19 温室、クロードと膝を折る
「あ、さん」
休憩中、外の空気を吸おうと釣り池の方に向かったら、寮のあたりを通りかかっていたらしいレオニーさんに声をかけられた。うっすら筋肉のついた健康的な腕を大きく振ってから、彼女は私に向かって駆けてくる。
レオニーさんの髪の毛って、温室にある果実の色に似ている。甘い香りを放つ、アドラステアの南部で栽培される果物。太陽の下で明るく輝くあの色が、私はちょっぴり羨ましい。
私の目の前まで走ってきたレオニーさんは息切れ一つすることなく、「怪我はもういいのかい?」と尋ねた。レオニーさんとは、以前城郭都市で偶然出会ってから声をかけてもらって話をすることが増えたのだけど、彼女まで怪我のことを知っているなんて、とちょっとだけ面食らってしまう。ラファエルくんもそうだったけれど、もしかしたら、マヌエラ先生を呼びに行ってくれたっていうイグナーツくん経由で伝わっているのかな。黒鷲の学級と青獅子の学級の人たちにはほとんど――妙に耳聡いシルヴァンさんを除いて――知られていない様子であることを思うと、多分、そうなんだろうけど。
じゃあ、クロードくんにも当然知られていると考えて然るべきだろう。自分の不甲斐ない一面が露呈していることが恥ずかしいけれど、こればっかりはもう、仕方がない。
「もう大丈夫ですよ。ありがとうございます」
なるべく明るくそう答えれば、レオニーさんは「ならいいんだけどさ」と口にした。
「ぶっ倒れたって聞いたから。あんた、なまっちろいし、もうちょっと鍛えた方がいいと思うよ」
確かに、レオニーさんと比べたら圧倒的に体力はないだろうな。これからも食堂で働き続けられるだけの体力があれば、それで充分かなあとは思うけれど。
レオニーさんは私の返事を待たず、「じゃあわたし、もう行くな。これから厩舎の掃除当番なんだよ」と、門の方へと向かって歩いて行った。その後ろ姿に「いってらっしゃい、頑張ってくださいね」と声をかけながら、大変だなあ、と考える。
彼女に限らず、士官学校の生徒さんって、毎日すごく忙しそうだ。様々な授業に訓練、節の終わりの課題。草むしりなどの奉仕活動に加え、温室の花に水をやったり、馬の世話もしなくてはならない。あとは、料理当番もそうか。私もそれなりに忙しなくはあるけれど、日々の食事の支度という一点から逸脱しないわけだし、苦ではない。こうして適宜休憩ももらえるしね。
ほんのりと痛む左手首を摩りながら、釣り池の、眩しいくらいに光が乱反射する水面を見る。今日は釣り糸を垂らしている人はおらず、周囲は閑散としていた。
天気が良いためか、目に入る光の量が凄まじく、自然と瞼を半分くらい落とした。こういう空は、ガラテアでは滅多にない。ガラテアは通年、薄い雲が空を覆っていたし、大抵雪か雨が降りすぎるくらいに降った。これくらい陽の光に恵まれていたら、もう少し野菜や麦も、根腐れすることなく育ったのかな。そうしたら村は貧しくなかったかな。出て行く人も少なく、ガルグ=マクまでは勿論いかないまでも商人が足を運ぶくらいにはそれなりに発展して、そうしたら。
そうしたら婚約者に捨てられて、友だちにも置いていかれたことくらい、大したことじゃないって言えたのかな。
考えながら、自分自身に驚いてしまう。そこに着地してしまうんだ、って。目の前の仕事を片付けることばかり考えていた自分の隙間に、気付かぬうちに、或いは初めからそっと差し込まれていたそれを、わざわざ広げなくてもいいのに。慣れのせいで、ちょっと余裕が出てきている、ってことなんだろうか。考え込んでいたら、「、休憩中悪いんだけど、タマネギをもらってきてくれない? 急がないから、戻るときでもいいんだけど」と食堂の扉から顔を出した料理長に声をかけられた。
「わかりました!」
振り向きざまに返事をしながら、こんな風にどんどん仕事を投げてもらった方が、よっぽど楽だな、と思っている自分を自覚する。
野菜をもらうために温室に行くのは、今となってはほとんど日課みたいなものだった。
授業中でない時間帯に限っての話だけれど、温室に行くと、大抵士官学校の生徒さんと出くわす。彼らは温室の手伝いも授業の一環とされていて、作物を育てたり、水をやったりという仕事が順番で回ってくるらしい。レオニーさんが厩舎に行くところだったという点を考慮すると、そこに誰か生徒さんがいることは想定の範囲内だったのだけど、まさかクロードくんがいるとは思わなかった。
