25 イングリットと野草
ガルグ=マクは山の頂きにあるだけあって、一歩城郭都市の外に出れば、人の手の入らない自然が広がっている。
まだ陽の昇りきらない早朝、朝露に濡れた草を踏み分けながら、人気の無い雑草だらけの野原を見渡した。畑でも作ろうとしたのか、或いは訓練場の一つとして使った過去でもあるのか、その一帯だけ木々が伐採された形跡がある。だけど、どうも長く放っておかれたみたいだ。伸び放題の雑草は成長しきっていて、私の膝まで濡らしてしまう。勿体ないな。日当たりも良さそうだし、耕せば立派な畑になるだろうに。
辺りを見回したとき、目的のものはすぐに見つかった。ガラテアよりも温かいせいか、思ったよりも成長しているようだったけれど。
「あった」
一人零してから、籠の中に入れておいた農作業用の鋏を取り出して、膝を付く。傍らに置いた籠が不安定な地面のせいで私の側に倒れてきたのを軽く押しやって、細く頼りない草を茎から丁寧に切っていく。葉っぱだけでも良いんだけど、花冠の節ならまだ茎も柔らかい。なるべく根を傷めないようにすると、また新芽が出てくるのだ。
必要な分だけを採るのに、そう時間はかからなかった。籠が大きすぎたみたい。半分にも満たないけれど、でも、とりあえずはこれで充分だ。一息ついたとき、木々の隙間から、朝日が昇り始めていることに気がつく。
肌を纏わり付く空気は既に温く、薄らと汗ばんでいた。立ち上がって振り向けば、荘厳な大修道院が目に飛び込むことを、私はきちんと理解している。だのに野鳥の鳴き声も、微かな虫の音も、土の匂いや感触も、私を郷愁に浸らせるには充分だった。私はそれらに丸く包まれて生きてきたから。
ガラテアに未練はないけれど、でも、二人のことは好きだったな。
立ち上がったら、一瞬だけ目が眩んだ。深く吸い込んだ空気は、だけど、ガラテアのものよりも少しだけ、何か、人間の営みが生む匂いが濃く混ざっているような気配があった。
「どうして誘ってくれなかったのですか」
責めるというには優しすぎる声だった。
いくら今は士官学校の生徒さんであるとは言え、ガラテア家の御令嬢のお部屋を私が尋ねるわけにはいかず困っていたら、金鹿の学級のリシテアさんが「あんた、何してるんですかさっきから」と声をかけてくれたため、無礼を承知でイングリット様を呼んでいただいたのが今から少し前。それからすぐに温室前にやって来てくれたイングリット様に籠の中の野草をお見せしながら話をさせていただいたところ、イングリット様は開口一番そう仰ったのだった。
「朝ならば私も手伝えたと言うのに……」
「いえ、そんな。私は、今日お休みをいただいていて、時間があったので」
慌てて首を振りながらそう答える。イングリット様は納得していらっしゃらない様子だったけれど、まさかガラテア家の方に野草を摘みに出かけましょうだなんて言えるはずがない。それに、イングリット様は今日も授業があるのだ。これから朝食を摂って、身支度を調えて――イングリット様のお姿を見るに、もう準備はできているようだけど――朝の忙しい時間を頂戴するなんて、そもそも考えもしなかった。
それに、「これ」だってただの思いつきだ。イングリット様に首を傾げられたら、少なくともこの野草は私が処分しただろう。
イングリット様は、改めて籠の中身に視線を落とされる。長い睫毛に縁取られた瞳の色が、クロードくんのそれと似ていた。それに気がついた瞬間身体が強張って、呼吸が浅くなった。急に不安になってしまって、抱えていた籠に無意識に力を込めてしまう。
やっぱり、だめかな。以前、アッシュくん本人から「元は平民だった」って聞いたから、似たような食生活だっただろうし、私の村で良く作っていた料理を食べれば、元気になってくれたりしないかなと思ったのだけれど。でも、ロナート卿の養子になった彼は出自がどうであれ今はもう立派な貴族の一人だ。
こんなので、元気になってもらえるわけない。
