18 後ろめたい嘘



 食堂に戻って早々、大司教補佐であるセテス様から声をかけられたときはそのまま呼吸が止まってしまうかと思った。まだ職を得てからたったの二節だというのに、騒ぎを起こしたことはこれで二度目、しかも今回はファーガス神聖王国の正当な後継者たるディミトリ殿下が関わっているとなると、ひょっとしたら首を宣告されるのではないかと思ったのだ。
 だけど、セテス様は私のことをじっと見つめられて、「怪我はもう良いのか?」と低く尋ねるだけだった。



「え、ええっと……」



 鈍く痛む手首を身体の前でさすりながら、「ええ、もうすっかり良くなりました」と嘯けば、けれどセテス様は深く頷かれる。「……なら良いのだが」と、さして表情を変えられることもなく返すセテス様はの声は、ほとんど抑揚がない。
 単純計算をすれば、私は今年が終わるまであと十回は問題を起こすことになってもおかしくなかったけれど、「今後も励んでくれ」と言われれば、姿勢を正して首肯する他ない。それだけ人手不足で、働き手がいないのかな、とは薄ら思ったけれど、私としては有り難い。忙しいことは、全然苦では無い。材料を仕入れて、仕込みをして、調理をして、時には生徒さんたちに指導をして、片付けて、目まぐるしい日々だからこそ、私は多分、こうして今もまともに生活できているんだと思う。キアラおばさんには、感謝してもし足りない。勿論、アロイスさんにも。
 セテス様が大広間へ向かう後ろ姿を見送りながら、はあ、と深くため息を吐いた。そもそも、セテス様のような教団の偉い方とお話すること自体恐れ多いのだ。胸がばくばくと音を立てていて、落ち着くまで、ちょっと時間がかかってしまった。



「…………はぁ」



 誰にも聞こえないよう、こっそりもう一度だけ息を吐く。
 腕は相変わらず痛いけれど、大丈夫、そのうち落ち着くに決まってる。だってこんなの、ただの怪我なんだから。








 昨日までお休みをもらっていたと言っても、別に仕事の中身が変わるわけじゃ無い。料理長も先輩たちもむしろ心配してくれたけれど、私が「大丈夫です!」と言ったことに、安心しているようだった。だって、ここの食堂って本当に手が足りなくて、大変なのだ。私だって、先輩たちにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
 早朝から市場に行って、温室と食堂とを行き来して、それから水を汲んだ。重たいものを運ぶことに関してはちょっと大変ではあったけれど、大体のことは片腕でなんとかなった。まあ、右腕だけを使っていると庇っているみたいで、明らかに見た目がおかしくなるから、左手も添えてはいたけどね。
 だけど、本当に怪我をしたのが利き手じゃなくて良かった。包丁を使うときも、何かを混ぜたり盛り付けたりするときも、今まで意識していなかったけれど、私が酷使していたのは右手だけだった。角度によっては何もしてなくても痛むけれど、いてて、とかわざわざ口にしてしまうほどでは決してない。



「おおっ、さん、もう怪我はいいのか?」



 食事を受け取る列に並んでいたラファエルくんに声をかけられて、「はい!」と頷いた。怪我をしたことが伝わっているのはどうにも気恥ずかしかったけれど、気に掛けてもらえたことが嬉しかったのだ。ラファエルくんが「そうか!」と頷くと、それだけで迫力があった。ラファエルくんがにこにこしていると、私も嬉しくなる。



「オデ、心配してたんだぁ。さんがいねぇと、盛りが少ねえからよぉ」

「そうだったんですか?」



 そんなことを言われれば、スープも少し多く盛りたくなってしまうものだ。「いっぱい食べてくださいね」と言いながら、他の人のものより一回分余計におたまを掬って器に盛ったら、ラファエルくんは「おおっ! ありがとなあ! さん!」と目を輝かせてくれた。その時器を持っていた方の左手が疼くように痛んだけれど、気にしない。こんな風に喜んでもらえるだけで、私はとっても嬉しいのだ。








 殿下に「」と名前を呼ばれたのは、その日の昼食後のことだった。
 殿下は厨房と食堂の座席とを区切る長机の向こうで、実に神妙な面持ちをなさっていた。



「殿下! そ、その節は、本当に」



 慌てて姿勢を正し、頭を下げようとした私に、殿下は慌てて首を振られる。



「いや、謝らないでくれ。俺の方が注意が足りなかった。……むしろ怪我をさせてしまって、すまない」

「とんでもないです! 見てください、全然痛くないんですよ。だから、どうか気になさらないで」



 右手と一緒に、手の平を閉じたり開いたりする。そうしていると、服の袖がずり落ちてしまいそうになって、慌てて戻した。包帯が見えてしまうとみっともないし、色んな人に「おや?」って思われてしまうかもしれないから、とりあえずは当分の間、長袖の洋服で凌ぐことにしたのだ。私にはちょっと暑いのが難点ではあるけれど。
 そういう一連の動きを、殿下はちょっと困ったような顔で見つめている。下がった眉尻は美しく、殿下の感情を如実に表しているように見えるのに、「察すること」が苦手な私には殿下がどんなことを思っていらっしゃるのか、全然分からない。だけど、殿下は「良かった」と言ってくださった。良かった。



の怪我が深刻でないことが、せめてもの救いだ」



 その言葉に、私は自分の頬を張られたような気になったのだ。
 嘘を吐いていることが後ろめたくて、だけど、それでも殿下が私のことで心を痛める必要なんかないってことだけは、曲げようのない事実だった。本当だったら比べる必要の無いはずのそれらを秤に乗せて、私は何度か、口を開いては閉じて、右手で胸元を押さえる。身体の横にぶら下がった左の手首が痛い。痛いけど、でも、こんな痛みがなんだって言うんだろう。ちょっと痛いだけで、全く動かせないわけではないし、仕事だってできる。
 嘘を吐いていることへの後ろめたさに価値なんかないんだから、飲み下してしまえ。



「あ、あの」

「ん?」

「殿下のお怪我は大丈夫ですか?」



 自分の中に生まれた動揺を誤魔化すように口にした。殿下の指先は、今、薄い手袋に覆われて、見えない。だけど、私みたいに隠そうという意図があってそうしているわけではないことは分かった。料理のときだけ、殿下はそれを外されていたのだ。
 私の言葉に殿下は、短く笑われる。ふ、と、柔らかな呼吸音だった。耳を澄ましていなければ、決して拾えないような。午睡に丁度良い、温い光が差し込んでいた。殿下の金色の髪を照らす後光のようだった。それがあまりにも美しかった。



「言っただろう。あんなもの、怪我のうちに入らない、と」



 とっくに塞がったさ。そう続けた殿下は「何か困ったことがあったら言ってくれ」と言い残すと、食堂を出て行かれた。こんなときでもじわじわと広がる痛みと、嘘を吐いてしまったことへの罪悪感に飲み込まれそうになる。靡く青い外套を見送る私の頬は、未だかつて無いくらいに強張っていた。
 そんな私を見ている人がいるなんて、思ってもみなかったのだ。


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