アドラステア帝国がガルグ=マクを制圧したのは、去年の終わりのことだった。
多くの死傷者を出す、凄惨な戦いだったと言う。帝国軍は軍事力でも策でもセイロス騎士団を圧倒し、大修道院を守るための防衛線は呆気なく破られた。大聖堂は天井から崩落し、ガルグ=マクの至るところに夥しい数の死体が散乱した。混乱のさなか、レアさまとベレト先生は共に消息不明となり、二人は今に至るまで見つかっていない。
幸運だったのは、ガルグ=マクに残った士官学校の生徒たちが皆戦場を離脱できたこと、だろうか。
だけど、グロスタールで一人待ち続けた私にとっては、それだけでも充分だった。
帝国軍によってガルグ=マクが陥落したとの報せは早い段階でグロスタールに届いていて、領都は忽ち騒がしくなった。グロスタール伯――ローレンツくんのお父さんだ――がどうにか混乱を治めようとしてくれていたけれど、それでも動揺は染みこむように伝播していく。だって、ずっと保たれていた均衡が崩れてしまった、ってことでしょう? それがどれだけ恐ろしいことなのかは、私にだってわかる。
元来の楽観主義は、起こってしまったことについては作用しない。部屋に閉じこもっていようが、外に出ようが、気持ちは晴れなかった。こんな状況で前向きな考えなんか、浮かぶわけがない。これからどうなるんだろう、っていう領都の人たちの不安そうな声に一緒になって落ち込んで、皆の無事を祈るしか無かった。ツィリルくんや、クロードくんやヒルダちゃんたちが、どうか生きていますように。どうか、どうか。って。
だから、私がお世話になっていた宿場の部屋の扉を、グロスタール伯の使者を名乗る方が突然叩いたときも、生きた心地がしなかったのだ。
使者に連れられてグロスタールのお屋敷に向かった私は、通された部屋の先で、ガルグ=マクから逃げ延びてきたクロードくんたちと再会する。
「よ、。元気そうでなによりだ」
薄く笑ったクロードくんのその瞳に、疲労は確かに滲んでいたけれど。
あの時私を端から満たした安堵を、私は今もはっきり覚えている。
ガルグ=マクから落ち延びてたクロードくんたちとの再会から間もなく、私は今後の身の振り方を選択しなければならなくなった。
クロードくんとヒルダちゃんに提案されたのだ。「もしもこれからどうするか決まってないなら、うちに来ないー?」って、押し付けるでもなく、本当に自然に。
ヒルダちゃんは士官学校の制服を着ていたときのように小首を傾げて微笑んでいたけれど、その身体には痛々しい傷がまだ生々しく残っていた。そんなヒルダちゃんを前にするとき、私は本当は、いつも泣きたくなっていた。
「ゴネリルもいいところだよー。グロスタールほど自然がいっぱい、ってわけじゃあないけどねー。うちでちゃんもゆっくりしたらどうかなー、って思うんだけどー」
ゴネリル。その時の私は、そう言われても、どういうところなのか具体的な場所も分からなければ、想像もできなかった。ヒルダちゃんとはずっと仲良くさせてもらっていたのに、なんて薄情なんだろう。こっそり反省する。
その頃、私が戦場になる直前のガルグ=マクを発ってから数週間が発っていた。こういった不穏な情勢下で一人過ごしていたことの不安を思い出せば、ヒルダちゃんの申し出は願ってもないことで、本当だったら私はその手を取って大きく頷いたと思う。でも、私にはそれができなかった。ツィリルくんがいなかったから。
戦いの後、ツィリルくんがどうなったかを、私は知らない。それでも、他の多くのセイロス騎士たちのように、戦いで死んでしまったわけではない、っていうことだけは確からしかった。ガルグ=マクから撤退するさなか、クロードくんはツィリルくんの飛竜が上空を飛んでいるところを見かけたらしいのだ。「状況から鑑みるに、恐らくツィリルはレアさんを捜していたんだと思うが……」その先の言葉をクロードくんが続けなかったのは、私の気持ちを汲み取っていたからなのかもしれない。
もしもその場にツィリルくんがいたら、私はきっと、ツィリルくんの言うことを聞いた。馬鹿みたいって思われるかもしれないけれど、私はツィリルくんの知らないところで、グロスタールを去るとか、ゴネリルに行くとか、自分の去就を決めていいようには思えなかったのだ。
「もうちょっと、考えてもいい?」
言葉を濁して先延ばしにする私に、二人はそれ以上、何も言わなかった。その間にツィリルくんが迎えに来てくれるんじゃないかって、実現性の低いと言わざるを得ない期待をしていたのだ。
それでも私が最終的にヒルダちゃんとゴネリルに行くことを決めたのは、その数日後、アドラステア帝国が王国と同盟の双方に宣戦をしたことに因る。
グロスタールは帝国領に程近く、今後の戦況が読めない以上は身を置き続けるのには適さないと、そうローレンツくんに言われた。かといって、リーガンもしばらくはごたつくだろう。そうなってくるとゴネリルかエドマンドの二択となるらしいのだけど、エドマンド家のマリアンヌちゃんは既に領地に戻った後だった。
「ツィリルにを頼むって言われてるんだ。……ゴネリルにいた方が、きっとツィリルも安心すると思う」
クロードくんの言葉を受けて、「では、彼がもしグロスタールに見えたらさんのことを伝えておこう」とローレンツくんは頷いた。「うんうん、あたしもちゃんがいてくれたら嬉しいなー」ヒルダちゃんにぎゅうと手を握られて、首を振れる人なんかいないだろう。そんな風に外堀を埋められたら、私はもう、ヒルダちゃんと一緒にゴネリルへ向かう他なかった。
