24 ガラテア伯の御令嬢



 今年の士官学校には三人の級長を始めとして錚々たる面々が揃っていたのだけれど、彼らを除いたときに一番に私が思い浮かべる方の一人に、イングリット様がいらっしゃった。
 イングリット様は私の暮らしていたガラテア領を治める伯爵家の御令嬢で、それは美しい方だ。ガラテア伯には他にもご子息がいらっしゃるけれど、彼女だけがその身に紋章を有しているそうで、そんなイングリット様とフラルダリウス家の方との婚姻が成ったときは、あの辺鄙な村ですら盛大なお祭りを開いたものだ。
 とっておきのお酒で祝杯をあげる大人達の中に混じって、美味しい物をお腹いっぱい食べた。大人たちにおだてられるがまま、輪の真ん中で踊った。あの頃のことを思い出すと、視界の端で光の泡がぱちぱちと弾けるような感覚になる。気難しいおじいさんも、癇癪持ちのおばさんも、あの日はみんな、にこにこ笑っていたから。
 貴族とは言え、私よりも年若い女の子が領外の、それも素晴らしいお家の方と婚約した、と言うのは、それこそ私にとって別世界の、何か物語の中のお話のように思えた。イングリット様ってどんな方なんだろう、きっとお姫様みたいに素敵な方だよ、と幼馴染みと地面に枝を使って絵を描いた。伯爵家ご一家を遠目に見たことのある大人が、長い金の髪の、それは美しい女の子だったよ、と教えてくれたのもあって、土の上に描かれる私たちのイングリット様は、いつも、長い髪を靡かせていた。
 ガルグ=マクで初めてイングリット様にご挨拶をさせていただいたときの感動は、だから、今でも忘れられない。
 入学したばかりのシルヴァンさんに話しかけられたときだった。「ここにいる間はただの学生だと思って」と私の手を取って微笑む彼と私の間に、イングリット様はその身を滑り込ませ、シルヴァンさんの胸元を押したのだ。



「シルヴァン、あなたはすぐにそうやって誰彼構わず声をかけて……!」

「げっ……! イングリット……!」



 美しい、金色の長い髪をしていらっしゃった。陶器のような滑らかな手の甲に、制服の上からでも分かる引き締まった身体。ゴーティエ家の子息を躊躇無く突き飛ばせるだけの女性なんて、今期のガルグ=マク士官学校には一人しかいらっしゃらない。
 もしシルヴァンさんがイングリット様の名前を口にしなくても、多分、私には彼女こそが「そう」だと分かっていたはずだ。
 私を振り向くとき、一つに編まれた長い金色の髪が靡いた、それが私の目を奪っていた。



「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありません」



 食堂で、前掛けをつけている女がいれば、ここの料理人だということはすぐに分かるだろう。イングリット様は私の姿をその視界に収めると、「私、食事をすることが大好きなんです。一年間、よろしくお願いします」と深々とお辞儀をして、そのままシルヴァンさんを引きずって、食堂を出て行ったのだった。
 その後ろ姿は、お姫様というよりも、物語の騎士様のように凜々しかった。



 イングリット様は、本当に好き嫌いの少ない方だった。どんな料理でも綺麗に平らげ、「ごちそうさまです。とても美味しかったです」と私たちにお礼を言っていくのも忘れない。その細身の身体に似合わず食欲は旺盛でいらっしゃったけれど、天井から垂れた糸に引っ張られているかのような姿勢で食事を摂るその横顔は、いつも美しかった。
 私がガラテアで生まれ育ったことを知ったときは、わざわざ呼び止めて、声をかけてくださった。



さんは、ガラテアの出だと聞きました」



 真っ直ぐ見つめられて名前を呼ばれた、そのときの衝撃と言ったら!
 私はそのまま気絶したっておかしくないくらいに動揺していたのに、イングリット様が「ガラテアでの生活は大変厳しかったでしょう。……申し訳ありませんでした。領主の娘として、お詫びします」と憂いを帯びた瞳で頭を下げられたので、思考が停止してしまったのだ。



「い、イングリット様、そんな」

「……民たちには貧しい暮らしをさせてしまって、本当に心苦しく思っています。私が立て直さねばならないと言うのに、遠回りをしてしまって……」



 イングリット様の言葉は、それ以上続かなかった。けれど仰りたいことは、ガラテアに住まう人間なら誰しも理解できるだろう。
 イングリット様の婚約者であった、フラルダリウス家のグレン様は、四年前に亡くなられた。戦死なさったのだ。
 ガラテアは土地が痩せていて、気候も厳しい。作物を育てるには急勾配の山林が多く、畑を耕してもそのほとんどが実らない。外に出て行く人間はいても、移り住むような人はいなかった。商人も、ガラテアには長く滞在しない。ゆっくりと死に向かうガラテアに生まれた唯一の希望が、紋章を持って生まれたイングリット様だった。
 イングリット様が裕福な家の子息の元へ嫁がれれば、ガラテアは他家からの援助が期待できる。まだ生き長らえることができる。急拵えの延命治療だったとは言え、その日暮らしの民にとっては、それに縋るしかなかった。
 す、と目の前のイングリット様が息を吸われた。私たちの希望が、手を伸ばせば届く距離にいることが不思議だった。



