舞踏会は大修道院の大広間で行われることになっていた。
会場のセッティングだけは私たち従士も手伝うことになっていて、それで生徒さんたちが大広間にやってくる直前まではその雰囲気みたいなのだけは味わうことができたんだけど、でもやっぱり、実際に舞踏会が行われているときにそこにいられるのといられないのとじゃ、全然違うよねえ。
ツィリルくんは舞踏会なんか全然興味ないみたいで、レアさまに命じられた通り、粛々と仕事をこなしていた。長椅子を片付けて、代わりにテーブルを運んで、それから今日この日のためにやって来る音楽隊の人たちが楽器を奏でるためのスペースを確保して。文化祭の準備みたいでわくわくする。でも、わくわくしてからきっちり五秒経って、寂しくなった。最近は昔を懐かしむことも随分減ってきたけど、こういうちょっとしたとき、思い出してしまうのだ。私の意識に、私じゃない誰かが薄い紙をこっそり挟み込むみたいに、唐突にそれは私の脳裏に浮かんで、ちょっとの間、留まっている。
我に返ってしまうと時折鼻の奥が痛くなるので、そういうときは緩く首を振って、「現実」を見る。ここはフォドラ。私はガルグ=マクっていうところで働く従士、って。ツィリルくんの姿を視界に収めると、動悸が少し収まる。ツィリルくんはいつも、私を「」にしてくれる。
「……なに? よそ見してないで、自分の仕事して」
じっと見ていたら、訝しげに言われてしまったので、慌てて持ち場に戻った。ツィリルくんたちが運んできてくれたテーブルを、均等に並べるだけの仕事なんだけどね。私の方が年上で背も高いのに、力仕事のほとんどをツィリルくんに任せてしまって、ちょっと申し訳ない。
大広間は大修道院の施設の中でも真ん中にあって、あちこちに行き来するときに突っ切ったりするし、掃除なんかもたまに言いつけられるから、そりゃあ見慣れたものだったんだけど、その日は何だか、全く別物に見えた。いつもよりも灯りが多く灯されているせいもあるんだと思う。暖色の光が降り注ぐみたいに、大広間中央に作られた空間を照らしていて、気を抜くと見とれてしまいそうだった。そうして意識と心が遠いところに行ってしまうときが、一番危ない。首を振って、別のことを考える。
士官学校の生徒さんたちは皆、あそこで踊るんだろうなあ。最近の大修道院内は浮き足立っていて、誰と誰が踊る約束をしているとか、誘おうか迷ってるとか、そんなのばっかり。どこも変わらないんだなあなんて達観できるほど私は大人じゃないから、聞き耳を立てては色んな想像を巡らしていた。私だって恋バナは好きなのだ。
シルヴァンくんは色んな女の子と踊るつもりだって臆面無く言っていた(いつか面倒臭いことになりそう)。ヒルダちゃんは、帝国(それって多分、黒鷲の学級の子、ってことだよね。今更聞けない)の男の子に誘われてるんだって。クロードくんはどうするの? って聞いたら「一緒に踊るか?」ってウインクされたっけ。そのせいで自分も出られると勘違いしてしまったので、ちょっと恨んでる。
私は踊りなんか、全然得意じゃない。体育のダンスも体育祭のなんちゃってチアも全然リズムが取れなくて、いつも笑われてたし。でもクラスメイトは男子も女子もみんな良い子たちだったから、私がそれなりに踊れるようになるまで面倒を見てくれた。元気かなあ。元気だといいなあ。私が元気だってことも伝えられたらいいんだけど。
私がどうして舞踏会に出たかったかっていうと、多分、ちょっとでも昔みたいなことがしたかったからだ。
普通の女子高生みたいなことがしたかった。でも、今の私は女子高生じゃなくて従士なんだから、そんなの何の意味もないね。
「そんなに出たかったの?」