私を思いやってくれる彼らの優しさが、ただ有り難かった。
ゴネリルでは、私はとても良くしてもらえた。お屋敷に案内されて、客人として丁重に扱われて、だけどそれが妙に落ち着かなかった。私って、根っからの「普通の人」だから。ホテルで暮らしているみたいな日々は、やっぱりちょっと息が詰まるし、申し訳ない。ゴネリルのお屋敷で数日を過ごした私は、そこで仕事を探すことにした。
本当は街の中で何か働き口を見つけられたら良かったんだけど、如何せん、文字の読み書きができない私には、ほとんどの仕事が難しいように思えた。従士として働いた経験は、ああいう場でなければ生かせないのかもしれない。そして今の私にとって「ああいう場」っていうのは、一つしかなかった。
今私が住まわせてもらっている、ゴネリル家のお屋敷だ。
「あの、ヒルダちゃん、折り入ってご相談が……」
ゴネリル家で働かせてもらえないかと尋ねた私に、ヒルダちゃんは「ええ? そんなこといいのにー」って困った顔をしていた。でも、それが一番都合が良いように思えたのだ。自分が培った技術が役に立って、文字の読み書きもそこまで必要とされない場所、って考えた場合。それに、何年この状況が続くのか分からない以上、いつまでもお客さんではいられなかった。
ゴネリル家で住み込みのお仕事をさせてもらえることになったのは、丁度梅雨に入る少し前くらいのことだった。メイドさんのお洋服は裾が長くて色味が落ち着いて、クラシカルな雰囲気を醸し出していた。鏡の前でくるりと回ったら、ちょっとだけうきうきした。
従士の服はもっとシンプルで、動きやすさ重視、って感じだったから、何だか新鮮だ。
ツィリルくんにも見てもらいたかったな、って思ったけど、思った瞬間首を振った。ツィリルくんとは、あれから一度も会えていなければ、その名前も耳にしていない。
気合を入れて臨んだゴネリル家の使用人というお仕事は、セイロス騎士団の従士と比べれば、よっぽど楽だった。
なんていうか、お仕事の種類が少ない。掃除に洗濯、部屋を整えるくらいだったんだもの。馬のお世話は兵士がするし、専門の料理人や庭師がいたから、そういう仕事も必要なかった。しかも、お屋敷は広いとは言え、使用人の数が多い。次から次へと仕事を押し付けられることもなく、時間があるときは使用人同士でお茶会なんかも開いていた。私はヒルダちゃんのお友達、っていう風に知られていたのもあってか、妙に丁寧に接されてしまうこともあったけれど、失敗したらちゃんと注意もしてもらえた。そういう点でも居心地は、本当によかった、ありがたいくらいに。
「あたしとしては日中ちゃんとおしゃべりできないのは辛いとこだけどー、もうすっかり一人前、って感じだねー」
ヒルダちゃんに言われて、照れてしまう。そうかなあ、って。でも、ツィリルくんが今の私を見たら、あれが遅い、これが雑、気がそぞろ、って言われるんだろうな。私がこうしている今も、ツィリルくんは、きっとレアさまをさがしている。
ゴネリルは、グロスタールと比べると少し空気が乾燥していて、ちょっと蒸し蒸しする。フォドラの南東部に位置し、さらにすぐ東にはフォドラの喉元って称される、お隣の国――これがガルグ=マクにいるときからちらほら耳にしたパルミラ、らしい――との国境にもなっている山脈があって、全体的にごつごつした、隆起した土地が多かった。
パルミラというと確かツィリルくんの生まれ故郷だと聞いたことがあるけれど、ゴネリルで暮らしているうちに、同じ使用人の人たちからパルミラ人が「野蛮」で「戦好き」で「粗暴」な民族だということを教わった。何年か前に下働きとしてパルミラ人の男の子が働いていたらしいけれど、目つきが悪くて、全然喋らなくて気味が悪かった、って。
だけど、それには思わず「そうなの?」と首を傾げてしまう。だってツィリルくんは理知的で、冷静で、真面目、素っ気ないけど優しかった。もう、全部真逆であるように思えてしまったのだ。ヒルダちゃんにだけこっそりそう言ったら「うんうん、へぇー、そっかそっかー」ってにこにこされてしまって、閉口したけれど。
でも、ゴネリルの人たちがそう思うのも無理はないのかもしれない。パルミラは、軍勢を率いて度々フォドラに攻め込もうとしているらしいのだ。それを国境で食い止めているのが、ヒルダちゃんのお兄さん。フォドラの喉元に建築された、首飾りの名を持つ要塞で、日々フォドラをパルミラの脅威から守っているのだと言う。
ガルグ=マクでのんびり馬の世話をしていた頃は、フォドラでそういうことが起きている、っていうことを、なんにも知らなかった。今からでも、そういうのを知ることは、遅くないかな。ベッドのシーツ(フォドラでは正しくは、寝台の、敷布)を伸ばしながら、ぼんやりと考える。
必要なことだ、だって、私はこれからもこの世界で生きていかなくちゃいけないんだもの。そうだ、いっそ、これを機に読み書きの勉強をするのもいいかもしれない。
いろんなことをして、自分の隙間を埋めて、余計なことを考える時間をなくしたかった。
ツィリルくんに会いたい、とか、そういうことを考えて、いちいち落ち込む自分が、惨めで、馬鹿みたいで、嫌だったのだ。
その人がゴネリルを訪れたのは、秋の風が吹き始める季節だった。
その時私は十九歳。本当だったらもう高校を卒業している年齢だった。
シーツを干していた私の背後から、彼は、私の名前を呼んだ。記憶の中のものよりも、それは微かに低く、掠れていた。