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「ねえ? ちゃんもそう思うよねー?」
突然ヒルダちゃんに話を振られて、私は「えっ!」と必要以上に大きな声をあげてしまった。
教室の一番前の長机に集まった皆の視線が一斉に私に注がれるけれど、私の真後ろに立っていたレオニーちゃんがすかさず「ったく、ぼーっとしてんなよな。いくらは出ないって決まってても、一応学級の対抗戦なんだからさあ」と全員の心を代弁するかのように文句を言ってくれたため、私は素直に「ご、ごめん」と謝罪した。
レオニーちゃんはさばさばとしていて、私よりちょっとだけ年上の女の子だ。身分に拘泥せず、言葉を飾ることもしないから、例え相手が貴族であろうと言いにくいことも臆せずはっきりと言ってくれる。
だからこそ、学級の皆が集まった長机の真ん中で、ちょうど私の右斜め前方にいるクロードくんが書いていた字に目を奪われていたなんて、死んでも言えない。
学校生活に慣れ始めるかどうかの大樹の節の終わりに、ガルグ=マク士官学校では三学級合同の対抗戦がある。その代表者を決める学級会であったけれど、私は早々に補欠に振られた。
あの夜から、明日で十日だ。相変わらず私の足は後遺症と呼ぶに相応しい症状を持ったままで、宣言通りクロードくんの付き添いは続いている。その状況を見て責任を感じてしまっているのか、いくら首を振ってもマリアンヌちゃんが一日に一回消え入りそうな声で「大丈夫ですか……ごめんなさい、私のせいで……」と声をかけてくれるのが、申し訳なかった。
自分が折ってしまった話を再開してもらうためにも、最初に声をかけてくれたヒルダちゃんの方に目線をやれば、彼女はさして気にしてもいないと言うように、頭の上で二つに結われた、花の色をした長い髪を揺らしてにっこりと微笑んだ。
「あたしもちゃんと一緒に補欠がいいなーって言ったの。ほら、あたしってか弱いしねー」
あたしの代わり、ローレンツくんなんて適任じゃないかな? と小首を傾げるヒルダちゃんは、当のローレンツくんに向かって可愛らしい笑みを浮かべるけれど、クロードくんの書き記したものを凝視していた私は知っている。ヒルダちゃんの名前が最初から「副官」の欄に書かれていたことを。
「ヒルダさん。お目が高いじゃないか! 勿論僕はこの武を戦場で振るうつもりだよ。何と言ったって僕は品行方正、容姿端麗にして才気煥発の」
ローレンツ=ヘルマン=グロスタールなのだから!
昔から変わらない彼の台詞を心の中で揃えて呟きながら、私はヒルダちゃんの目がとうとうクロードくんの手元に落ちるのを見た。「えーっ! 副官? 何であたしがー!」クロードくんは分かりやすく肩を竦めて、彼女の顔に目だけを向ける。
「副官は楽だぞ、ヒルダ。俺の隣で戦況を見ていりゃ良いし、責任は全部俺に被せられる」
「ええー? まあそうかもしれないけどー、そもそも補欠よりも楽なものってなくないー?」
「いや、それはそうなんだが、戦場に出ることにより受けられる恩恵っていうのがあるんだ」
「えー、何それー?」
眉根を寄せながらも、「恩恵」と言う言葉にヒルダちゃんは僅かに反応した。その瞳の動きを楽しむように、クロードくんは双眸を細める。こういう顔つきは、彼を年齢よりも子供っぽく見せるから不思議だ。自分の隣に座っていたヒルダちゃんの顔をきちんと見て話すために、クロードくんは椅子を引いて彼女と向かい合う。
「さすがのヒルダも、他の学級の連中とはまだ関わりが浅いだろう?」
「そうねー。まだ入学して日も浅いし、喋ったことない子もいっぱいいるかなー」
「そういう連中と戦って、敢えて急所を外す。動けるか動けないか、ってあたりまでは痛めつけてやるんだ」
「えー? 何それー……逆に怖くないー?」
「まあ最後まで話を聞けって。大概そうなると戦意を喪失するのが人間ってもんだ。所詮これは学級対抗戦だしな、そうだろ?」
「……まあ、確かにあたしもちょっとでも怪我したらやめるかなー」
「ま、勿論そうじゃないやつもいるが、それは置いとくとして……そこで見逃してやれば、恩を売れるんじゃないか? そしたら、これから先の学生生活、ちょっとは楽になるだろ」
「……そりゃあそうかもしれないけど。でも、まずその動けるか動けないかまで持っていくのが無理なんだってー。あたしはか弱いって言ってるでしょー?」
「何のために俺が隣にいる? 援護してやるよ。お前が一番いいとこを持っていけるようにな」
「……んー」
ほんの少しだけ頬を膨らませたヒルダちゃんは、考え込むような仕草で一度目を伏せた。
クロードくんの熱意も分からないでもない。ヒルダちゃんは、あのゴネリル家の令嬢で、お兄さんはあの勇猛果敢なホルスト将軍だ。本人は引き合いに出されることを嫌ってか、事あるごとにやる気がないこと、才能がないことを口にするけれど、その訓練成績は学級で一番斧の扱いに長けていることを証明している。彼女のやる気を引き出せば、随一の戦力になることは間違いない、とクロードくんは踏んでいるのだろう。でも、期待されることを何よりも嫌がっているように思えるヒルダちゃんに、それが伝わってしまったら元も子もない、そう思ったけれど。
