ツィリルくんに呼び出されたのは、シャミアさんにガルグ=マクを発つよう言われた日から、数日経った夜だった。
 その頃には、帝国本軍がここガルグ=マクへ向けて進軍しているという報せを受けて、大修道院や城郭都市から、戦える手段を持たない人たちが逃げ始めていた。馬車に乗って、或いは荷車を押して王国領や同盟領へと向かう彼らを見送りながら、私は従士として、それまでと特別変わらない日々を過ごしていた。
 私自身が変化がなくても、戦争が始まるのだという緊張感はそこかしこから伝わってくる。武器や食糧を売れるだけ売ったのか、商人の姿も減り、偵察へと向かうセイロス騎士団の顔つきは険しい。士官学校の生徒たちも最早卒業どころではなく、シャミアさんから聞かされていた通り、自領へと引き上げていく学生も中にはいた。「遠くへ行くことになったの。今までありがとう」って、ルミール村から逃げてきたときに童話を聞かせた子供たちが、私に手を振った。あれだけ賑やかだったガルグ=マクは、すっかり人の気配が希薄となって、閑散としている。
 シャミアさんは一度忠告した以上は何も言わないつもりなのか、大修道院内で私と顔を合わせても、普段通りに接してくれた。ただ、一度だけ、「残るつもりなら命の保証はできないが、いいな」と、確かめるように言われた。私はそれに、曖昧に頷いたのだ。



「はい」



 自分でもびっくりするくらい、はっきりとした声だった。
 そう返事をしておきながら、残るつもりでいるのか、これから逃げる準備をする気でいるのか、判断がつかなかった。ただ、もう遅いんだろうな、とは思った。今からどこかに行く当てもなかったし、頼る人を捜すこともできなかった。そういう点で言えば、じゃあ、私はいつだったら遅くなかったんだろう。どのタイミングに巻き戻ったとしても、このガルグ=マクに保護してもらった時点で、行く場所なんか他になかった。やっぱり残るしかないのだと思った。
 私は元来楽観的な人間だった。戦争というのを、この身で経験したことがないからかもしれない。それはいつだって自分とは無関係の、遠い世界の出来事だった。
 前節、帝国軍が大修道院内に侵入してきたときは、そりゃあ命の危機を感じはしたけれど、あれはこちらに準備ができていなかったせいだ。後手に回っていて、帝国軍が衆兵(おぼえた、兵が多いってことだ)だからと言っても、ガルグ=マクにはセイロス騎士団や、帝国兵を追い払ったベレト先生がいる。一応安全のために戦えない人たちを逃がしているだけで、今回もきっと、帝国軍を打ち倒してくれるはずだ。そうやって希望的観測に縋るしかなかった。元の世界に帰れない以上、他に方法を知らなかった。戦争を目前に慌ただしく、殺伐としたガルグ=マクの中で、今更誰を頼ったらいいのかも、もう分からなかった。
 シャミアさんやツィリルくんの忠告を無視して、ここに残るしか、ないように思えたのだ。
 私でもできるお手伝いがあるかもしれない。私だって、一応セイロス騎士団に所属する従士、っていう扱いなんだもの。衛生兵? っていうの? 魔法は使えないけれど、怪我をした人の簡単な手当てとか、お水を汲んできたりとか、そういうことはできる。頑張れば、武器の管理だって、きっと。
 だけど私を大聖堂の外に呼び出したツィリルくんは、言った。



「どうしてはいつまでもここにいるの」



 名前も知らない星座が空に瞬く、奇妙なくらいに静かな夜だった。昼間と違ってほとんど人気の無い大聖堂は薄暗く、互いの呼吸音すらも耳に残った。私たちは、まるで世界に取り残されたようだった。
 厳密には、ここから離れた騎士の間では、今も騎士団の人たちが集まって作戦を立てている。レアさまたちだって、次から次へとなされる斥候からの報告を受け、終わらない会議を続けているだろう。これまでほとんど使われることのなかった砲台のチェックをしているらしい士官学校の生徒たちの姿も、ついさっき見かけた。だけどツィリルくんの瞳に見据えられると、私は自分とツィリルくん以外、何も見えなくなってしまう。元々広くない視野がさらに狭まって、上手く物事が考えられなくなってしまう。
 何も言えずに、その目からそっと視線を逸らしたら、ツィリルくんは明らかにむっとしたようだった。「」って、改めて名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。



「シャミアさんにも言われたでしょ。ガルグ=マクはもうすぐ戦場になるって。……帝国軍が来るまで、あと十日もないと思う。だからその前に、早く遠くに行かないと」



 心配してくれているのだ。ツィリルくんは。クロードくんやヒルダちゃんみたいに。でも、二人に心配されたときと、全然違った。二人にしたように曖昧に誤魔化せば、彼はきっとそれを咎めるだろう。だけど、そうでなくてもすぐに返事をすることができなかった。喉が痛くて、ともすれば引き攣りそうだった。
 生家や、親族、或いは知人のおうち、人間は、連綿と血を繋いでいくものだから、頼りになる誰かは、どこかに必ずいる。そういうところに、身を寄せろって。そりゃあそうだ、私だって、いっぱいいるよ、本当だったら。パパもママも、親戚も、家出したら一泊くらいは泊めさせてくれるだろう友だちも。
 でもここはフォドラで、私は一人だ。



