私にガルグ=マクからの退避を勧めたのは、何もシャミアさんが初めてではなかった。



「別には従士の仕事を手伝っているだけで、騎士になりたいわけじゃないんだろ? こんな状況だ。さっさと逃げた方が良いんじゃないか」



 帝国からの宣戦が成された直後、偶々温室で、クロードくんとヒルダちゃんと出くわしたことがある。私に向けられたクロードくんの瞳は、まるで私の内面までもを見通すみたいに澄んでいた。
 如雨露を使って温室の花に水をやる私は(もう慣れちゃったけれど、ホースがあれば便利だと思う)、いつまでも彼と目を合わせているのが億劫で、「うーん」と言いながら、傾けた如雨露に目を落とす。蓮口からはシャワーみたいに水が降り注いでいて、窓から差し込む日差しを受けて、きらきらと輝いていた。
 ほとんどが見たことがある植物だったけれど、温室には時折、知らない名前の、奇妙な木や花や実があった。ツィリルくんはその名前を、一つ一つ私に教えてくれた。だから、私は今、大体の名前を言える。あれはノアの実で、あっちがモモスグリ。私が知らないだけで、元いた世界にも同じ植物があったのかな、と考えるけれど、もうどうやったって、そんなの確認しようがない。
 温室はいつだって、ひっそりとした植物の息遣いを感じさせた。柔らかな土の匂いと、折り重なる葉の陰影。緑にもいろんな色があるのよって、私ののっぺりとした絵を見た美術の先生が言っていたけど、今になってその意味がわかってしまった。こんなにも綺麗なのに、ここももうすぐ、戦場になるんだって。



「そうだよー。ちゃん、今のうちにおうちに帰った方が良いと思うよー」



 心配そうな顔で、クロードくんの意見に同調するヒルダちゃんに、私はだけど、なんて言ったら良いのかわからなかった。「そうだねえ」って、当たり障りのない相槌を、ただ二人に曖昧に打っている。
 こういうとき、有り難いことに、二人は私にそれ以上は踏み込まなかった。例えば、家がどこなのかとか、そもそもここに来る前はどういう暮らしをしていたのか、とか。聞かれたって何も答えられないから、そういうスタンスで付き合ってくれることに私は非常に感謝していたんだけど、もしかしたら何か察するところがあってそうしていたのかもしれない。二人とも、すごく頭の良い人たちだったから。
 私は、そうしてクロードくんやヒルダちゃんとお話をしながら、視界のどこにもいないツィリルくんを捜していた。ツィリルくんは、今、レアさまを守るために戦いの準備をしている。いつもの仕事を終えた後は弓を持って訓練に行ってしまうから、だから私はほとんど、前みたいにはツィリルくんとはお話ができていない。








 孤月の節のはじめ、黒鷲の学級長だったエーデルガルトちゃんがセイロス聖教会に宣戦した。だけど私はそれを聞いた時、せんせん、っていうのが、すぐに漢字に変換されなかった。おかしいよね。だって、その直前、ガルグ=マクに侵入した帝国軍たちを、私はこの目で見ていたのに。
 その頃市場にいっぱいいた商人さんや、何か祭事があるわけでもないのに大修道院のあちこちにいた信徒の皆さん、彼らはガルグ=マクに潜り込んでいた帝国軍で、セイロス聖教会から何かを奪う目的で、水面下で動いていた。その何か、っていうのは私には分からないし、ベレト先生たちが帝国軍を追い返したっていう聖墓とやらが大修道院のどこにあるのかも知らないままなんだけど、でも、あの日の異様なまでの物々しさは、数日は夢に見るくらいだった。今でも思い出すと、生きた心地がしない。



 あれは天馬の節の、最後の日だった。寒さはまだしぶとく残っていたけれど、陽の光は緩やかに春に近づいていた。もうすぐで士官学校の皆はガルグ=マクを去るんだなあと思うと、どうしようもなく寂しかった。私は進む先もないまま、恐らくここで永遠に足踏みをしているのだろう、そう想像することが容易いくらいに、私の半年は呆気なく過ぎ去っていたから。
 私とツィリルくんはその日、厩舎で馬の世話をしていた。水も取り替えて、掃除が終わったらもうおしまい、ってときに、最低限の鎧を身につけた帝国兵たちは、武器を携え現われたのだ。いや、現われた、っていうと、ちょっと違うのかも。それまで普通にしていた人たちが、何かを合図にして、武器を持った。数時間前に、私に声をかけてきた信徒のおじさんもそこにはいた。「今日は、レア様はいらっしゃらないのかな」そう尋ねられることは滅多に無かったから、良く覚えている。私はそれに、「わかりません」って答えたのだ。ツィリルくんだったら分かるかもしれなかったけれど、その時ツィリルくんは、別の場所の掃除をしていた。
 彼らは怒号をあげながら、大聖堂方面へと向かって駆けていく。その剣先は既に血で汚れているように見えて、ゾッとした。目が合ったら、私も斬りかかられてしまうんじゃないかって恐怖から一歩も動けなかったのに、そんな私を、ツィリルくんが厩舎の奥に押し込んだ。