「ですが、私が必ず、ガラテアを豊かにしてみせます」



 それは、再び別の家の男性と婚約することも含めて、という意味だったのだろうか。
 私には、自分よりも年若い彼女の細い肩に、私たちの命がかかっているのが申し訳なく、不憫でならなかった。だけど苦しい生活を送っている人々を大勢知っている私は、頷くことも、かと言って首を振ることもできない。ただ、「イングリット様、どうか顔をあげてください」と、口にする他なかった。
 思いのほか弱々しくなってしまった声色が、まるでイングリット様を責めているみたいだった。








 そんなイングリット様が夜、私以外に人のいなくなった食堂に顔を出されたとき、私は彼女が夜食代わりになるものでも取りにきたのかと思った。遅くまで勉強をしていたら小腹が空いたとか、そういう生徒さんは、時折いたから。そうでなくても、私たちがいなくなってから勝手に侵入して食べ物をくすねていく人もいるくらいで――これは流石に料理長が各学級担任に注意するよう言っていたけれど――こうして夜の食堂を訪れる人の存在は、別段珍しいことではなかった。



「あの、さん。夜遅くに失礼なのは重々承知しているのですが……少し、私に時間を頂けますか」



 最低限の蝋燭の明かりが残る食堂の外は、もう闇に包まれている。時間。私の時間をもらいたい、っていうと、どういうことだろう。
 イングリット様は頷いた私を真っ直ぐ見据えると、その唇を、重々しく開かれた。そして、「アッシュのことで、相談があるのです」と言ったのだ。



「アッシュくん?」



 脳裏を過ぎるのは、大聖堂で見た彼の姿だ。
 祈るというよりは、ほとんど泣いているようだったあの姿。



「……さんも既にご存知かとは思いますが、今、ファーガスの西で叛乱が起きています。アッシュは、それに酷く思い悩んでいて……」



 イングリット様の沈痛な面持ちに、私も深く頷く。同じ学級の生徒として、イングリット様は彼を心配しているのだろう。勿論、それはイングリット様だけではない。殿下やシルヴァンさん、アネットさんたちも、アッシュくんのことを気に掛けているのは、食堂を訪れる彼らの会話の端々から察することができたから。
 アッシュくんは、授業や訓練にはきちんと出席しているらしい。平生と比べれば、勿論精彩は欠くけれど。食事は、食堂ではなく自室や、日陰の長椅子で一人、簡易的に済ませているんだとか。話しかけると笑い、いつも通りに返答はするものの、最近は少し痩せてきたと言う。
 私もここ数日、食堂に現われないアッシュくんを心配していた。そりゃあここはいつも人で溢れかえっていて、今のアッシュくんには足が遠のく場所だとは思う。大聖堂と比べれば、よっぽど人の気配も、噂話も、好奇の目線だって突き刺さるから。それでも食べているならば、と思っていたけれど、痩せてきているとなると話は変わってくる。



「私、アッシュはもう少し、ちゃんとした食事を摂るべきだと思うのです」



 不意にイングリット様が口にした言葉に、思わず彼女の顔を見た。



「健全な精神は健全な肉体に宿るように、食事は全ての資本です。アッシュはこんな時だからこそ、栄養を摂るべきではないでしょうか。ですから、その……アッシュが元気になるものを、一緒に考えていただきたいと思って……」

「元気になるもの」

「む、難しいでしょうか」



 反芻した私を見るイングリット様の眉尻は、少しだけ下がっていた。「いえ」と慌てて首を振る。そうしながら頭の中で、思案した。アッシュくんが元気になるもの。それって、例えばなんだろう。
 イングリット様同様、彼もまたさして好き嫌いの類は多くなかったように思う。甘い物も、ちょっと辛い味付けの物も、喜んで食べていた。だけど、元気になるものかあ。元気になるもの。精のつくもの? でも、あまりがっつりしたやつだと、お腹に優しくないかもしれない。ただでさえ最近はさして食事を摂っていないっていうんだし。
 考え込んでいるうちに、唸ってしまっていたらしい。不安そうな顔でこちらを窺うイングリット様に気がついて、慌てて背筋を正した。



「……一晩いただけますか?」



 引き受ける、引き受けないではなくて、何がいいかを考えるための時間であることを説明したら、イングリット様は安堵されたようにその眦を細められた。「はい、どうかよろしくお願いします!」と手を握られたとき、私は、幼かった自分は、まさかこんな風に憧れのお姫様と触れ合うことになるなんて、思いもしていなかったな、と、思考の片隅で考える。
 イングリット様の手は酷く温かった。土の上に描いた、空想上のお姫様が持つべきだったそれよりも、ずっと固く、厚かった。


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