名前を呼ばれたときは、まだそれが誰か分からなかった。
 ツィリルくんの声は記憶から掘り起こすものというよりも、常に私の隣にあるものだ。
 私は(とても気持ち悪いかもしれないけれど)仕事をしながら、脳内のツィリルくんから度々叱られていた。「、それじゃあだめだよ」「楽しようとしないで」「雑すぎるでしょ」みたいに。そうすると、仕事は少しだけ捗った。それらはかつて実際にツィリルくんから向けられたもので、その時の抑揚から声色から、私はきちんとそれを再生していたつもりでいて、だから、だからこそ分からなかったのだ。
 今背中に落ちた「」は、私の記憶の中の彼の声よりも、少し低かった。「」っていう私の名前が、とても大切に呼ばれたように思えた。それでもその声ははっきりとした磁力を持って私を引っ張った。吸い寄せられるみたいだった。
 振り向いたとき、水を絞ったシーツを、私はとんでもないことに、そのまま地面に落としてしまう。だけど、どうしてそれを今、気にしていられただろう。



「ツィリルくん」



 口にしたその名前は、今まで彼に向けてきたどんなものよりも水分を吸って、重たい。
 ゴネリル家の屋敷の、裏庭。建物の影にならない日当たりのいい場所は、空に向かってぽっかりと口を開けている。その少し手前の、木々の影になる部分に、彼は木漏れ日を背負って立っていた。幻覚ではなかった。だって、彼は私の見たことのない青みがかった服を着ていたから。僅かに丸みを帯びていた頬はすっきりとしていて、体つきもしっかりしていた。声のトーンが、ちょっとだけ低くなった。だけどそれは、確かにツィリルくんだったのだ。
 びっくりすると、頭って、本当に働かなくなっちゃうみたいだ。限界まで目を見開く私のことを見るツィリルくんがどんな表情をしているのかすら判別できないのは、勝手に涙が出てきたせいかもしれない。



「なんで」



 固まったまま動けずにいる私の傍に歩み寄るツィリルくんは、私の足元にあるシーツを拾い上げて、土を払う。「これ、洗い直さなきゃだね」って、ちょっと困ったように首を傾げて。ツィリルくんだ、と思った。そうされたら、私はどうしても込み上げてくる感情を抑えられなかった。
 ツィリルくんが手にしていたシーツごと、抱きしめた。めいっぱいの力を入れても、びくともしなかった。それが嬉しかった。信じられないくらいに。



「わっ、ちょ」



 驚いたらしいツィリルくんの身体が強張る。記憶の中の彼は私よりも頭半分近く小さかったのに、それはもう男の人のものだった。かたくて、骨張っていて、熱い、ずっと、私のものよりも。生きている、って、そう思ったら益々泣けてきた。「きっと生きているだろう」って言うクロードくんたちの話を私は信じていたけれど、半年あまりの空白は、私を不安にさせるには充分過ぎたから。
 ツィリルくんの肩口に顔を埋める。鼻を啜って、それから、声をあげて泣いた。胸とか、お腹のあたりは、ツィリルくんが拾ってくれた湿ったシーツのせいで冷たくなっていたけれど。ツィリルくんはちょっとの間を置いてから、シーツを持っていない片方の手を私の背に回して、宥めるように撫でてくれた。あったかい手の平が優しくて、懐かしくて、それだけで鼻の奥が痛くなるのに、やめないでほしい、って思ってしまう。声が出なくて、代わりに額を擦りつけた。ツィリルくんは私が泣き止むまで、ずっとそうしていてくれた。大聖堂で話した、あの夜のことを思い出したのが、私だけでないならいいと思った。



「ごめん」



 謝るツィリルくんに、私は大きく首を振る。「ごめん、」何も言わなくてよかったのだ、ただそこにいてくれるだけで。
 乾燥してひび割れた地面に伸びるツィリルくんの影の大きさは、私のそれと、もう大差なかった。それがなんだか、残酷なことのように思えた。








