27 リンハルトはやる気がない
空を覆う厚い雲から、細い雨が絶え間なく降り注ぐ夕時だった。その日料理当番として食堂にやって来た男の子に屋根を叩く雨音よりも大きいとは言い難い声で「じゃあ、僕は味見を担当します」と言われた私は、すっかり困惑してしまっていた。味見って、料理に入る、いや、入るかな、入るには入るかもしれないけど、でもどうなんだろう。
深く落ち着いた緑の髪を首の後ろで緩く結んだ青年、黒鷲の学級の生徒であるリンハルトくんは、本当は今日ではなく、昨日が料理当番の日だった。要するに、来なかったのだ。昨日、彼は。私もギリギリまで待ったのだけど。
味見だけは、だめ。そう結論づけた私は、貴族様に進言するという緊張感に包まれながら、感情の薄いその双眸を見つめる。
「味見だけだと……その……困ります……。せめて野菜を切ってもらえたりとか……」
「いや、冗談ですよ。流石に何かしますって。信用ないなぁ」
「…………」
欠伸を噛み殺すリンハルトくんの真意が全然読めない私は、衝撃のあまり目と口とを丸く開いたまま固まってしまう。本当は、厨房の奥に引っ込んでしまった料理長に助けを求めたかった。そんなことは、勿論この状況じゃできっこないんだけれど。
リンハルトくんは、「なんだかとっつきにくいように思える人」として私の中で分類されている、数少ない学生さんの一人だ。いつも眠たげで、背は高いけれど、食の細さが素直に表れた体つきをしている。だけど、頭は物凄く良いんだって。それこそ、彼のご実家であるヘヴリング家に雇われた優秀な家庭教師たちが舌を巻くくらいには。
というのは、昨日リンハルトくんが来ず、てんやわんやになっていた食堂の手伝いを急遽買って出てくれたエーデルガルト様が仰っていたことだった。
「リンハルトが起こした問題ですもの。……級長の私に皺寄せが来ることくらい、どうということもないわ」
エーデルガルト様はそう口にしながらも、「けれど、本当は優秀な人なのよ。彼が本気になってくれたら、きっと帝国の未来も安泰なんだけど」と、褒めてもいらっしゃった。エーデルガルト様にそこまで言われるならば、本当に彼は素晴らしい才覚の持ち主なのだろう。魚の頭を落とす私を少し離れていたところからじっと見つめていらっしゃったエーデルガルト様は、「そうなんですね!」と返事をする私を前にこっそり、小さなため息も吐いてらしたけれど。
だけどどれだけ優秀な方であると知っていても、それでもどういう風に接したら良いのかがわからないのだ、私は。
彼が帝国貴族っていうのも、私がまごついてしまう理由の一つであることは間違いない。貴族の多い黒鷲の学級の生徒さんたちに対して、私はちょっと、遠慮してしまっているのだ。他の二学級と違って、ファーガスの話で場を持たせることもできなければ、平民同士の気安さでもって会話を繋げることもできないから。
ふと、いつだったかの夜にマヌエラ先生が言っていた言葉を思い出す。静かな春の夜に、お酒の香りをさせながら、それでも聞き取りやすい滑らかな声で、私のことを気遣ってくれたときの言葉を。
「気難しかったり、変わってる子もいるから、ちょっと心配なのよ。何か問題が起きたらあたくしに言ってね? うちの学級の生徒じゃなくても。まあ……多分、あたくしの受け持つ黒鷲の学級の子たちが一番大変じゃないかしら……とは思うのだけど……」
その筆頭が、もしかしたら、というか、もしかしなくても、このリンハルトくんなんだろう。エーデルガルト様がため息を吐かれていたのも、きっとそういうことだ。
けれど戸惑ってばかりもいられない。昨日みたいに、夕食の時間ぎりぎりになってしまったら大問題だ。今日の献立は、野菜がたっぷり入ったサラダパスタ。タマネギとニンジン、それからキャベツも切らなくちゃいけないから、すぐに準備に取りかからないと。
「ええと、それではどうぞよろしくお願いします。サラダパスタは兎に角切らなくちゃいけない野菜がたくさんあるので、まずはそれをお願いしてもいいでしょうか」