「ここにいて」



 びっくりするくらい、冷静な声色だった。
 もう慣れてしまった、動物のにおい。変えたばかりの飼い葉を背に、私はツィリルくんの顔を、ただただ見上げていた。差し込む光は、こんなときだっていうのに、酷く穏やかだった。薄暗い厩舎の中で、私たちはただじっと息を潜めていた。厩舎の前を、大勢の兵士が駆け抜けていった。隣の厩舎の馬が、大きく嘶いていた。



「ツィ、リルくん」

「静かに」

「んぐ」



 ツィリルくんの手の平で、口を覆われる。私よりも小さい手、って思ってたのに、それは、びっくりするくらいちゃんと、男の子の手をしていた。小さいって思い込んでいただけで、もしかしたら、そうじゃなかったのかもしれない。
 厩舎の中は狭く、薄暗かった。大人しい馬だったのが幸いだった(というか、それを考慮に入れた上で彼はここに私を押し込んだのだろうけれど)。このまま息を潜めていれば、どうにか存在を気取られずにいられるだろう。耳が痛いくらいに脈打っていたのは、緊張のせいだ。ツィリルくんの手の平から、熱が伝わってきて、苦しい。
 帝国兵たちの目的は、だけどそもそもガルグ=マクに住まう人々の虐殺ではないらしかった。彼らは真っ直ぐ、大聖堂へと向かっていたから。「立ち塞がる者は容赦するな!」そう叫ぶ指揮官らしき男の声が、だけど、怖くてたまらない。セイロス騎士団の人たちは、きっと彼らと戦うだろう。士官学校の皆だって。でも、戦えない人たちはどうなるんだろう、村から逃げてきた子供たちは、教会の人たちは、巻き込まれずに逃げ切れるのだろうか、そう考えたら、震えが止まらなかった。
 必死で抑えても、震えているのが伝わってしまったんだろう。ツィリルくんが、囁くように呟く。緊張感を孕んだそれは、だけどしっかりしていた。



「……ごめん、。ボク、今武器を持っていなくて」



 持っていたら、だけど、もしかしたらツィリルくんは、レアさまを守る為に飛び出したんじゃないだろうか。そんなことをちらりと思ったけれど、そんなの、想像したって仕方なかった。
 私は、だってちゃんと自分の価値を理解している。身寄りが無くて、帰る場所もない。ガルグ=マクで仕事を与えてもらえたのだって、運が良かっただけで、私の代わりはいくらでもいる。悲観していたわけじゃない、だってそれは、本当に、事実だ。なのにツィリルくんは私の名前を呼んだ。すごく大事なものにするみたいに、優しい声だった。



「だけど、もしここに敵が入ってきても、ボクが絶対にを守るから」



 だから、安心して、って。
 泣いてしまったのは、帝国兵が怖かったからじゃないのだ。
 ツィリルくんは、はらはらと音も立てずに泣く私を前に、一度だけ目を見開いた。泣きじゃくりでもしていたら、何か彼は、私を諫めるような言葉を言ったかもしれない。だけど私は、喉を引き攣らせることも、嗚咽を漏らすこともないまま、静かに泣いていた。ツィリルくんは、ずっと私の口元を押さえていた。指先に、私の涙が落ちてしまったことが申し訳なかった。でもツィリルくんは何も言わなかった。
 彼が私に向けてくれた言葉を、私は、無償の愛のように感じていた。この世界に来た私が失ったものを、ツィリルくんがもう一度与えてくれた気がした。








 戦いはもう、始まろうとしている。
 アドラステア帝国の軍勢は、こうしている今もガルグ=マクに近づいているのだ。
 クロードくんやヒルダちゃん、シャミアさんにも勧められたように、本来ならば私も避難すべきなんだろう。自分の命を守るなら。帰れる家や、心配してくれる家族がいるのなら。だけど、家も家族もない私はここを出てどこに行けばいいのか、それが分からない。
 シャミアさんにガルグ=マクを去るよう直接言われたとき、私はツィリルくんに縋ろうとした。出て行く必要なんかない、って、言って欲しかった。だけどツィリルくんは私の顔をじっと見て、「ボクもそうするべきだと思う」と言った。
 それは棘みたいになって、私の身体の奥深くに、柔く刺さっている、今も。


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