 ツィリルくんはガルグ=マクが陥落してからの半年間、ずっとレアさまを捜していたらしい。



「手がかりは、今も全然ないんだけどね」



 そう言いながらも、彼は全く諦めていないようだった。セテスさんたちと共に王国領を転々としながら情報を集め(今はフラルダリウスを拠点にしているんだって。いまいち場所が良く分かんないけれど、シルヴァンくんのおうちより、ちょっと南にあるらしい)各地に離散したセイロス騎士団からの情報をまとめ、気がかりなことがあれば重点的に調査している。だけどそのどれもが未だ結実していないのは、レアさまの所在が明らかになっていないことから見ても明らかだった。
 行方不明のまま半年、って言われてしまうと、私なんかはちょっと絶望的なんじゃないかなって薄ら思ってしまう。でも、私もレアさまのことは好きだった。きれいで、やさしくて、尊いお方、レアさまがあの夏、私に従士として働くことを勧めてくれたから、私はこのフォドラで今も生きていられている。だから、例え難しいことのように思えても、生きていてほしいと思った。私自身がそう願うっていうのもそうだったけれど、ツィリルくんに悲しんでほしくない、ってことの方が大きかったのかもしれない。私は、ツィリルくんとレアさまの思い出には入り込めないけど、だからこそ、彼が大事にしているものが、欠けることなくあってほしかった。



「生きていてほしいね」



 そう言ったら、ツィリルくんはちょっとびっくりしたような顔で私を見た。それから彼が微かに頷くまで、私は少しだけ、上手く息ができなかった。そろりと視線を落とす。張られた水の中、腕まくりをした袖から出た手首が動くのを、もっと余裕を持って見られたら良かった。
 落としてしまったことで土の付いたシーツは流石にそのまま干せなくて、水を張った桶に入れてもう一度洗い直さなくてはいけなかったんだけど、それをツィリルくんは当たり前のように手伝ってくれている。だけど、二人で向かい合って汚れを落としていると、なんだか背中のあたりがむずむずして、落ち着かなかった。一応「ゴネリル家の使用人」としては、セイロス聖教会の使いで来ている彼にこんなこと手伝わせてはいけないんだけど、そう言った私にツィリルくんはむっとした顔で「今はセイロス聖教会の人間だと思わないでいいよ」って返されてしまって、それで今に至る。でも、やっぱり申し訳ない。
 こんなところ、他の使用人に見られたら怒られるんだろうなあ。そろりと視線を彷徨わせるけれど、屋敷の裏庭はひっそりしていて、喧噪も遠い。そのままツィリルくんに視線を向けたら、彼は目を伏せて、丹念にシーツを洗っていた。黒い睫毛は彼の目を縁取るように濃く生えていて、一年前の私はそれを見て「いいなぁ!」って言ったっけ。そのときツィリルくんはまだ幼さの残る顔で私を見て、「アナタの目は変わっているね」って言った。私の目は普通に丸いし、睫毛も多くもなければ少なくもない。色だって、何の変哲も無い黒だ。そうかなって首を傾げたら、ツィリルくんは今度は囁くような声音で、「変わっているよ」って言った。そんなことを、今、不意に思い出す。
 汚れを吸った水が黒く澱んでいく。シーツを引き上げれば、沈殿した砂が底に落ちていった。端からぎゅう、と絞っていたら、「貸して」って言われて、ツィリルくんが絞り直してくれた。余分な水気のなくなったシーツは、ツィリルくんの手の中にあるといっそうきれいに見えた。ごつごつして骨張った手は、もうすっかり、男の子のものだった。
 空いている物干し竿に広げて干せば、他のシーツたちと一緒に風にはためいて、ばたばたと大きな音を立てた。鳥が飛び立つ音みたいで、好きだ。昔ツィリルくんに教わったように皺を伸ばしていたら、何だかここがガルグ=マクなんじゃないか、って思えてくる。
 懐かしさに、一度止まったはずの涙がまた込み上げてくるのを感じて、こっそり鼻を啜った。「でも、びっくりした」ってツィリルくんが言うから、そろりと彼の方を見る。



