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ガルグ=マク大修道院の食堂は、そこに集まる全ての人々が利用することができる。信徒も騎士も修道士も、従者も、教師も学生も。そのための座席数はきちんと確保されていて、座る場所に困ったことは滅多にない。
だから、昼食を黙々と食べていた私の真隣の椅子をわざわざ誰かが引いたとき、それがヒルシュクラッセの誰かであることを瞬時に察した。実際、空席はあちこちにあったのだ。昼食に誘った私に「食堂ですか……この本が終わったら行くんで」と目も上げずに言ったリシテアちゃんかと一瞬思ったけれど、視界の端に映った手の甲で、そうではないと分かる。これは、男性だ。そう考えた瞬間、やあ、と「や」と「あ」の間が少し伸びる、特徴のある声が降ってきた。
「ここに座ってもいいかな?」
口の中のものを飲み込んだ後「あら〜」と、三つ隣の席に座っていたルーヴェンクラッセの女学生のような声音を出してしまったのは、彼女の口調が移ったというよりは、私自身が彼とどう接したらいいかを測りかねていたためだ。ローレンツくんの目は、どうしてか感情が読み取りにくい。
良いとも悪いとも言っていないのに、ローレンツくんはそのまま私の隣の席に腰を下ろした。今日の献立はシチューだ。幼い頃、ローレンツくんはお肉や味付けの濃いものを嫌っていたけれど、今でもそうなのだろうか。分からない。私たちは、今やただの同級生でしかない。
ローレンツくんと私の家は、治める領地を隣にしている。と言っても、同盟領の中でリーガン家に次ぐ発言権を有しているグロスタール家と、円卓会議の決定に従うだけの小貴族のうちとでは、同じ貴族であっても立場も意識も考え方も何もかもが違うだろう。実際、グロスタール家の現当主であるローレンツくんのお父様は、次期同盟の盟主の立場を狙っていると聞く。それは、去年リーガン家の跡継ぎとしてクロードくんの存在が公表された後も揺らぐことはないらしい。そして、そんなグロスタール公の嫡子である彼もまた、そのための覚悟や矜持があるのだ。
その発言の端々、いや、一言一句に於いて、彼は生まれもって持ち得ていたその肩書きを誇りに思っていることが見てとれた。貴族であることの責務、彼はそれと、真摯に向かい合っている。
穏やかな微笑を浮かべながら、私は目線だけを彷徨わせた。
「私なんかの隣でいいのかな。あちらに次期皇帝陛下がいらっしゃるけど……」
「何を言う。君も我が同盟貴族の一員だろう。たまには親睦でも深めようではないか」
「わ〜、ローレンツくんにそう言ってもらえるなんて光栄だわ〜」
幼馴染として私と親交を深めていたのは、ほんの七、八歳の頃まで。以降、私と彼は互いに顔を合わせることはなかった。グロスタール家の当主は円卓会議における発言を円滑にするための下準備に余念がなく、昨今はただの穀倉地に過ぎない我が家よりもリーガン家以外の三貴族との交流を密にしていたためだ。その子息を連れて領地を訪れることはない。
そうでなくとも、グロスタール家はその南部、帝国の国境に隣接しているレスター諸侯同盟の問題児の手綱を握る役割も果たしている。成すべきことは多く、我が家のような小貴族との関わりが最低限になるのも頷ける。勿論、アレキサンドルにもグロスタールに素気なくされるだけの原因があるのだけど。
一方で、私の方にも問題はあった。貴族として、定期的に開かれる舞踏会などで同年代の子息たちとの親交を深めるのが当然とされているにも関わらず、私はこの年になっても一度もそういうものに出向いたことがない。元平民の父の血を濃くしたせいだろう。どんなに練習を重ねても舞踊が全く出来なかったのだ。数年前の冬、舞踏会への参加を取りやめたあの日に、ローレンツくんが私と踊ることを楽しみにしていたらしいとは、私の代わりに出席した兄に聞いた話ではある。でもそれだって所謂社交辞令というやつだろう。一度拒んでしまえば壁が高くなるのは自明の理で、私はとうとう舞踊というものをまともに履修せぬままこんな年齢になってしまった。こんなこと、今更誰にも言えないけれど。