生徒たちが大広間に入ってくるのと入れ替わりで、私たちは外に出た。薄紫色だった空が今はもうすっかり暗くなっていて、吐いた息は白くなって、空気に溶けていく。振り向いたのは、外壁一つ挟んだ大広間から漏れ聞こえる生徒たちの笑い声やざわめきに紛れるように、ツィリルくんの声が聞こえたからだった。
何のことか一瞬理解出来ず、首を傾げる私に、ツィリルくんはもう一度口を開く。
「舞踏会。出たかった?」
ツィリルくんの言葉は、一つ一つの発音が、確かめるみたいに丁寧だ。
少し癖のある黒と焦げ茶の中間みたいな髪の下、右目の上には、薄らとした傷がある。ぶつけちゃったっていうよりは、なんだか、意図があってそうされたように思えるもの。私はその傷の理由を知らないし、聞けない、と思っている。レアさまのために、いつだって懸命なツィリルくんは、時折見透かすみたいな目で私を見る。
「出たかった」
平坦な声で最後まで口にしてから、疑問符をあとで付け足すみたいに、大きく首を傾げた。急に聞かれたから、びっくりして思考が停止してしまったのだ。そうしながら、やっぱり出たかったんだよな、と考えて、「うん」って言ったら、ツィリルくんはどうしてか、変に眉を下げて笑った。「なにそれ、どっち」って。笑ってもらえたことに喜んで良いのかどうかもわからない、そんな微妙な表情だった。
「でも、別に、踊りはできないんだよ」
言いながらその場でくるりと回る。夜空にはひそやかに星が瞬いていて、だけどそれが、元の世界にいた自分がずっと見ていた物だったかはわからない。軸にしていた片足は最後まで持たずにぐらついて、それが自分が本当に踊れないことの証明になってしまったみたいで、笑えた。「うん」って、肯定なのか相槌なのか分からない温度で答えたツィリルくんは、全然笑ってなかったけど。
「だから踊りたかった、っていうか、多分、皆の楽しいって気持ちを共有したかっただけ、なのかも」
そう口にしたとき、大広間の中から、音楽が響きだした。楽団の人たちの奏でる音は、私に馴染んだものとは全然ちがくて、それこそ体育のダンスとか、体育祭で流れる音割れ上等のポップスなんかじゃない。だけど、壁一枚隔てた先から、生徒たちの高揚が伝わってきて、思わず頬が緩んだ。見えないけれど、見える、みたいな。多分、今頃みんな、楽しんでいるんだな、っていうのがわかる。片思いの人をどう誘おうかなとか、少しの間踊れるだけでも充分に幸せとか、そういう機微、ご飯が美味しいでも、なんでもいい。
「別に踊りたい人がいたわけじゃなかったの。だから、こうして音が聞こえるだけで、充分みたい」
実際に舞踏会が行われているときにそこにいられるのといられないのとじゃ、全然違う、って思ってたはずだったんだけどね。
下手くそなピルエットでくるくる回る。舞踏会のダンスって、多分、こういうのじゃないでしょ? 男の子と女の子が手を取って、じっと見つめ合って身体を寄り添わせて……って、今やっと考えてみたけど、そんなの私、ガラじゃないや。音と空気だけで楽しめるなんて、安上がりでいいね。
体育でやった創作ダンス、私の作ったふりつけの、すごく奇妙な足の動き。重厚な音楽に合わせて踊ったら、ツィリルくんは「ふ」って笑った。口元を隠して、ちょっとだけ目を逸らして。あ、笑ってる、って思ったら、色んなものが開いたみたいになった。感情がつまった袋に、針で穴があいたみたいな。
「そんな変な動きされたんじゃ、アナタと一緒に踊れる人、いないよ」
侮蔑とかじゃなくて、本当に、何かツボに入ったみたい。「ふ、ふふ」って笑うツィリルくんにつられて、笑ってしまった。渾身のステップだったのに。
星辰の節、私の計算によると、本当だったらクリスマスだし、年末の時期なんだけど、フォドラは暦の名前が違うみたいに、そういうものもズレてるらしい。私の十七年は、ここではもう、何の意味も成さないな。だけど、こんな風にツィリルくんの隣にいる今は、全然寂しくなかった。