20 恩を買う



 前節から金鹿の学級担任になったベレト先生が食事を摂っていると、必ず生徒の誰かが隣、或いは向かいの席に座って、親しげに話をしているのを目にする。だけどその誰かっていうのは大抵――少なくとも、二回に一回とかそれくらいは――金鹿の学級長であるクロードくんだった。
 ベレト先生とクロードくんって、なんだか不思議だ。先生と生徒、っていう関係じゃないみたいに見える。例えばこれがマヌエラ先生とエーデルガルト様、ハンネマン先生と殿下、だったら、ちゃんと先生と生徒に見えるんだけど。年齢差のせいなんだろうか。それともクロードくんの、ベレト先生を見る瞳がそう感じさせるんだろうか。
 うーんと考え込んでいたら、クロードくんよりも先に食事を終えたらしいベレト先生が席を立った。思わず緊張感を持ってしまうのは、私がまだ、ベレト先生に慣れていないせいだ。あの感情の薄い瞳でじっと見つめられると、私はちょっと困ってしまう。クロードくんに見つめられるのとはまた違う種類の緊張に、頭のてっぺんから飲み込まれてしまうのだ。それは多分、ベレト先生がどういう人なのかを図りかねているせいなんだろうけれど。



「ごちそうさま」

「お、おそまつさまです」



 実際、私がベレト先生とする会話と言えば、決まってこれだけだった。日によって私の返事がちょっと変わることがあるだけで、ベレト先生の方が何か特別な文句を付け加えたりすることはない。
 食事を終えたベレト先生の持ってくるお皿はいつもパン屑一つ残っていなくて、助かる。気遣いもあるのかもしれないけれど、それよりもそういう風に躾られたんだろうな、と思う。彼の父親であるジェラルトさんもそうだから。
 教鞭を執り自ら武器を持って訓練を行うベレト先生は、年齢が近いためもあるのか、生徒たちにも特に慕われているように思えた。もしかしたら、ベレト先生自身が立場というものに拘泥しないたちなのかもしれない。シルヴァンさんがベレト先生の肩に腕を回して、親しげに何か言葉を交わしているのをみたときは、ちょっとぎょっとしてしまったけれど、ベレト先生はにこりともしない割に、特に気にして無さそうだった。
 教室の方へ続く出入り口に向かって歩くベレト先生の後ろ姿を眺めていたら、「うわっ」と声をかけられて、思い切り悲鳴をあげてしまう。「ぎゃ」って。慌てて口を押さえてから正面に顔を戻せば、そこにいたのはクロードくんだった。何だか楽しそうに見えるのは、私の思い過ごしだろうか。



「先生を見てたのか? 盗み見とは、さんも案外趣味が悪いな」

「み……見てな……ました……」

「ふ、どっちだよ」



 驚かされたことと笑われたことに対する、細やかな、本当に細やかな怒り、とまではいかないまでも、何か分類しなければならないと言われれば、散々迷ってそこに入れてしまうかもしれないくらいの感情を持って、ちらりと彼を見上げる。クロードくんはそんな私を知っていて、敢えて気がつかないふりでもしているみたいに「で、今日はどうなんだ?」と、私にしか聞こえないくらいの声量で尋ねるから、どんな顔をしたらいいのかわからなくなってしまった。
 クロードくんの目が、合図するみたいに私の左腕を一瞥する。彼は私の腕を、心配してくれている。