「というのは建前で、お前が居れば男どもは攻撃しにくいだろうという敵の心理をついた戦法さ」
と添えることで、その戦力に期待をしているわけではない、と暗に付け加えるのも忘れないのだから恐れ入る。
結局ヒルダちゃんは、渋々副官を引き受けた。「もー、わかったわよー。じゃあ今回はクロードくんに貸し一つってことでー」なんて気軽に言えるその関係性が羨ましくて、私は初めて、自分の足の怪我を疎ましく思ってしまう。
私も学級対抗戦、出てみたかったな。クロードくんの戦うところを、間近で見てみたかった。
「いやー、しかし、すんなり決まって良かった良かった」
「そうだねえ、特にヒルダちゃんの説得なんて鮮やかだった。頭が回るんだねえ」
「最後は良心に訴えかける作戦が効いたからな。性根の良い連中ばかりで良かったよ」
「恩も売られちゃったしね」
「はは、そうなんだよなあ。逆手に取られた」
おどけて言う彼に笑ってしまう。
今日はマヌエラ先生に足を診てもらう日だったのだけれど、クロードくんはそれを知っていたらしく、授業が終了すると私に向かって「さあ、共に参ろうか」なんて演技じみた声音で言うから、私はうっかり吹き出してしまった。おかげで断ろうと思っていたのに、断れなかった。クロードくんも忙しいだろうし、一人で行けるよ、私はそう言うべきだったのに。
だけど、クロードくんが私の小さな歩幅に合わせて歩いてくれることが、私は何よりも嬉しい。
大広間の二階に続く階段を昇るとき、無意識だったのか、彼は一瞬、私に手を差し出した。私が目を見開いて、その顔を凝視してしまったせいだろう。クロードくんは「ああ、悪い、つい」と笑って、誤魔化すようにその手の平を自分の腰のあたりで拭ったから、私はそれだけでも顔が熱くなる。彼の手の代わりに握った手すりはひやりとしていたけれど、私の熱を上手く吸い取るには足りなかった。足は今も引き攣るような嫌な感覚を残しているのに、不思議なくらいに軽い。
「そういえば、ローレンツと幼馴染なんだって?」
話を変えるクロードくんに頷くけれど、私はこの話を誰にもしていなかった。ローレンツくんとそうと悟られるような個人的な話をしたことも一度もないから、本人から聞いたのかもしれない。
「うん、でも幼馴染って言っても、久しぶりに会ったんだけどね」
「へえ、そうなのか?」
「十年ぶりかなあ。背が高くなってたからびっくりしちゃって」
「ああ〜、そりゃ確かにびっくりするだろうな」
他愛もない話題で緊張と動揺を誤魔化しながら向かった医務室に、しかしマヌエラ先生の姿はなかった。何となく肩すかしを食らったような気分になるけれど、仕方ない。
「不在か……。もしかしたら、まだ学級の方に居るのかもな。どうせアドラークラッセは通りしなだったし、覗いてくれば良かったか」
「そうだねえ。ハンネマン先生も教室に残ってたもんね」
「ベレト先生もな」
「そっちは見たんだ」
「まあな。異色の経歴だし、やっぱり気になるよ」
ルーヴェンクラッセの新任教師を、クロードくんはやけに気にする。彼が歩けば目で追いかけ、ガルグ=マク内で迷っている様子があれば声をかける。自分の学級の先生でもないのに。
大広間の二階、レア様のいらっしゃる謁見の間を通り過ぎれば、セイロス教の信者の方がやってくることはそうそうない。精々勉強熱心な生徒が奥にある書庫を利用するために医務室の前を通りかかるくらいで、教室に比べれば随分と静かなものだった。
二人きり。
そう思ったら、彼の顔を見ることも難しかった。おかしいな、と思う。教室で学級別対抗戦の話をしていたときは、あんなにも目が合わないかな、なんて思っていたのに。今の私は、彼に視線を送ることもできずにいる。
「」
不意に名前を呼ばれて、私はようやく顔をあげた。
私はやっぱり、クロードくんのことを特別だと思ってしまっている。彼の一挙一動に目を奪われる。彼が次に何を言うかを考える。その瞳がどこを見ているのかを確認してしまう。他の子と話しているときの表情に、何か差があるかどうか。観察ばかりしてしまう。もしも、もしも誰かが彼の特別になるのなら、それは一体誰なのか。
「お前はベレト先生のことを、どう思う?」
クロードくんは、真っ直ぐ私を見つめていた。そこに感情はほとんどないように思えた。それこそ、彼が今口にしたベレト先生その人のようだ。私はなぜか、殴られたような衝撃を受けながら、数日前に初めて言葉を交わした彼のことを考える。
表情の変化に乏しくて、声には張りも抑揚もなくて、ただ、彼からは染みついた血の臭いがした。だから、彼が私に声をかけてきたとき「もしかして怪我でもしているんですか?」なんて、見当違いなことを言ってしまったのだ。そんな私に、彼は僅かに目を見開いただけだった。あのベレト先生に、クロードくんは微かな執心を見せている。そう思ってもいいのだろう。だって、彼のこんな目を、私は見たことがない。その奥に何かを隠しているように思えた。彼にそんなことを思ったのは初めてだった。
この状況を意識しているのは、私だけだ。私の中の熱が、音を立てて引いていく。
私は今、彼に「特別扱い」をされているだけで、彼の「特別」ではない。