アドラステア帝国がガルグ=マクに総本山を置くセイロス聖教会に対して宣戦したのは、天馬の節の終わりのことだった。
教団はその教義を利用して民衆を欺き、長い歴史の中、自分たちの権威を守る為に人々を争わせ、意のままにした。そのような悪しき信仰は打ち砕かれなければならないものである。――そう主張したのだ。
ボクには帝国……エーデルガルトの言っていることが理解できない。レアさまを悪者に仕立て上げて、ただ自分たちがフォドラを牛耳りたいだけなんじゃないだろうか。意のままにしようとしているのは、彼女の方ではないか。
はそういう話を、ずっと、神妙とも、間抜けとも言える顔で聞いていた。幸いにも、彼女がエーデルガルトと親しくしていた様子は元々見られなかったけれど、それでも士官学校の生徒が暴挙に出たということを、受け止めきれていないようだった。
こういうの、語ではなんて言うんだろう。「ショック」より、もっと大きな精神の動揺。は時折、ボクに何か言いたげな素振りを見せていたけれど、ボクはそれに応えることができなかった。単純に、忙しかったのだ。時間的な余裕もなければ、精神的な面でも問題があった。だって、帝国によって今、レアさまの命が脅かされている。ボクは、レアさまをお守りするために、強くならなければいけなかった。空き時間のほとんどは、訓練に費やした。は、クロードやヒルダと一緒にいることが増えた。
は、多分、そのうち避難することになると思う。ガルグ=マクの住人や戦えない司祭たちと一緒に。それを彼女に話して聞かせるのは、セテスさんかシャミアさんだ。ボクは、ほとんど無意識に彼女を自分から遠ざけていた。それが正しいと信じていた。
宣戦布告が成されてからすぐ、シャミアさんが南へと偵察へ向かったけれど、報告によると帝国本軍は今もガルグ=マクに向かって進軍しているらしい。元々帝国軍は、商人や信者を装い、何節も前からこのガルグ=マクに入り込んでいた。前節、先生がレアさまに命じられて聖墓へと向かった際に、レアさまの大切なものを奪おうと帝国軍が雪崩れ込んでくることができたのは、そういう背景があったからだ。
そして、そのとき軍を指揮していたのが、仮面で顔を隠していたエーデルガルトだった。エーデルガルトは先生に目的を挫かれると、兵を連れ撤退。今は帝国領内で身を潜めていて、アンヴァルから到着する本軍の合流を待っている。
「帝国軍は合流後、二週間でこのガルグ=マクに到達するだろう」
レアさまとセテスさんに報告を終えた後、シャミアさんはいつも通り馬の世話をしていたボクたちのところにやって来て、ほとんど平生と変わらない声色でそう言った。
二週間。
「随分、早いですね」
そう呟いたボクに、シャミアさんは軽く頷く。
たった二週間では、騎士団は防備を固めるしかない。それに籠城戦となると、物資の補充が効かない分不利になりやすいし、ガルグ=マクはそもそも要塞ではないから、兵力に大きな差がある以上、防衛線も長く保たないだろう。
顔には出さないように、ざわめく胸中を隠しながらに視線を送る。はシャミアさんの顔を、ただただ見つめているだけだった。多分、全然わかってないんだと思う。今の状況っていうのが、どれだけ大変なことなのか。先端だけ浸したって、紙に水は染みこまない。そういう感じなのかもしれない。彼女は、人の悪意をちっとも理解しない女の子だったから。
多分、シャミアさんはこの話を、ボクではなくの方に聞いてほしいと思っている。エーデルガルトの目的は、フォドラの征服であること。帝国軍の秘密裏の侵入を許した前節の失態からも分かる通り、こちらは後手に回っていること。余程入念な下準備が長い時間をかけて行われていたらしく、帝国軍は衆兵であること。
シャミアさんは彼女に、さっさと逃げろと言いたいのだ。ボクは、それについて否定も肯定もせず、黙っている。本当だったら、シャミアさんと一緒に彼女を説き伏せるべきだろう。だけど、何も言えない。ボクはボクの中で渦巻いている感情の正体が、ちっともわからないから。
直後が口にした言葉は、そういうのより、一歩も二歩も手前にあるものだった。「シャミアさん」と手を挙げた彼女は、本当に、話の半分も理解できていない。
「……しゅうへい? って何ですか?」
「……兵が多いってことだ」
「なるほど……?」
首を傾げたまま目線を彷徨わせるに、どうしてやきもきせずにいられただろう。だって、「なるほど」とか言ってるけど、は絶対に分かっていない。戦力差が圧倒的である、っていうのがどういうことなのか。戦えない人間が戦争に巻き込まれるっていうことが、どれだけ悲惨なことなのか。はなんにもわかってない。