心が萎れていくのを自覚して、「やっぱりだめですよね」と言おうとしたそのときだった。
「ですが、とても良い考えだと思います」
イングリット様は私の顔を見て、神妙な面持ちで頷かれたのだ。思わずその瞳を見つめてしまう。口を半開きにさせた、間抜けな顔をした女がその美しい双眸の中にいる。
「幸い、まだ授業までには時間があります。さんさえ宜しければ、これから二人で作ってみませんか」
料理をするとは言え、これからどんどん忙しくなるガルグ=マクの厨房を借りるわけにはいかなかった。水場で野草を洗ってから、必要な物を市場で揃えると――卵くらいだ。これは、イングリット様が「私がお願いしたことですから」と頑として支払いを譲ってくださらなかった――私はイングリット様を、騎士の間の奥にある寮、その自室に案内した。
生徒さんたちの暮らす部屋と比べたら、使われている床板一つとってもよっぽど簡素な作りをしているだろう。だけどイングリット様は板場に目を留められると、「これならばいつお腹が空いても気軽に軽食を作ることが出来て、良いですね……」と心底羨ましそうに仰る。生徒さんたちのお部屋は一人で過ごすには充分広いとは言え、寝台と、物書き用の机、それから作り付けの棚くらいしかないらしい。食堂から寮は目と鼻の先にあったけれど、中を拝見する機会なんか今後一生ないだろうから、興味深く聞いてしまった。
けれど、イングリット様はすぐに切り替えられる。
「それで、さん。私はまずどうすれば良いですか?」
「ええと、そうですね。ではその草を細かく刻んで貰っていいでしょうか」
「全てですか」
「はい、茎も、葉っぱも」
調理板と包丁を準備すると、イングリット様は「……何だか料理当番みたいですね。実際もこのように行うのですか?」と仰るから、「本当ですね。……こんな感じです」と思わず神妙な顔で頷いてしまった。まさしく私が普段行っていること、そのものだった。
イングリット様が野草を調理板に乗せ、右手に握った包丁に力をこめられた瞬間、私は「そういえばイングリット様も紋章を持っておられた」と、ほとんど条件反射で身構えてしまったのだけど、イングリット様はこちらが拍子抜けしてしまうほど器用に包丁を扱われた。ハンネマン先生とリンハルトくんの話を聞いていたはずなのに、私は殿下の腕力の凄まじさを鮮明に覚えているせいで、「紋章」というものを一緒くたにしてしまっていたのだ。瞬時に作り上げた緊張感が一気に解けて、ほとんど無意識に、小さなため息が漏れる。
「この野草、見たことがあります。確か……」
不意に、イングリット様が野草の名前を口にされた。
「良くご存知ですね」
イングリット様の仰る通り、それは繁縷と呼ばれる野草だ。鳥の餌に使われることが多いけれど、栄養がたっぷりあって、調理すればきちんと美味しい。
なかなか野菜が育たない分、どこにでも自生するこういった野草を食べるというのは、ファーガスで生まれ育った平民にとっては良くある話だ。貴族の方には、信じがたい話かもしれないけれど。でも、イングリット様は「民の知恵ですね」と短く仰った。
「これに咲く小さな白い花が可愛らしくて、昔はよく愛でたものです。……お前はそんな雑草が好きなのか、と度々からかわれたものですが……」
「そんな、雑草だなんて……! ……いや、本当に雑草ではありますが……」
「ふふ、良いのです」
彼はそういう人でしたから。
過去形で語られたことに気がついて息を飲む私に、イングリット様は気付いていたのだろうか。
だけど、イングリット様にとっては、別になんてことない会話の一つにすぎなかったのだろう。伏し目がちの瞳は、少しも揺れていない。私だけだ。私だけが、イングリット様の言葉に動揺してしまっている。
白く滑らかな手の甲は、大樹の節のそれと、何も変わらなかった。包丁が調理板を叩く、小気味良い音が、私たちの間に、降り注ぐように落ちていた。