26 繁縷の卵焼き
割りほぐした卵に調味料を加え軽く味を調える。もしもここが食堂の厨房だったら、塩だけじゃなくて香辛料もこっそり使ったんだけど、私の部屋にそんな高価なものはないし、それ以前に今回アッシュくんに食べてもらうものとしては相応しくないだろう。
薄めの鍋に油を敷いて、イングリット様に刻んで貰った繁縷に火を通す。「やります」と言われたので、火の前を譲った。イングリット様の手つきはやっぱり慣れたもので、感心してしまう。
「イングリット様、本当にお上手ですね」
「料理の心得は、多少は。……日々料理をしてくださってるさんの前で胸を張れるほどではありませんが」
「いえ、そんなことはないですよ。私だって、学ばせてもらってばかりで」
それに、私だって花嫁修業の一環として練習しただけなんですよ。言いかけて、口を噤んだ。それは私たち双方にとって、交わして良い言葉ではないように思えた。
イングリット様の横顔をちらりと盗み見たら、本当に、息を飲んでしまうほど美しかった。大きな丸い瞳、それを縁取る長い睫毛、鼻梁は良く通っていて、化粧っ気のない唇は生来の血色の良さを感じさせる。肌は白く透き通って、毛穴や肌荒れなんかも見当たらない。私たちの憧れたお姫様は、やっぱりとっても美しかったよ、って、もうその居所も知らない幼馴染みに伝えたくなる。
でもそれは、ほんの一匙分くらい、復讐心に似たものが混ざってしまっているのかもしれない。私だって、二人がいなくたって生きていけるんだから、って。
毒気のない彼女の笑顔を思い出すと、私の方が消えてしまいたくなるのにね。
「さん、これくらいですか」
声をかけられて、はっとした。イングリット様の手元を見ると、繁縷のかさは減っていて、充分火が通っているように見える。「これくらいです!」と慌てて答えてから卵液を手渡すと、イングリット様はそれを躊躇無く鍋に流し込む。じゅわ、と気持ちいい音がして、黄色が繁縷を飲み込んでいく。
「ええと、それでそのまま蓋をします。半熟になるくらいまで蒸らしたら完成なので」
「随分簡単なのですね」
「イングリット様の手際が良いからですよ」
「そ、そんなことは……」
心から思ったことを告げただけなのに、イングリット様は照れたようにその頬を染めさせるから、私まで面映ゆくなってしまった。そんなことをしていたせいか、鍋の中の卵は半熟を通り越してしまっていたけれど、それはそれで美味しいから、大丈夫だ、多分。
色も形も、まるでお日様みたいな卵焼きだった。
薄く焼き上げたそれは鍋の縁の部分の形をしっかり残していて、その部分が特にパリパリしている。薄味だから、本当だったら何か手作りのかけ汁のようなものがあれば良いんだけど、そういう気の利いた物を準備するには材料も時間も足りなかった。
イングリット様には「今からアッシュのところへ行くので、さんも」と誘って頂いたけれど、私はただ手伝っただけだし、同じ学級の生徒さん同士がそういう大切なお話をするという場にのこのこ付いていっては良くないだろうと思って、首を振った。実際、私が今回したことと言えば、繁縷の採取と卵を混ぜたこと、それからできあがったものを八等分したくらいだったし、アッシュくんから見たら私はただの料理人だ。訳知り顔でその場に居るには不自然すぎるだろう。
「私のことは、どうかお気になさらず」
そう言って送り出したとき、イングリット様はちょっと納得しきっていないような表情をなさっていたけれど。
でも、そういう風に気を遣って頂いただけで、私は充分幸せだ。
イングリット様が去った後の部屋は、いつもより何だか広く感じた。小さな机の真ん中に置かれた、余った二切れ分の卵焼きのうち一つを、誰も見ていないし、と立ったまま手づかみで口に運ぶ。やっぱりちょっと焼きすぎたみたいで、いつもよりもパリパリに仕上がっていたけれど、ほんのり効いた塩の塩梅が良く、これはこれで美味しい。繁縷はクセがなくて柔らかい味をしているから、野菜やお肉を巻いても合うかもなあ。
