22 雨とお魚とフレン



 花冠の節って、どうも空気がじっとりしている。雨期に入るせいだ。
 空を覆う雲は厚く、天気が持ちこたえている時ですら、薄らと雨の匂いがする。洗濯物は乾かないし、食物もどんどん腐りやすくなる時期に入るし、雷も鳴るしであんまり良いことはないけれど、この匂いだけは好きだ。雨が土の匂いを運ぶんだ、って、教えてもらったことまで思い出して、不意にお腹が痛くなるけれど。
 ガラテアで暮らしていた私は雨に慣れている。だけど食堂の屋根を叩く音は、粗末な家で聞いていたものよりも反響して、何か別のものみたいだった。突然の雨に食堂に駆け込む学生さんたちは軒下で鬱陶しそうに雫を払っていて、布か何か渡してあげたくなる気もするけれど、「キリがないから」と料理長に止められた。行動に移してもないし、口にしたわけでもなかったのに、良く見ている。
 だけど実際、そんなことをしていたら本当にキリがなかった。雨は一日中際限なく降り注いでいたし、広い食堂は雨宿り代わりに使われて、いつにもまして人の往来が多かったから。
 作業の隙を見て、ちらりと顔をあげる。何か食べるでもなく壁際に立って雨が弱まるのを待つ生徒さんたちの中に黄色の外套を探してしまう私って、やっぱりちょっとどうかしているのかもしれない。








 私の心配を余所に、前節の盗賊討伐の課題を、彼らは難なく片付けてきた。
 一仕事終えた彼らのため、料理長が腕を振るってくれたから、いつもより品数の多い豪華な夕食になったのだけど、そうなってくると私はやっぱり食堂を走り回らなくてはいけなくて、クロードくんに何か声をかけるどころではなかった。彼は学級の人たちとか、先生と楽しそうに話していたから、そもそもその状態で私が彼に話しかけること自体おかしかったのだけど。
 盗賊の討伐はさほど難しいものではなかったらしい。ベレト先生のおかげだ、って生徒さんたちが口々に言っているのを聞いたから、元傭兵の先生による、采配、ってやつが、素晴らしかったんだろう。
 彼らは誰一人怪我をしている様子はなく、むしろ達成感に満ち満ちていた。疲労の中に滲む高揚を感じ取ったのは、猟から戻ってきた大人達の纏っていたそれと似ていたからかもしれない。あの時と違って、仕留めた獲物の姿はここにはないけれど、それでも大事を成し遂げた彼らは晴れ晴れしい目をしていた。
 悪人を手に掛けた彼らを嫌悪はしない。野放しにしておけば、何の罪も無い人々が危険な目に遭ったかもしれないし、それは私の村で起きたことだったかもしれない。怪我をすることなく、命を落とすことなく戻って来てくれたことが嬉しいし、力の無い私たちにかわって盗賊達を掃討してくれたことに、きちんと、心から感謝している。
 だから、胸の内側が重たくなるようなこの感覚を言葉にするなら、ただ私は、寂しいのだ。
 私と彼らの間にはわざわざ確認せずとも分かるくらいにはっきりとした壁があるのに、こういうときでしか自覚できない。皆が――特にラファエルくんとか、レオニーさん。一番はクロードくんだけど――こんな私に分け隔て無く接してくれるせいだ。何か、色んな事が間違っていたら、私もあの輪の中にいることができただろうか、と空想してしまう。でも、「何かが間違っていた」としたら、そもそもガルグ=マクにいない可能性の方がずっと高かっただろうから、そんなのは夢の話だと切り捨てるしかない。



 