がゴネリルにいるなんて、思わなかったから」



 責めているような口調では、決してなかった。ゴネリルの空は、砂を吸って少しけぶっている。だけど、その下で私を真っ直ぐ見るツィリルくんの黒い髪が、その薄い色をした空に良く映えた。「情勢から見たら、グロスタールからどこかに動いているだろうとは思っていたけれど」どちらかと言えば、懺悔するような声音に近いそれは、私たちの間に横たわる空白の手触りを確かめるみたいに、慎み深い。



「そうなの。リーガンの……デアドラ……だっけ? クロードくんのところも、今後の状況によってはどうなるか分からないからーって言われて、それでゴネリルに」

「それで使用人なんだもんね。アナタって、相変わらず変わってる。……ヒルダの友人なんだから、お客さんでいれば良いのに」

「ええ、そうかなあ? ……何もしないでいるの、落ち着かないんだよね。大修道院での暮らしがもう染みこんじゃったみたい」



 そこにツィリルくんがいてくれたら、もう、言うことないんだけど。
 その言葉は、絶対に言えなかった。代わりに使用人に支給される制服の裾を持ち上げて「それにどう? 可愛いでしょ、このスカート」って、誤魔化すみたいに首を傾げる。あ、でもスカートじゃなくて、フォドラでは下衣、だっけ。でもツィリルくんは私の仕草で、何のことを言っているのか分かっているみたいだった。じって、目線を落とされる。はいはい、って返してくれればいいのに、ツィリルくんはわざわざ目を見て、「うん。かわいい」って言うから、びっくりして「わは」って変な声を出してしまった。首から上が、熱い。不意打ちで褒めるなんて狡い。
 思わず顔を押さえて目線を泳がせる私に、だけどツィリルくんは、そっと呟く。



が元気そうで、良かった」



 それは、妙に重く響いた。
 時間、なのかな、って、ちょっとだけ思った。ツィリルくんはセイロス聖教会の使いとしてゴネリルにやってきて、ヒルダちゃんのお父さんと教会に協力を仰いだ。それが済んだ以上、ツィリルくんはまたフラルダリウスに戻らなければならないだろう。そしたら、次に会えるのは、一体いつになる?
 行かないで、なんて言えない、だったらせめて、次はいつ会えるかくらい、聞かなくちゃ。風にはためくシーツが私とツィリルくんの間を泳ぐ。数秒間視界が遮られた。その間に、少しでもこの、切迫めいた感情が収まってくれれば良かったのに、私はそれが元の形に収束してもなお、鼓動を押さえられないでいる。持ち上げなくてはいけないコップに、なみなみと液体が注がれているみたいだった。そんな状態で、約束してほしいなんて、言えるはずが無い。
 だけどツィリルくんは、私の顔を見て、そっと首を傾げた。「」って。彼の私を呼ぶ声は、いつも丁寧で、丸い。ツィリルくんの手が、私の身体の前に落ちていた手首を取る。壊れ物にするみたいに触れられて、成されるがまま、私は彼の顔を見る。日の落ちる空みたいな、柔らかい目が、私を捉えていた。



「待っててくれる?」



 その言葉に、どうして息を止めずにいられたのか。
 私たちの目線の高さは、この半年で、変わらなくなってしまった。小柄で頼りなかった痩躯は筋肉がついて、顔つきも大人びた。時間は私たちの間に平等に流れているはずなのに、私は彼に、置いて行かれている。
 でも、それは正しいことだった、間違いなく。彼にはレアさまを捜さなくてはならないっていう使命があって、私はそうしてフォドラ中を飛び回る彼の隣にいるには、何もかもが足りなすぎたのだから。
 待ってていいの、って、聞きたかったのに、声にならなかった。視界が一気に滲んで、真ん中にいるはずのツィリルくんの輪郭が溶ける。歪んで、滲む。震えた喉がどうやったらいつも通りになってくれるのかを、私は知らなかった。
 必死で口にした「待ってる」は、だけど、ツィリルくんにちゃんと届いたんだろう。答えるみたいに、握られた手に力が込められた。それだけで私は、いくらでも生きていけるような気がした。


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