「……行かない」

「行かないって、じゃあどうするの。戦えるわけでもないのに」

「衛生兵……でもする。武器の管理とかでも」

「無理でしょ。はまず、武器を持ち上げられないし。……衛生兵だって、戦争を知らない人間がいきなりやれるものじゃない」

「…………」



 なんで、ツィリルくんはこんなに意地悪なことを言うんだろう。やってみなければ、わからないのに。ツィリルくんだって武器が扱える、戦えるって言ったって、まだちゃんとした騎士ってわけでもないし、私より小さいのに。



「ツィリルくんこそ、逃げないの?」



 泣きそうになっている自分を誤魔化すためにそう言ったら、ツィリルくんは私のことをじっと見つめて、「ボクは、レアさまをお守りしなきゃいけないから」って、静かに言った。殴られた気がした。じゃあ、もう私のことは守ってくれないの、って反射で思ってしまって、自分勝手で図々しい自分に、益々泣きそうになった。私は心のどこかで、本当はツィリルくんに、一緒に逃げようって言ってほしいと思っていたのだ。馬鹿みたいだ。
 逃げる準備なんか、数分でできる。だって私は荷物がない。従士として働くために用意して貰った衣類と、ここに来たときに着ていた制服。それからヒルダちゃんにもらった、細い蔓と花の模様が可愛い箱くらい。でも、じゃあそれを持って逃げて、どうするの。どこに行けば良いの。
 私の疑問に答えるように、ツィリルくんは口を開く。



「兎に角、はガルグ=マクを出て、自分の家に帰って。……王国か、同盟か、それとも帝国なのか、ボクには分からないけど……明日からでも、の行きたい場所にこれから向かうって人を一緒に捜すから、その人についていって。必要なものは、セテスさんにでもお願いすれば用立ててもらえるはずだし。無理でも一緒にお願いするから」



 もしも、私がもう少しだけ冷静だったら、こんな風に自分をすり減らす前だったら、もしかしたら「よし、じゃあ逃げよう」って言えたのかもしれない。例えば、ガルグ=マクに来てまだ一節とかだったら。誰も仲の良い子なんかいなくて、心配し合うような関係を築いていなければ。誰も好きになっていなければ。ここに居場所を見つけていなければ。ガルグ=マクが全てを失った私にとっての、家であり、学校であるのだと、自覚していなければ。
 でも、もう限界だった。



「そんなの無理だよ」



 惨めに掠れた、弱々しい声が、私の喉から漏れた。言ってしまったら、もう、それは止めどなく溢れた。ずっと堪えてきた、私の隠し事が、ツィリルくんの前で白日の下に晒される。「家なんかはじめから、どこにもない、王国にも同盟にも、帝国にも、その外にも」ツィリルくんが、その目を丸くしている。



「私、フォドラのひとじゃないもん。知らないもん、こんな世界、どこも、何も」



 せめてもう少し、静かに泣けたら良かった。帝国軍が攻めてきた、天馬の節の、あの昼下がりのように。それでも、抑えられなかった。



「最初からひとりだもん」



 あとからあとから溢れてくる涙を手の甲で拭っても、どうにもならない。ひとり、って言い切って、言い切った自分に、喉が痛くなった。
 冷たい廊下。青々とした葉に光を受けていたミズキの木。空気中の微細な塵。はためいていた教室のカーテン。同級生の男子に、今ガチャでこの子がどうしてもほしいんだよ、って見せられた、可愛い猫耳の女の子。大好きだった恋愛漫画は長い片思いの末にとうとう告白したシーンで終わってる。頭のかたいパパに、心配性すぎるママ、言いにくいことだってはっきり言うのに、本当はものすごく人に気を遣うササちゃん。私の両手から次々零れ落ちるように遠ざかる全て。合わせた両手に空洞しか残らないのならば、この記憶ごとまとめて奪い去ってほしかった。
 声をあげて泣く私の手首を、ツィリルくんが掴まなければ、私は自分が今、どこにいるのかも分からなくなっていたかもしれない。
 私の手を強く掴んだまま、「」って、ツィリルくんが呼んだ。何度も、何度も、私が彼に目を合わせる、その瞬間まで、ずっと。



、ごめん。泣かないで」



 お願いだから、って。
 それが、酷く切実に響いて、私は、益々いたたまれなくなった。ツィリルくんにこんな顔をしてほしいわけじゃなかった。私はただ、もう、どうしても一人になりたくなかった、それを上手く説明したかったのに、できなかっただけなのだ。
 ツィリルくんに腕を引かれて、遠慮がちに背中に手を回される。思慕の情、っていうより、それはずっと、子供を慰めるみたいなものだった。変なの、私の方が、三つも年上なのに。ひ、と喉から嗚咽が漏れる。宥めるように私の背をぽんぽん叩く、ツィリルくんの手が、酷く熱い。こんなの、どっちが年下なのか、分からない。
 声をあげて泣いても、大聖堂には私たちの他に、誰もいなかった。肌を撫でる風は、私たちが出会った夏の盛りのものより、ずっと穏やかで、優しかった。


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