「うわ、魚くさ」



 生徒さんの声で我に返る。
 こんな時に厨房で魚の処理をしていて大変申し訳ない。生臭さもあってか、心なしか生徒さんたちは玄関ホール側へと移動していく人が多く見受けられた。厨房側で雨がやむのを待っている人は、魚の臭いに慣れているか、そもそも鼻の利かない人くらいだろう。
 帝国と同盟領とを分かつアミッド大河で大量に漁獲されたとかで、信者の方が届けてくれたのだ。この時期は生のままでは保存が利かないから、半分は下処理をしてから酢漬けにしてしまう。と言っても、それでも早く食べてしまわないといけないのだけど。
 黙々と処理を続けるのは、そうやって作業をしていないと余計なことを考えてしまうからだ。骨や内臓を取り除き、開いた魚を酢で漬けていく。淡々とこなしていると、雑念が抜け出て、心が平らになっていく。やっぱり料理は良い。できあがる頃には、くよくよ悩んでいたことや、処理しきれなかった感情が、一旦は落ち着く。一旦、ていうのが悲しいところではあるけれど、そもそもそれで人間の悲喜交々が解消されてしまうなら、皆がこぞって料理を始めて、世の中は食糧不足になりかねないわけだし、これくらいの塩梅で丁度良いのかもしれない。



「まあ! 今日はお魚さんですのね?」



 その時、場違いなくらいに明るい声が耳に飛び込んで来て、思わず顔をあげた。



「わたくし、お魚さんもお魚さんのお料理も大好きですのよ。外は雨も降っておりますし、ご迷惑でなければ、少しここで見学させていただいてもよろしいかしら?」



 こちらを覗き込みながら微笑む少女は、セテス様の妹のフレンさんだ。魚料理が好きなのは知っていたけれど、調理の段階で興味を持たれると、ちょっと緊張してしまう。長机の向こうでほとんど身を乗り出すようにするフレンさんの丸い瞳は、きらきらと輝いていた。



「面白いものかどうかわかりませんけど……」

「あら! とっても面白いですわよ。お料理って、魔法みたいですよね。わたくし、お料理があまり得意ではないので、お勉強させていただきたいな、と常々思っておりましたの。士官学校の生徒さんたちには、お料理当番、ってありますでしょう? さんにお料理を教えていただけると聞いて、とっても、とーっても羨ましく思いましたわ」



 わたくしも、機会があったら是非教えていただきたいと思ってますのよ。と一息に続けられたので、「セテス様がお許しになれたら、是非」と返せば、フレンさんはそれまでの朗らかな表情から一転、微かに眉を顰めた。セテス様はとても、極端なくらいの妹思いでいらっしゃるから――フレンさんが少し男性と話をしていたと聞いただけで目の色が変わるくらいには――フレンさんが包丁を持っただけでも慌てふためきそうだと思ったのだけど、この表情から察するに当たらずとも遠からず、らしい。
 フレンさんは士官学校の生徒でなければ、勿論騎士団に所属しているわけでもない。大司教補佐であるセテス様の妹、として、日がな大修道院内をお散歩したり、野良犬や猫を可愛がったり、修道士の女性とおしゃべりをしたりしている。その延長で、時折だけど、私にもこうして気安く話しかけてくれるのだ。
 もしここが大修道院の食堂ではなく私の家で、フレンさんが近所に住んでいる年下の女の子、っていうんだったら、野菜を切るくらいのお手伝いはしてもらったかもしれないけれど、そういうわけにはいかない。私だってこれまでの経験で学んでいるのだ。アネットさんの爆発事件に、殿下の包丁破壊事件。二度あることは三度ある。フレンさんに怪我をさせたとあっては、今度こそ首が飛ぶだろう。まず、セテス様がお許しにならない。



「素敵なお兄様で、だけど、羨ましいです」



 酢の準備をしながら言ったそれは、嘘ではない。お世辞は半分くらい含んでいるけれど、普段は何事にも真摯でいらっしゃるセテス様を、私は尊敬している。



「ちょっと、ちょーっとだけ、過保護すぎるくらい過保護な人ですけれどね?」



 眉尻を下げたままそう答えるフレンさんに、いけないとは思いつつも、笑ってしまった。
 そうしているうちに雨は上がっていたらしく、窓から白んだ陽の光が差し込む。さっきまでのもやもやはいつの間にかなくなっていて、それが料理に集中したためなのか、フレンさんとお話をしたおかげなのかは分からなかったけれど、穏やかに微笑んでいるフレンさんは、私の葛藤の、何もかもを許すみたいに優しかった。


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