その日は薄い雲が頭上を覆っていたけれど、妙に蒸した。パルミラと山脈一つ挟んだだけの、ゴネリルらしい気候だ。乾いた空気は郷愁めいたものをボクに与えるけれど、それ以上でも以下でもなかった。懐かしむような思い出は、さしてなかったのだ。
ゴネリルの教会で挨拶と情報交換――姿を消されたレアさまについてのものがほとんどだ――をした後、司祭と一緒にゴネリルの屋敷へ向かうことになった。ゴネリル伯に、セイロス聖教会への協力を請うためだ。
道中街行く人にはちらちらと無遠慮な視線を向けられたけれど、隣に司祭がいてくれたから、面倒なことにはならなかった。フォドラにおいて、聖職者っていうのは無条件に周囲の信用を得る。だけど、司祭にとってはボクだって似たようなものだ。セイロス聖教会の使いとしてやって来たボクは、それだけで信頼に足る存在になるんだから。……例えパルミラ人であっても。
「フラルダリウスから遙々おいでなさったというのに、休む間もなく、お疲れでしょう。……お屋敷は、すぐそこですから」
司祭の深い、しわがれた声は、染みこむように優しい。なんて答えたらいいのか分からなくて、慌てて「いえ」とだけ答えた。ボクの内心を見透かされたような気がしたけれど、司祭の横顔は一点の曇りもなく、穏やかだった。
訪れた屋敷は昔と全然変わっていなくて、ボクは少しだけ、ほっとした。
ボクがここで働いていたのは、まだ十一とか十二歳だった頃の一年間。あれから四年程度しか経っていないんだからそう変わるものでもないとは思うけれど、たった数節でフォドラの情勢が大きく変動した時点で、そんなのは当てになるもんじゃない。
ところでそもそもパルミラ人のボクがどうして縁もゆかりもないゴネリルにいたかっていうと、簡単だ。フォドラに侵攻するパルミラ軍に従軍していたら、兵士たちにあっさり切り捨てられて置いて行かれてしまったのだ。パルミラではフォドラの人は臆病者、って言われてるけど、捕まったっていうのに殺されなかったのには拍子抜けした。子供だったせいなのかな。わからないけれど。そのときのボクはうっすら、本当にフォドラの人間は臆病者なんだな、って思った。少なくとも、ボクを見捨てた兵士だったら、きっと子供でも容赦なく殺しただろう。ゴネリルの兵士たちは、自分たちの仲間を殺したパルミラ兵すら捕虜にする。
パルミラに対しての捕虜にすらなり得なかったボクは、ゴネリルの屋敷の下働きとなった。壺を磨く、っていうのはパルミラでは経験がなかったけれど、それ以外の仕事はボクがずっとやってきたこととそう変わらなかったから、上手くやれた。パルミラ人のくせにいやに仕事が丁寧ね、どんなことを考えているかわかったもんじゃないわ。――そういう会話は、当時、耳の裏に張り付いてるみたいに頻繁に聞こえたものだった。
「こちらの部屋でお待ちください」
あの頃のボクは、まさか自分がこうして客人として応対される側に立つとは考えてもいなかった。ボクたちを案内してくれた使用人の顔をボクはちゃんと覚えていたけれど、彼女は全く気がつく様子もない。成長したせいかな。……興味がないのかも。
司祭とボクが案内された応接間は広くて、掃除が行き届いていた。ボクたちの来訪を受けて、遅れて部屋にやって来たゴネリル伯と司祭が話しているのを、ボクはじっと、黙って聞いていた。あまり、難しい話をするのは得意ではないから。本当だったらレアさまの代理を務めているセテスさんから頼まれたボクが現状を報告すべきだとは分かっていたのだけれど、それらは全て、司祭の方が説明してくれた。教会でボクが話したときよりも、ずっと分かりやすくまとまっていて、ちょっとびっくりした。得手不得手があるだろう、シャミアさんの声が聞こえた気がして、マメだらけの手の平を、こっそり撫でる。
ゴネリル伯は、大らかだった。こちらの話をきちんと聞いてくれて、最後は協力の約束をしてくれた。兵士に通達して、レアさまの足取りを探らせよう、と。司祭と握手をした後、ボクにまで手を差し出してくれたのには驚いた。パルミラ人で、まだ子供のボクに、ゴネリル伯は相応の礼儀を持って接してくれるのだ。そう思ったら、どんな顔をしたらいいのか、わからなくなってしまった。
ヒルダはゴネリル伯と入れ違いで部屋にやって来た。
恐らく、セイロス聖教会の人間が来ていることを聞きつけ、話し合いが終わるのを待っていたのだろう。司祭の隣に立つボクをみとめた彼女は「やっぱりツィリルくんじゃない!」と目を見開いて叫んだ。やっぱり、ってことは、何かボクと思しき特徴を聞かされていたんだろう。いちいち気にしていられないから、頭の端に引っかかりそうになったそれをそっと払いのけて落とす。