ガルグ=マクは、やがて戦場になる。偵察に行ったのがシャミアさんだっていうなら、「二週間後」っていうのも、ほぼ確実だ。膝の上に置いた手に、ほとんど無意識に力が入っていた。短く切りそろえてあるはずの爪が、手の平に食い込む。
はガルグ=マクから逃げるべきだ。一刻も早く。武器も腰の高さまで持ち上げられない、魔法も使えない女の子。鈍臭くて、非力で、ここに来たばかりの頃は馬に触ることもできなかった。そんな子が、これ以上ここに居て一体何ができるって言うんだろう。分かっていたのに、目を逸らしていた。
ボクからは、だけど、言えなかったのだ、どうしても。は逃げなくちゃだめだよ、ってことを。帝国軍が来る前に、なるべく遠くへ。そういうことを話そうとする度、どうしてか胸の奥のあたりがぎゅうって締め付けられるみたいに痛くて、口を開けば、余計な、意味のわからないことを言ってしまいそうだった。ボクの中で燻っている靄の正体、ボクはそれを直視するのが嫌だった。だから背を向けた。そうしている間に、シャミアさんや、クロードやヒルダが、彼女を正しい方向に連れて行ってくれたら良いと思っていた。
多分、ボクが悪い。
「えっと、じゃあ士官学校の皆は、残って戦うんですか?」
「その気がないやつは、とうに出て行ってるよ」
「ははぁ……」
シャミアさんにいくつか質問を投げかけつつも大きく首を傾げるの横顔を、じっと見つめる。
一人じゃなにもできなくて、失敗も多くて、体力がないからすぐ疲れて、でも、そこにいるだけで、空気を明るくしてくれる女の子。思い込みが激しくて、単純で、危なっかしくて、だけどパルミラ人のボクに、何も言わずにいてくれる。彼女は他人に対して、びっくりするくらい優しい。
住む家を焼かれて大修道院に保護されたルミール村の子供たちに、ボクの知らない寓話を聞かせていたのを、ボクは見かけたことがあった。お姫様が出てくる話も、悪者をやっつける話も、動物が出てくる話も、彼女の口からどんどん出てきた。あの時の彼女の存在は、子供たちにとって、ちょっとした救いになっていたと思う。
「お世話になってるから」って、手作りの焼菓子をくれたときは、びっくりした。美味しいってちゃんと伝えたら、子供みたいに頬を赤くして、ちょっとだけ困ったような顔で笑った。
「美味しい? ほんとに?」
ボクはそう言ってくすぐったそうに笑う彼女を、あ、可愛いな、って思ってしまったのだ。
変なのは、じゃなくて、ボクの方だ。
ボクは、と一緒に従士の仕事をするのが好きだった。翠雨の節から隣にいた。がいないときの日々を、ボクはもう簡単には思い出せないくらいだった。これからもの傍で、変なを見ていたかった。でも、そんなのはボクの独善だ。
そこに立っているだけで身体中の水分を根こそぎ奪われそうだった夏の盛り、ガルグ=マクに程近い山の中に、彼女はいた。彼女は自分の口で過去を語ろうとしないから、ボクらには想像することしかできないけれど、は捨てられたっていうよりは、自分の意思でどこかから逃げてきたのかもしれない。何か事情があるのかもしれない。だけどそれでも、戦争が始まろうとしている今、は自分が本来いた場所に帰るべきだ。ボクのもやもやに付き合わせちゃいけない。ボクは自分の中にある問題を直視しないまま、解決の糸口を探ることなく彼女を手放さなくちゃ。ボクはそれを、ボクの口で彼女に伝えなくちゃいけない。クロードやヒルダ、シャミアさんに押し付けるんじゃなくて。
だけど、そうやって覚悟を決めたボクよりも先に、シャミアさんが口を開いた。「」とはっきり、彼女の名前を呼んで。
「近くガルグ=マクの住民を含め、非戦闘員に避難指示を出す」
非戦闘員。が唇の中で、噛み砕くように繰り返す。「多くは生家や親類の元へ身を寄せることになるだろう。近隣の村々にも戦火が及ばないよう、同様の指示をするつもりだ」シャミアさんの淡々とした声が、ボクたちの周囲を埋めるように落ちていく。
「その時は、君も一緒に行け」
が、困惑したような視線を隣に座るボクに向けるのに、さほど時間はかからなかった。
その目がいつもよりずっと弱々しくて、泣き出す寸前のもののように思えた。だけど、ボクは彼女を慰めるような言葉を言えないのだ。何よりも、彼女を守るために。
「ツィリルくん」と、助けを求めるように、彼女がボクの名前を呼ぶ。喉が引き攣ったような音を立てた。情けないな。もっと早く、シャミアさんがこうしてボクの代わりを背負ってくれるよりも前に伝えれば良かった。「」声が掠れる。
「……ボクも、そうするべきだと思う」
少なくとも、「ボクも」だとか「そうするべき」だとかじゃなく、自分の言葉で、にガルグ=マクを出ろと言うべきだったのに。
孤月の節の、半分が過ぎ去ろうとしていた。はずっと、ボクの目を見たまま、微動だにしなかった。