17 痛い
殿下の手元から飛んできた、折れた包丁の刃先が腕に当たった瞬間は、痛みよりも、驚きと混乱、それから恐怖が勝った。冷や汗がぶわ、と湧き出て、呼吸が浅くなる、というより、もうほとんど止まってしまう。目がちかちかして、耳の傍で甲高い音が鳴っていた。悲鳴をあげる暇もなかった。
今、当たったよね、包丁の刃、私の腕に。ついさっきの出来事を反芻させるみたいに映像を頭で再生し直して、却ってぞっとした。私の足元に落ちた、もう使い道のなくなった刃についた血にも、一切気付かないままでいればよかった。
これ、私の血?
「すまない!」
微動だにできずにいる私に、血相を変えた殿下が歩み寄って言う。「大丈夫か、すぐに治療を……」と続けられるけど、私は熱を伴う痛みを自覚しながらも、あまりの恐ろしさに腕を確認することができないのだ。顔を腕で覆った姿勢のまま、爪の先すら動かせない。
「で、殿下、私、これ、腕、ど、どうなってますか……?」
後に振り返れば、混乱のあまりに全く知性の無い言動を取ってしまったけれど、正直このときは言葉を選ぶ余裕もなかった。私の言葉に、殿下は「血が出ている」と切迫した声ながらも短く答えた。分かっていたことなのに、いざ言葉にされてしまうとさあっと血の気が引く。
ガラテア領の片田舎に生まれて二十年近く、深い木々や獣と一緒に生きていた以上、怪我はそれなりに負ってきた。だけど、そのどれもが階段を踏み外したとか、木に手をついたら枝で切ったとか、小さな子供らと追いかけっこをしていて勢いよく転んだとか、そういう細やかなものだ。男の人たちみたいに猟をしていたら人の打った矢が刺さったとか、釘を踏み抜いたとか、大怪我と呼ばれるものは経験していない。
さらに不幸なことに、ファーガス生まれの私には、竪琴の節のガルグ=マクはほとんど初夏と言っても差し支えなかった。そのため着ている服の袖の部分は手首を隠すまでに至らず、丁度剥き出しになってしまっていたのだ。つまり、折れた刃は私の皮膚に直接当たっていて。
痺れるような痛みの中、微かに肘までを何かが伝う感覚に背筋が粟立つ。血が出ている、ってそりゃあ確かに言われたけれど、こんなにだらだら流れるなんてこと、あるのか。ぼと、と音を立てて床に落ちたそれが、いくつかの円を作った。野苺みたいな大きさと色、なんて、どうして考えてしまったのか。
だけど、私に与えられる衝撃はそれだけではなかった。
私の腕の具合を見ようと伸ばされた殿下の指先が視界に入った瞬間、私はそのそれが血で濡れているのを見た。「でんか」弱々しい、何かに縋るような声になってしまって、無意識に首を振る。ずっと顔の前に置いていたままの腕が、ようやく言うことを聞いてくれる。
「殿下、血が」
「ん? ああ」
ああ、そうだ、そういえばさっき、折れた刃先がこちら目掛けて飛んできたその瞬間、殿下はそれに向かって何の逡巡もなく、手を伸ばされていた。きっと、それで怪我をしてしまったのだ。
なんてことだ。
顔面蒼白になる私を余所に、殿下は患部を一瞥した後、緩く首を振る。
「これは、怪我のうちに入らない」
怪我ですよ、殿下。言いたかったけれど、次の瞬間にはもう完全に意識が遠のいてしまっていた。自分の怪我がどうこうよりも、殿下に怪我を負わせてしまった事実で、気を保っていられなくなったのだ。それは、貧血とか、別の事情もあったのかもしれないけれど。
完全に視界が暗くなる瞬間、殿下が切っていた肉が真っ二つになっているのを見た。一方でさっきは割れてしまっていた調理板に傷一つなかったのを知って、すごい、殿下、さっきよりも上手く切れたんですね、と思ったけれど、まさかこの状況でそんなことを口にできるはずがなかった。
その後何が起きたかについて、私は人伝に聞いた話でしか知らない。自分のことだって言うのにね。
殿下の怪我という事実に耐えきれず倒れた私は、調理台の角に頭をぶつける寸前で殿下に抱き留められる。その時偶然外を通りかかったのが、金鹿の学級に所属するイグナーツくんだ。イグナーツくんは殿下に頼まれ、マヌエラ先生を探しに行ってくれたらしい。
マヌエラ先生がまだ黒鷲の学級の教室にいてくれたのは幸いだっただろう。すぐさま食堂に飛び込んでくれたマヌエラ先生により、私も殿下も治療され、その日の夕飯はその後戻って来た料理長や先輩たちがどうにかしてくれたとのことだ。本当に、ただでさえ人手不足だっていうのに仕事を増やしてしまったことが申し訳ない。
さらにこの騒ぎに関しては、料理長たちに、殿下が全て説明してくださったらしい。料理長からの言伝で、「怪我をさせてしまい申し訳なかった」と殿下が私に謝罪されたとも聞いた。「俺の怪我を気にしているようだったが、あれはそもそも俺に原因があることだ。少し刃で切っただけだし、あの程度ならば訓練中にも良く負っている。気に病まないでくれ」と仰っていたとも。殿下の怪我が大事ないなら安心だけど、それでもやっぱり、どうしても申し訳なく、苦しくなってしまう。次に大修道院内でお会いしたら、改めて謝罪をさせてもらおう。
私はと言うと、翌日、翌々日と二日間のお休みを頂いた。マヌエラ先生曰く「大事を取って、手を休ませた方が良いわ」とのことらしかった。マヌエラ先生は一度部屋まで様子を見に来てくださったけれど、私の部屋をぐるりと眺めると「……すごく片付いているのね……」と低く呟いてから、私の腕の状態を見るために丸椅子に座った。
「結構深かったから、少し長引くかもしれないわ。今はどう?」
「今は大丈夫です。魔法も使ってもらった上に、お休みまでいただいていますし。うっかり手をついたりすると、流石に痛いですけど」
「そうよねぇ。とりあえず様子見ね。左手だし、料理くらいはできると思うけど、重たいものとかは右手で持つようにしてちょうだいね」
利き手と逆の手で良かったわねえ、としみじみ言われ、確かに、と小さく頷く。これで包丁を持って何かを切って、って言われたら、ちょっと厳しかったかもしれないから。
マヌエラ先生が部屋を出て行った後、改めて自分の左腕を掲げ、そこに浮かぶ傷を見た。あれだけ出血していたって言うのに、そこは呆気なく塞がっていて、今では白い線が皮膚に走っているだけだ。マヌエラ先生の治療のおかげだ。すごいなあ。
それを見上げながら、よかった、って思う。ああ、よかった、こんな風に怪我をしたのが殿下でなくて。腕はちょっと痛いけれど、仕事ができないほどじゃない。もう帰る場所なんかないんだから、私はここで、しっかりやっていかないと。
ふ、と息を吸う。
「……痛い……」
頑張らなくちゃいけないから、だから、本当は魔法を使って貰っていても痛いなんて、とてもじゃないけど言えないな。
伸ばした足の先に、窓掛けの隙間から漏れた光が伸びていた。ガラテアのものは、これよりもっとずっと、白かった。