気を利かせてくれたのか、司祭はボクに「先に教会に戻ります」と会釈をすると、ヒルダにも深々とお辞儀をして応接室を後にした。数人の使用人の視線が痛かったけれど、ヒルダは構わずにボクに駆け寄る。
「教会の人が来てるーって聞いたから、慌てて来たんだよー! もう、水臭いなあ。声をかけてくれたって良いじゃないー!」
「いや、ボクだってアナタと話ができたらいいと思っていたんだよ。……会えて良かった」
こういうとき、「セイロス騎士団の人間」としてであれば、本来なら先に話さなければならないことはたくさんあった。聖教会の現状、レアさまの安否、帝国の動向――だけど、ボクは彼女の姿をみとめた瞬間、そういうのを全部脱ぎ捨ててしまったのだ。「ヒルダ」呼びかけた声が、微かに震えた。
本当に、嫌になる。
「がどうしているか、ヒルダは知ってる?」
ヒルダはボクの言葉に、ちょっとだけ目を丸くしてから、僅かに眉尻を下げた。「その様子だと、グロスタールには行ってないのね」って。
痛いところをつかれたような気になって、言葉に詰まった。だけど、ヒルダは全部分かっているとでも言うかのように緩く首を振る。
「いるわよ、ちゃん。ゴネリルに」
思いも寄らないその言葉に、ボクは頬を殴られたような気がした。
金鹿の学級の生徒たちは、帝国軍により攻囲されたガルグ=マクから辛くも脱出。オールバニ領を経由してグロスタールへ到達後、と再会した。
傷を癒すため、深傷を負った数人は数日間、グロスタールで療養をすることになる。帝国が王国、同盟へ向けて宣戦をしたのは丁度その頃で、クロードは帝国領にほど近いグロスタールからを避難させることを提案した。その行き先となったのが、ゴネリルだった。
今後の戦況が読めない以上、同盟領の中心であるリーガンに滞在させるのも避けたかったのだ、とヒルダは言った。ボクはそういうことまで頭が回らないから、ちょっと驚いた。本当に、彼らは賢い。先を見る目を、きちんと持っている。
だけど、その後に続けられた言葉を、ボクはすぐには飲み込めなかった。ゴネリルにやって来た彼女は今、この屋敷で使用人として働いているという。
「使用人? が?」
思わず尋ね返してしまった言葉に、室内に控えていた数人の女性たちがそっと視線を寄越したけれど、構っていられない。
「どうして」
「うーん、そういうのは、あたしじゃなくて本人から聞いた方がいいと思うけどー……」
だから、早く会いに行ってあげて。
そう続けたヒルダの声は、ボクの知る彼女のものよりも僅かに切迫めいていた。
は今、屋敷の裏庭にいるらしい。道順を教えてくれようとするヒルダに首を振った。この屋敷の構造は、まだボクの頭に残っていた。
ヒルダにお礼を言って応接室を飛び出したボクは、だけど、にどんな顔をして会ったら良いのか、全然わかっていない。湧き上がる情動の正体にも答えが出せないまま、ボクはの元へと向かおうとしている。半年前に別れたきりの女の子。ボクの心の中には、ずっとあの子が住み着いていた。どうしようもないくらいに。
屋敷の裏庭で、は敷布を干していた。
びっくりした。本当に、本当に彼女はゴネリルの使用人になったらしい。ちょっとだけ、ヒルダの嘘なんじゃないかなって思ってた節があったのに。
は他の使用人と同じように、長い裾の、大人しい服を着ていた。それがなんだか新鮮で、どうしたものか、わからなくなる。ボクと別れたときよりも髪が長くなっていて、首の後ろで緩く結んでいた。調子のずれた鼻歌を歌う彼女は、長い睫毛をゆっくり瞬かせながら、ボクの存在に気がつく様子もなく干し場全体を眺めている。
一枚ずつ丁寧に広げられたそれらの皺をきちんと伸ばしていくのを見たら、こんなときなのに、何だか笑えた。は最初の頃、「洗濯物なんか干したことなくて……」って、どこかの貴族みたいなことを言っていたくらいだったのに。取りこぼしてきた記憶たちが、懐かしかった。ただ、ただ。
ボクの息を止める真綿のようだった。
「」
意を決して、というよりも、それはするりと喉から出てきた。
掠れた声だった。
干す直前の濡れた敷布を手にしたまま、はボクを振り向く。秋の、乾いた風が吹いていた。の黒い髪の一房が、その頬にかかっていた。ボクを視界の真ん中に収めた彼女の瞳は、ただ、どこまでも丸かった。