を全て終えた放課後、訓練や座学の復習など思い思いに過ごす彼らに目を細めた。薄暗い室内にいたせいか、植樹された木の青さが余計に眩しく感じられる。
 せめてみんなと同じ授業を受けられるくらいにはなりたいけれど、まだ先は長いようだ。教室の方に視線をやれば、女生徒に声をかけているローレンツくんの姿が目に入った。もや、と胸の内側がくすんだような感覚に襲われる。これから寮に戻る予定だったけれど、彼がいるならば訓練場の方から回って行った方が良さそうだ。



「ね、こっちからでもいいかな」



 教室の裏側を通る道を指差しながらクロードくんにそう尋ねたら、彼は一瞬だけ、ローレンツくんたちの方に目線を動かした後「ああ」と何てことない風に頷いた。何となく察しているだろうに、下手に首を突っ込もうとしないでくれることが有り難かった。


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