フォドラではない別の世界から来たのだと言うの話を、ボクはきっと全ては理解していない。
ただ、が妙に世間知らずだったのも、ボクらの誰にも通じない言葉を時折口にしたのも、出自で人を差別することがなかったのも、そういう背景によるものだったと思えば、全部腑に落ちた。ボク以上にフォドラの歴史を知らないのも、地名どころか国の名前すらぴんときていない様子だったのも、全部そのため。馬に触れなかったのも、貴族だの平民だのの差をあまり理解していないように思えたのも、踊りが奇妙だったのも、何もかも、が別の世界からやって来た女の子だったせいだ。
何か紙に文字を書き付けているのを見かけたとき、元々文字を読み書きできないボクは「って、蛇がのたくったような、変な字を書くんだな」と思っていた。けれど、それも結局は彼女が生まれ育った国のものだったからだ。もしもボクがきちんと文字を判別できていたら、もしかしたらその時点で彼女を追求することはできたのかもしれない。だけどそういう想像をしたところで、現在帰結した点はここでしかないのだから、意味はない。
「ずっと黙ってて、ごめんなさい」
「……謝ることは、ないでしょ」
ぐす、と鼻を啜るは、ボクに言葉もなく、緩く首を振った。ボクはそれに、何も言えない。
腑に落ちた、なんて言ったけれど、それは、ボクにそれなりの衝撃を与えた。だってそんなこと、誰が思いつくだろう? 学校(それも士官学校と違って、ただ勉強を学ぶ場であるらしい。が元いた場所っていうのは、争いとは無縁の国だったそうだから、武器の扱いや兵法なんか、ごく一握りの人しか学ばないんだって)で一人廊下を歩いていたら、いつの間にかガルグ=マク付近の山にいた。少し彷徨っていたところ、幸運にもボクとシャミアさんと出会って、以降はボクたちの良く知る通り、だなんて。
何も知らなかったなんて一言で、終わらせていいわけがない。
は頑張っていた。たまに元の世界の言葉を使っては口を噤み、慣れない力仕事をし、甘い物……チョコ? が食べたいとたまに漏らす以外は、いつも懸命だった。
見知らぬ土地で一人。それがどれだけ孤独なことなのかを、ボクは知っている。
「だから、どこにも行く場所がないの」
孤月の節のまだ肌寒い夜空の下、ボクの隣で膝を抱えて一つずつ言葉を選ぶは、いつもよりずっと小さく見えた。
丸まったその背はボクが思っていた以上に薄く、頼りなかった。しゃくりあげて、言葉を詰まらせて、手の甲で涙を拭う。大聖堂の外だったけれど、そうする彼女は、主に懺悔する修道女のようで、ボクは居たたまれなくなったのだ。
もしもボクが、先生くらいに強ければ。
そう考えたのは一度や二度じゃない。だってそうだったら、ボクはレアさまに認められて、褒められて、頼りにしてもらえた。だけど、今はそれと同じくらいの気持ちで、もしもボクにもっと力があれば、帝国軍が押し寄せる中でも、きっとを守れたと、そう思ってしまうのだ。
でも、そんなのただの、自分に都合が良いだけの妄想だ。
天馬の節、聖墓を暴くための帝国軍がガルグ=マクに侵入したときのことを思えば、それがただの夢物語でしかないことが分かる。と厩舎に隠れたとき、ボクは、いざとなればを飼い葉の中に押し込んで、自分が盾になるつもりだった。逃げ場のなかったあのときは、そうする他なかったから。
だけど、こうしてを逃がせる時機を持った今、ボクは彼女を逃がすことこそが彼女を「守る」ことであると思う。自分の実力というものを正しく理解しているからこそ。
にはガルグ=マクから離れてほしい。戦火の及ばないところで、無事に過ごしていてほしい。アナタが生きていると思うだけで、ボクには死ねない理由が増えるから。
だから、「生きてほしいよ」と言ったのだ。
「ボクはアナタに、やっぱり、生きてほしいよ」
微かに震えたその声では、格好が付かなかったかもしれないけれど。
「それだけじゃ、の逃げる理由にならない?」
静かな夜だった。互いに放りだした手の指先同士が触れているのに、もしかしたらは気がついていなかったのかもしれない。そうと分からない、ぬるい、生きた温度だった。この手を握る勇気があれば良かった。そうしたらもっと、色んな事が伝わったように思うから。
ボクの顔をじっと見た、の目は、濡れていた。
「グロスタールなんか丁度良いんじゃないか?」
と話をした翌朝、ボクはクロードに事情を話した。事情って言っても、の了承は得ていなかったし本人もその場にはいなかったから、「が天涯孤独で行く場所がなく困っている」っていう風に伝えただけだ。半分本当で、半分が嘘。後でにも言っておかなくちゃな、と、クロードの目を見ながら考える。
クロードは金鹿の学級の級長で、レスター諸侯同盟領の次期盟主……って言われてる人だけど、本人は気安くて、ボクが話しかけても嫌な顔一つしないから、ボクは彼のことを嫌いじゃない。頭が良く回る人だから、ボクの言葉を額面通りに受け取ったかっていうと、ちょっと疑いの余地が残るけれど。
「こんな状況とは言え同盟領内に向かう馬車は探せばまだあるだろうし、一人だったらどうにかなるだろ。……まあ、多少荷物を減らしてもらわないといけないかもしれないが」
「それは大丈夫だと思う。あの人、着の身着のままでここに来たし」
「へえ。まあ、だったら尚更問題ないさ。ローレンツに頼めば、向こうに着いてからも良くしてもらえるはずだ。俺からも頼んでおくよ」
「うん、ありがとう」
「いや、俺たちも心配してたんだ。はこんな状況だってのにいつまでもガルグ=マクに残っているし、事情を聞こうにもはぐらかされるし。ツィリルに相談してもらえて、俺も良かったよ」
クロードの言葉に胸を撫で下ろす。グロスタールだったら、きっとも安全に過ごせるはずだ。それに、こんなことは言いたくないけど、もしもガルグ=マクが陥落してしまった場合――ボクがこの戦いで命を落とした場合、クロードたちに彼女を任せられる。、と親しげにクロードが彼女の名前を呼んだのに、目の裏がちり、となったように感じたのだって、いちいち気にしなければ良いだけの話だ。
「クロード」
彼と目を合わせるのに、ボクは首を上に持ち上げなければならなかった。それが本当は、嫌だった。自分がまだ子供だと思い知らされてしまうようで。
クロードは「ん?」と微かに首を傾げる。穏やかに弧を描いた口角は、何もかもを許すみたいに見えた。ボクも、それくらいできたら良かった。
でも、そんなことできないから、ボクは頭を下げる。深く深く。そうすることで、自分の思いが伝わるはずだと信じて。
「をお願いします」
どれくらい時間が経ったかは分からない。だけどクロードは、もうそれで充分伝わったとでも言うように、ボクの肩を叩いた。
実際、本当に分かってくれたんだと思う、彼は。ボクの真意まで。「ああ、任せておけ」そう続けたクロードに触れられた部分は、いつまでも熱を帯びているようだった。じんじんしていた。放っておけばそれは、ボクの皮膚の内側に入り込んでしまうように思えた。
クロードにバレないように、頭を下げた姿勢のまま、こっそり息を吐く。熱はずっと消えなかった。痛いんだか、安堵からそうなってしまったんだか、ボクにはわからなかった。