黄色い外套が、植物の緑の中で鮮やかに浮かんでいる。花や木々、様々な植物のある温室はどこを切り取っても色鮮やかなのに、クロードくんの輪郭は、浮かび上がっているみたいに明瞭だった。少なくとも、私の目にはそう映ったのだ。
水やりでもしているのかな、と思ったけれど、クロードくんは温室で育てられている薬草を観察しているらしい。そろりと近づいたとき、だけど、私の影がクロードくんの視界に入ってしまったみたいで、顔をあげられた。「さんか」と呟かれた声は、いつもよりもどこか丸っこい。
「薬草?」
短く尋ねると、クロードくんは「ん」と小さく頷く。温室の、熱気のこもった空気に、ちょっと顔が熱くなっていた。
「さんは野菜か?」
「はい。今は休憩中なんで、急いでるわけじゃないんですけどね」
「そっか」
言いながら、今のはちょっと言い訳がましかっただろうか、と考える。こうしてお話ができるのって、あまりないから、ちょっと一緒に居たかった。なんて、下心が透けちゃいそうだ。
「じゃあ、ちょっと話し相手になってくれよ」
だけど実際にそう言われてしまうと、見透かされたみたいでどきっとした。まともに返事もできないくらいで、とりあえず大きく頷く。隣、しゃがんでいいかな、とちらりと考える私の内心を読むみたいに、クロードくんがちょっとだけ逆側に寄って、私の座る場所を作ってくれた。それでもおろおろしていたら、ふは、って笑われてしまって、困った。私は何だか、クロードくんを前にするといつにも増して思考が鈍くなってしまう。
子供が一人入るくらいの間を空けて、そろりと腰を下ろす。お尻をつかないように膝を抱えていると、草いきれの匂いが濃くなった。このあたり一帯だけ、少し温度が低いようだ。多分、魔法か何かで調整されているんだろう。青々と育った薬草を眺める。野生に群生したものと違って、均等に植えられた草たちは、どれも虫食いすらなくお行儀が良い。
「わ、ちゃんと効能毎に植えられてるんですね」
必要に応じて野菜や木の実を採りにくることはあるけれど、薬草が育てられたこの一画に関しては今までしっかりと見ていなかった。大体五株ずつ、切り傷、化膿止め、熱冷まし、火傷。ちゃんと分けられているのは、分かりやすくていいなあ。そうぼやいたら、クロードくんが感心したように「へえ、見ただけでわかるのか」と尋ねるから、何だか知識をひけらかしてしまったみたいで恥ずかしくなった。
「ええと、その……大体は。森の傍で暮らしていたので」
「ふうん。ガラテアは不作続きだと聞いていたが、薬草に関しては別なのか?」
「作物と違って、薬草は寒冷地帯の方が育ちやすいみたいですね。でも、抜いたらすぐ萎びて使えなくなってしまうので、交易とかにも利用できなかったんです。だから村で消費するしかなくて、そうなると自然と覚えていくっていうか」
村の大人達が話していたことをそのまま口にすると、クロードくんは「なるほどねえ」と私の隣で頷いていた。
その横顔を見ながら、ふと我に返る。あれ、そういえば、私、ガラテア出身だなんて話、クロードくんにしたことあったかな、って。引っかかりを覚えて記憶を手繰ろうとしたとき、徐ろにクロードくんが立ち上がった。「よし」って。もしもう少し考える時間があれば、答えは出たんだろうけれど。
「そろそろ行くか。ところで、今日も芋か?」
「えっ?」
伸びをしながら、クロードくんは軽く笑ってみせる。「いや、さん、今野菜を取りに来たんだろ」って。
「怪我してるやつに運ばせるほど、俺も薄情じゃないさ」
それに、まだ痛いんだろ、その腕。って。
そう続けられたことに、思わず息を飲んで、左腕の、長袖で覆われた傷のあたりを庇うように触れる。「もう痛くないですよ」って、殿下に吐いた嘘と同じ言葉を口にできなかったのはどうしてだろう。喉のあたりで、声が引っかかって、何も形にならなかった。ただ、ずきずきと腕が痛んでいた。
クロードくんの翡翠の瞳は、私を見透かすように見つめている。私は何も言ってないのに、「見てりゃあわかるさ、それくらい」って続けられたとき、本当だったら、泣きたかった。ぐっと堪えて、クロードくんの放った痛いんだろ、には敢えて返事をせず「今日はお芋じゃなくてタマネギです」って言ったら、クロードくんはその眉尻を下げて、微かに笑った。