「あのね、ここだけの話にしてほしいんですけど」



 土のついたタマネギを抱え、温室から食堂へ戻る道すがらだった。クロードくんは手伝うって言ってくれたけれど、申し訳なくて、ほんの少しは私が持った。だけどこんなのは私の自己満足だ。手伝って貰っている、っていうのが、真綿みたいに私の首を絞めていて、だから私は、やっぱり誤魔化さないで打ち明けなければと思ったのだ。少なくとも、クロードくんには。それが誠意である気がした。
 人気がないことを確認してから、隣を歩くクロードくんにだけ聞こえるくらいの声量で、「あの、実は」と切り出す。聖職者に懺悔するみたいに。私は散々頭で言い訳をしておきながら、誰かに縋りたかったのかもしれなかった。
 本当はまだ怪我をした左の手首が痛いけれど、殿下に気遣わせたくないから痛くないふりをしていること。仕事ができないと判断されてクビになったら困るから、無理をしていることも料理長たちに知られないようにしていること。クロードくんは、そのどれもに丁寧に相槌を打ってくれた。角のない優しい声だった。
 クロードくんは聞き上手だ。びっくりするくらいに。相槌を打ってほしいときに小さく頷いて、歩く速度を合わせてくれて、それで、こっちの目をじっと見てくれる。そうされているうちに私は自分の内側に何重にもかけておいた布を、手ずから外してしまう。彼のことを、信じてしまいたくなる。いや、だけど、信じるとか信じないとか、変だな、そんなの。でも、私はいちいち立ち止まってしまうのだ。この人は、大丈夫かな? って。一年前までは決してそんなことしなかったはずなのに。
 私の話を聞き終えたクロードくんは、少し考え込むように目を伏せてから「そうだな」と言った。同意ではなくて、自分の思考を整理するためのもの。私の休憩時間が終わる、ほんの少し前だった。遠くで生徒さんの笑う声がした。市場の活気も。食堂からは、食器を片付ける音だって。だけど私はその時、そういうものと私たちの間に、膜が張られたように思ったのだ。



「そりゃあ自分とこの王様になるやつだもんな。ディミトリにそうやって気遣うのはまあ、分からないでもない。だが問題はそっちよりも、働き手として不足と思われることじゃないか? さんにとっちゃ、そっちが死活問題だろう」



 クロードくんの、黒い髪が光に透けていた。彼はいつも何か、あたたかな粒子を纏った人だった。
 その翡翠の瞳を見つめたまま、慎重に頷いた私に、クロードくんは眦を細める。
 村には帰れない。そこまでは話さなかった以上、彼が掘り下げないことは当たり前だったけれど、何だか胸がざわざわした。
 個人的な身の上話を聞いてほしかったわけではない。ただ、ただそこにはいつまでも重石が乗っていて、近くに触れようとするだけで、自分の全身が毛を逆立てるのだ。そこはだめ、って。今もそうだった。私はいっそ叫び出したいくらいの情動を必死に抑え込んでいた。私はもしかしたら、何も許せていないのかもしれなかった。
 だけど、許せるってなに。
 軽く唇を噛んだ、そのときだった。クロードくんが「そうだな」って、不意を打つみたいに口にしたのは。



「じゃあ、どうしても具合が悪いときは俺が手伝うよ。いつでもってわけにはいかないけどさ」

「えっ」



 思わず顔をあげる。直前まで抱いていた葛藤は、その時の衝撃で散り散りになったらしい。慌てて「いえ」と首を振りかけた瞬間、だけど、クロードくんは「言っただろ」と、念を押すように口にしたのだ。



「俺は恩を売って歩くのが趣味なんだ、って」



 気になるなら、いつか返してくれりゃあいいからさ、と、彼は笑いながらそう続けた。遠慮しいの私の意見なんか、ねじ伏せるみたいに。
 その言葉に、彼の表情に、頬を殴られたように思ったのだ。
 いつかも、彼はこうして私の心の隙間に入り込んだ。それを払いのける気なんか、本当はなかったのだ、最初から。








 だから、今彼に言われた「今日はどうなんだ?」がどういう意味かを、私はちゃんと理解している。手伝わなくて大丈夫なのか、ってことだ。私はそれに、大きく首肯した。大丈夫です、と言葉にできなかったのは、ちょっと離れた場所で仕込みをしていた料理長の視線を感じたせいもある。
 左腕は今もうっすら痛かったけれど、でも、困るほどではなかった。勿論、頼るのは申し訳ない、っていう思いもまだあるんだけど、でも、今はクロードくんの気持ちだけで充分嬉しい。
 クロードくんは「なんだ」と肩を竦めた。相変わらず、見透かすような目をしている人だった。



さんに恩を売れないのは残念だな」



 ベレト先生にも、彼はこんな風に話しているのかな。不意にそんなことを思ったけれど、でも、クロードくんのベレト先生を見る目と、私に向けるものは、全然違う。どっちが良いのかなんて、私には分からないけれど。



「今日は、お気持ちだけいただきます」



 そう言ったら、クロードくんは今度こそ、軽く声をあげて笑った。


PREV BACK NEXT