私の内心を察しているのかいないのか、ローレンツくんが私の隣の席から立ち上がる様子はない。
前節、十年の時を経て再会したローレンツくんに私は仰天した。
私より一つ年上の彼だったけれど、ここまで背が伸びているなんて思わなかった。勿論その面立ちに面影はあったけれど。それでも首を思い切りあげなくては目線が合わないことは、私を慄かせるのに十分だった。ローレンツくんがいるなら見知らぬ人の中でも大丈夫だろうと思っていた節があったのに、これじゃあ知らない人と大差ない。
「ろ、ローレンツくん、その、お久しぶりです」
それでも何とか挨拶をした私に、彼は馴れ馴れしく触れることも、他の女性にするように、容姿を褒めることも食事に誘うこともしなかった。中身は変わっていないはずだ。だって彼は、昔からこう言う。「品行方正、容姿端麗にして才気煥発、ローレンツ=ヘルマン=グロスタールとは僕のことだ!」だけど、私に目線を落とした彼は、それに蓋をする。ただ目を細めて、小さく首を傾げるだけで、それはまるで、何か線を引いたような印象を私に与えたのだ。
「ああ、さんか。兄君はお元気かな」
かの名門グロスタール家の嫡子の発言にしては、穏やか過ぎる挨拶だった。
彼は私を「さん」と呼ぶ。
だから私は課外活動中に盗賊に襲われたあの夜のことを思い出すと、今でも不思議な気持ちになる。あの夜、彼は盗賊に襲われた私を抱えたその時、私のことを、「」と呼んだ。昔のように。私の身体を抱きかかえた腕は遠慮を知らなかった。死ぬと弱音を吐いた私に逡巡なく眉根を寄せた。なのに、普段は必要以上の会話もせず、今ではこの調子だ。私はそれに合わせるしかない。
「さん。足の調子はどうなんだい?」
「……そうねえ。大分良いよ。来節からは課題に参加してもいいみたい」
「ああ、それは良かった。大分深い傷だったからね。今節は大事を取るべきだろう」
それくらいの怪我で死ぬものか。と言ったのと同じ口で言われても。と言う思いを笑顔の下に押し込めながら、私は最後の一口を飲み込んだ。本当はリシテアちゃんが来るまでここでゆっくりしていようかと思っていたけれど、居心地も良くないし、撤収しよう。
立ち上がった私をしかしローレンツくんは呼び止めた。「ちょっといいかな」と。彼のシチューは手つかずで、その潜められた声で、私は彼が最初からこの話をするために隣に座ったのだと察する。
「困るんだ」
食器の音、学生の笑い声、そう言ったものに飲み込まれるには、あまりにもその声は真っ直ぐで、この場に不釣り合いなほどの荷重があった。なのに、この人の口からその言葉が発せられているのかを疑ってしまうほど、彼は穏やかに微笑んでいる。
「クロードに僕たちが幼馴染だという話をしたね?」
「はい?」
「悪いんだが、その話は伏せておいてもらえないだろうか。クロードにも口止めをしておいた」
え? 喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。こんな時なのに、私は食堂の入口付近でラファエルくんと話しているクロードくんの姿を見つけてしまう。
クロードくんが医務室まで送ってくれた日、確かにローレンツくんとの関係を確認された。私はローレンツくんから聞いたのだろうと特に深く考えずに頷いたのだけれど、どうやらそうではなかったということなのだろう。私からクロードくんにその話をしたのだと勘違いされている、と気が付くのに、少し時間がかかった。そのせいで、私はローレンツくんの追撃を許してしまったのだ。
「利はないからね」
「りはない?」
「そうだろう? それに、周囲が思うような幼馴染という関係ではないだろう、僕たちは」
周囲が思うような幼馴染、とはどういうことを言うのだろうか。