ふと窓の外を見たら、紫檀の葉の隙間から、花冠の節にしては珍しく、晴れ間が見えていた。もうすぐ始業を報せる鐘が鳴るだろう。その時には、もうアッシュくんは、イングリット様から料理を受け取っているだろうか。イングリット様は、どんな言葉でアッシュくんを慰めるのかな。
想像したって答えなんか出ないし、実際問題、ファーガスを思い起こす素朴な料理を食べたところで、彼を取り巻く現状に関しては何の解決にもなりはしないだろう。それでも、それだけ自分のことを思ってくれている人がいるという事実は、少なからずその心を勇気づけるものだと思うから。
だから、どうか、と祈らずにはいられない。
小さく息を吐いてから、机を布で拭き、食器棚からお皿と突き匙を取り出して、扇形の卵焼きを乗せる。水差しを準備して、それから椅子を引き腰を下ろすと、一口大に切り分けたそれを、そっと口に運んだ。乾いた音が、口の中で小さく響いていた。
その日の夕方、修道院内でアッシュくんに声をかけられ、深々とお辞儀をされた。イングリット様は私のことを話されたのか、と驚いたけれど、「懐かしかったです、とても」と口にした彼の表情は以前大聖堂内で見かけたものよりも幾分穏やかになっているように思えて、本当は、少し泣いてしまいそうだったのだ。
私の方が泣くなんて絶対におかしいから、どうにか飲み込んだけれど。
卵焼きを一口食べたアッシュくんが、何か堪えるようにじっと俯いていたというのを、後に私は、イングリット様から聞いた。
「野草の卵焼きなんて、面白いもん作るんだな、さん」
クロードくんに声をかけられたのは、その二日後のことだ。
お休みが明けて、その日の昼食の、一番忙しい時間帯がどうにか過ぎ去ったかな、って頃、見計らったみたいにクロードくんは空になった食器を戻しに来て、緩く首を傾げる。
「や……そうの……」
それが染みこむのに時間がかかってしまったのは、あまりの忙しさに脳が上手く働いていなかったせいだ。それと、イングリット様とアッシュくんと学級が違い、なんら関係がないように思えるクロードくんに言われた、というのが、一番大きかったのかもしれない。要するに、全く油断していたのだ。
だけど、「野草の卵焼き」とその笑顔がきちんと繋がったとき、びっくりしすぎてそのまま飛び跳ねてしまう。「なんでっ」って言いながら、かあ、と頬に熱が籠もっていくのが分かる。恥ずかしい、熱い、し、暑い。体温が調節できないのは、もう花冠の節も半分が過ぎるっていうのに、傷口を隠すために長袖の服を着ているからだ。恥ずかしい、って思うのも、びっくりの延長。それ以外にない。
イングリット様かアッシュくんがクロードくんに話したのかもしれない。それか、二人がやりとりしているのを見ていたか。どっちにしろ想定外だ。熱の籠もる頬を押さえながら、一歩後ずさる。
クロードくんは慌てふためく私を見て、そっと口角をあげた。
「わざわざ大修道院の外にまで行って採取してきたんだろ?」
「いえ、いや、はい。でも外っていっても、城郭都市を出てすぐのところなので……」
「そこまでやろうと思うのが立派だよ。それに、使えるもんは使う。民の知恵ってやつだよなあ。とは言えめちゃくちゃ美味いらしいじゃないか。さんが野草で作る一品、次は俺も是非食べてみたいもんだが……」
クロードくんのそれが、本気なのか冗談なのか、私には判別がつかなかったのに、クロードくんはどうやら私の返事を待っていたらしい。「は、はい……じゃあ、いつか、そのうちに……」と、弱々しく答えた私に、クロードくんは「ん」って、小さく笑った。
「約束な」
その笑顔がびっくりするくらいにきれいで、私は、もう自分がどんな顔をしたらいいのかも、全然わからなくなってしまうのだ。