「ああ、あれか」
サラダパスタと聞いて、リンハルトくんが軽く頷く。サラダパスタって案外食べ応えもあるし、栄養も勿論たっぷりあるから、学生さんたちの間では人気の献立の一つなのだ。もしかしたら、リンハルトくんも好きなのかもしれない。好きな献立だと、作るのも楽しくなるものだ。
「ええと、リンハルトくんはサラダパスタ、お好きですか?」
だけど勇気を振り絞って尋ねてみた私に、リンハルトくんは「いや、好きでも嫌いでもないですね」と淡々と答えるものだから、「ああ……」と呟くしかなかった。リンハルトくんは、私の微妙な顔を見ても、顔色一つ変えはしない。
この二節、それこそ次期皇帝となることが定められているエーデルガルト様や、我がファーガスの未来を担う殿下、ガラテア家のイングリット様と言った、錚々たる面々に料理を指南するという大役を任されて、どうにかこなしてきたはずだった。はずだったのだけど、もしかしたら彼が一番難儀な相手なのかもしれないと、頭の片隅でちらりと思う。
それは勘の悪い私らしく、杞憂に終わることになるのだけど。
「はあ……これくらいでもう良いですか」
「い、良いと言いますか……その、完璧です」
リンハルトくんの包丁捌きは、それはそれは見事なものだった。お手本みたいに。皮を剥いてくれと言えばくるくると器用な手つきで包丁を回し、刻んでくれと言えばほとんど厚さが均等になるように野菜を切る。私の腕はまだ本調子ではなかったけれど、それでも彼はもしかしたら私と同等か、それ以上の速度で調理していたかもしれない。正直なところ、びっくりしてしまった。予定していた時間も、半分と少ししか過ぎていなかったんだから。
「すごいですね、早いし、とっても綺麗。お料理、得意なんですか?」
「……いや、これに得意とか苦手とかある? 切ったり剥いたりするだけで、何も難しいことはないでしょう」
「あ、ありますよ、私だって昔は指ごと切りそうに……」
「うわ、やめてくれません? そういう話、僕、結構駄目なんですよ」
「あっすみませんつい……」
嫌悪の滲んだ目を向けられて、思わず謝る。リンハルトくんは、だけど次の瞬間にはいつものように欠伸を一つして、次の瞬間にはその表情がいつもの眠たげなものになっていた。その目に薄ら苦手意識を持っていたことは否めないのに、つい安心してしまう。
「……それで、もう良いですか? これで終わりで」
「終わり?」
まだ料理の工程としては途中も良いところなのだけど、彼の瞼は重いらしい。噛み殺しきれない欠伸を漏らして、彼は少しだけ、ゆらゆらと身体を揺らしている。
「徹夜続きで、眠れてなくて……。睡魔が酷いんですよ。これ以上やると、それこそ本当に火事でも起こしそうで」
「えっ火事……!」
「それは困りますよね。ですよね。じゃあ僕はこれで失礼します。もし次の機会があれば、よろしくお願いします」
何も言っていない。まだ、何も言っていないのだけど。
リンハルトくんは切った野菜をそのままに、さっさと食堂を出て行ってしまった。その堂々とした立ち振る舞いに、圧倒されてしまって、声をかけることができなかったのだ。
さあさあと、雨の降る音の向こうに、彼の足音が消えていく。私は残された野菜を一瞥して、「ああ……」と、今日何度目になるのか分からない、曖昧な声ともため息とも吐かない音を漏らし、目頭を押さえる。
これからこの野菜を茹でなくちゃ、あと、乾麺も準備して。時間だけはまだたっぷりあるから、何とかならなくもない、かな? リンハルトくんの手際が良かったおかげで、って言ってしまうと、ちょっとだけ皮肉だけどね。少なくとも、昨日の今頃よりはよっぽど楽ではある。
ちらりと調理板に転がった野菜を見る。思わないところはないわけじゃないけれど、それでもリンハルトくんの切り分けた野菜たちは、本当に、そのまま飾っておきたいくらいに美しい。