ルーヴェンクラッセにはイングリットちゃんという女の子がいる。寮の部屋が近い彼女とは、学級は違っても会話をすることが多く、ちょっとした身の上話なんかは互いにしている仲だ。ファーガス貴族の一人である彼女は、次期国王であるディミトリくんだけでなく、年齢も領地も近い数名の男子と幼馴染であるらしい。実際、それと思しき男の子に幼馴染ならではの気安さで何か注意をしている姿も見かけたことがある。確かに彼女たちに比べたら、私たちはそういう関係ではないのかもしれない。だけど、はっきりと口にしなくたってと思うのだ。言い返せないけれど。
「……ああ、はい、そう、です、ねえ」
渋面で返した私を、ローレンツくんは気に留める様子もない。
「これ以上広めないようにしてもらえると助かるよ。互いに建設的な関係であろうじゃないか」
表情には出ていただろう。あと一押し何かがあれば、そのままローレンツくんの足を踏みつけてしまっていたかもしれない。怒りで手が震えたのなんて、初めてだった。食器がカチャカチャと音を立てる。目の前に立つ女がこんなに腹を立てているのに、それに気づかないローレンツくんは、色んなものが足りてない。
コーデリア、エドマンド、ゴネリル、そしてリーガン。そういう未来の同盟を担う重要な立ち位置にいない私とは付き合う気もなければ、過去のことすらも汚点と消し去るつもりなのか。
ローレンツくんの言葉に返事をせず、私は大股でその場を去った。その際に足を引き攣らせて、酷い痛みに見舞われたけれど、立ち止まることもできない。怒りで涙ぐみながら、それでも食堂の方には「ごちそうさまでした」と言って空になった食器を渡す。
「お、」
クロードくんに声をかけられたけれど、今立ち止まったら泣いてしまう気がしたから、後ろ髪を引かれつつも聞こえなかったふりをして食堂を出た。今はまともに返事もできない気がした。
釣り池へと続く階段を降りる途中で、私はとうとうしゃがみ込む。足は痛いし、頭もぐちゃぐちゃだし、胸だってむかむかする。今のは酷くないだろうかとぶちまけたくても、吐き出す相手はどこにもいない。だって、「僕たちの関係は誰にも言うな」と念を押されてしまったのだから。
ここで泣くのは何だか負けた気がして、唇を噛んで耐えた。だから、私の背後で誰かが足を止めたことに気づいても、振り向けなかったのだ。隅っこに座っているんだから、私なんか避けて降りて行けばいいのに、単なる通行人だと思い込んで、そう念じたけれど、違った。
「……悩み事か?」
それは、抑揚も、温度もない声だった。鼻を啜れば、微かに血の匂いが空気に混ざっているのを感じる。あ、ベレト先生だ。青獅子の学級の担任が、どうしてわざわざ私に声をかけるのだろう。そう思ったけれど、挨拶をする元気も、媚を売る必要も感じない。項垂れたまま「怒り事です」と答えれば、その人は私の背後で「なるほど」と、分かっているのだかいないのだか、呟いた。
「そういうのは、釣りでもすると気が紛れるらしい」
「らしい……」
「自分には良く分からないが」
「分からない?」
分からないのに勧めるのか、と思わず顔をあげても、ベレト先生は未だに私の背後に立ったままらしい。せめて正面に回ってきてくれればいいものを、そう思いながら身を捩れば、不思議な色の瞳でじっと見下ろされていたから、面食らう。
「確か……ヒルシュクラッセの……」
「……です……」
「。わかった」
名乗った瞬間、その双眸が僅かに緩んだのが分かった。一応眉を寄せていたらしい。表情にもほとんど変化がないのだから、本当にわかりにくい先生だ。
ベレト先生はそのまま踵を返すと、食堂へと戻っていった。もしかして、偶然通りかかったのではなく、食堂からわざわざ追いかけてきてくれたのだろうか。私が誰だったかもはっきりと覚えていなかったのに。そして、彼はあれで慰めたつもりでいるらしい。私の気が紛れたとも。
その後ろ姿をぼんやりと見送っているうちに、しかし本当にさっきまで確かにあったはずの怒りがゆるゆると解けつつあるのを感じた。ローレンツくんのことは当分許せそうにないけれど、出会いがしらに表情に出るほどでもないだろう。釣り堀の方に目線を向ければ、騎士団のアロイスさんが丁度釣り糸を池に垂らしたところだった。