16 ディミトリ、包丁を折る



 エーデルガルト様にもそうしたように、いつかは殿下にも料理の指導をする日が来るのだろうとはぼんやり思っていた。
 いくら必要なこととは言え、未来のファーガスを背負われるお方に私なんかが料理を教えるなんて、と葛藤しないはずは勿論ない。でも、それが自分の仕事なのだ。エーデルガルト様にも、アネットさんや他の貴族の方相手にもしてきたことなのだから、私は私の職務を全うしなければ。そう覚悟を決めてから約一節が経っていた。
 殿下は竪琴の節も半分を過ぎ、大修道院の食堂での仕事にも随分慣れてきたある日、授業を終えたその足で厨房にやって来た。先輩は買い出しに、料理長はセテス様に呼ばれて執務室に行ったばかりで、丁度私しかいない、穏やかで、静かな時間帯だった。
 却ってそれが良くなかった。もしも今日の料理当番が殿下だと知らされていたら、私は何が何でも先輩に残ってもらっていただろうから。
 金糸のような髪に、希少な宝石みたいに輝く金春色の瞳。がっしりとした体躯は制服に包まれていても尚存在感があって、こうして遮るものの無い状態で向き合ってみると、その気品のある佇まいに圧倒されてしまいそうになる。



「ええと……指導の方、ですね。よろしくお願いします。何分、料理は不慣れなのですが」



 敬語!
 驚いて、思わず目を見開いてしまった。勿論、こんな私に対しても「ガルグ=マクで働いている人間である」または「一応は指導者である」という事実から丁寧に接してくれる生徒さんはたまにいる。だけど、まさか殿下にそういう態度を取られるとは思ってもみなかった。だって、普段食堂でやりとりをするときは――せいぜい挨拶とかお礼とか、その程度のものだけど――彼は私に対して、実に適切な距離感でいてくださっていたから。
 恐らく殿下は、この場においては自分は教わる立場である、ということを考慮して、そういう姿勢でいてくださったのだと思う。料理当番というものをどう捉えるかは人によって違うけれど、殿下の捉え方に関して言えばこれは他の授業と同様で、私は今この時間に限り彼の指導者なのだ。だけどそんなの、ただの村人には荷が重すぎる。
 真っ直ぐな眼差しを受けながらもどうにか首を振った。「あ、あの」と吐き出した声が、情けなく震えていた。細すぎたせいで、多分、殿下には届いていなかったのだろう。殿下は狼狽する私に気がつかず、言葉を重ねていく。



「お恥ずかしながら私は全くの門外漢ですので、何か不手際があったら、注意していただければ」

「で、殿下!」



 殿下のお言葉を遮る形になってしまっただけで、さあっと血の気が引いたけれど、一度口にしてしまったものは仕方ない。ぐ、と両手で拳を握りしめる私は、思いきって殿下の双眸を見つめた。



「殿下、私はただの料理人です。ど、どうか、気安く接していただけないでしょうか。ただでさえ恐れ多いのに、ま、益々緊張してしまいます……」



 殿下の目が、私の言葉を受けて僅かに見開かれるのを見た。その唇から微かな息が漏れるまで、どれくらい時間がかかっただろう。せいぜい木から離れた葉っぱが地面に落ちるまでの僅かなものだったと思うけれど、私にはそれが、まるで永遠のように思えた。
 殿下は私の顔をじっと見て、それから微かに首を傾げられた。



「……確かに、教わるというのにそれほどまでに緊張されていては困るな」



 困ったように下げられた眉尻や、少し掠れた声に、殿下の人柄の良さが滲み出ていて、一気に体温が上昇する。ばくばくと身体の内側から音が響いているのは、先ほどよりもずっと砕けた言葉遣いに、心底安堵したからだろう、きっと。



「なら気楽にさせてもらうが、その代わり、何かあったら遠慮せずに言ってくれ」



 俺を王族だと思わずにな、と。
 私はそれを、殿下なりの気遣いだと思ったのだ。
 まさか本当に、殿下が「何か」をするとは少しも考えていなかった。








「…………」

「……すまない」



 今日の献立は、獣肉の鉄板焼きだった。まずは肉を厚めに切るところから、と材料を準備し、殿下に切ってもらったところ、ほとんど食堂では聞くことのないような大きな音が響いた。包丁が根元から折れ、調理板も肉ごと真っ二つになっていたのだった。



「お、お怪我は」

「ない。ないんだが……。申し訳ない、調理用具を破壊してしまった」

「いえ、それは、古くなってた……のかもしれないですし……?」



 言いながら、だけどそんなことはなかったはず、と考えてしまったせいで、少し語尾が不自然になってしまった。だけど、殿下は首を緩く振る。耐用限度の問題ではなく、これは、自分の紋章の力に因るものなのだと。
 殿下は、これまでファーガス神聖王国を治めてきた歴代の王達同様、ブレーダッドの小紋章を持っていらっしゃる。縁遠い私は全く存じ上げなかったのだけど、その紋章の持ち主は人並み外れた怪力を得るのだと言う。じゃあ全ての紋章にそういう何か特別な力が生じるのかというと、良く分からない。「紋章に関しては判明していないことの方がずっと多い」ってことは、この前ハンネマン先生とリンハルトくんがお話しているのを盗み聞いたときに理解できたから。そういうことを考慮すると、ブレーダッドの紋章は表に力が出やすい分、紋章学の視点からは分かりやすい部類に入るのだろう。



「……すまない。気を付けたんだが……慣れない作業だと、どうしても加減が難しくてな……」

「いえ、お怪我がなくて何よりです。ほら、包丁って、今は根元から折れてくれましたけど、真ん中から折れることもありますから」



 使い物にならなくなった包丁の柄だけを持ち、示しながらそう言えば、殿下は「……確かに」と小さく頷かれる。しかし、本当に怪我をされなくて良かった。アネットさんのときは誰も怪我をしなかったということもあって何とか見逃してもらえたけれど、殿下に何かあったとしたら一大事だ。それに、私に取れる責任なんてたかが知れてる。
 改めて気を引き締めなくては、と自分に発破を掛けたとき、殿下は神妙な顔で「武器と同じ、と考えれば良いのだろうか」と口にされた。「武器」と思わず反芻する私に、殿下は深く頷かれる。



「剣も包丁も大きさは異なるが同じ刃物だ。つまり……剣を扱う感覚で包丁を使えば良いのではないだろうか」

「……一理あると思います」



 私は剣を持ったこともないけれど、言われてみれば確かにそうなのかもしれない。真剣な殿下の眼差しに、私はすっかり飲まれてしまっていた。武器の扱いならば、殿下はお手の物だろう、と考えたのだ。
 調理用具を片付けてある棚から比較的新しい包丁と調理板を準備して、殿下の斜め後ろに立ちその姿を見守る。真剣な眼差しは、獲物を狩る瞬間のように温度が低く、真っ直ぐだ。
 最初に厨房に立たれたときも思ったけれど、本当に絵になる方だ。差し込む西日に、柔らかな髪は光の粒子を纏ったように美しい。形の良い鼻梁に、薄い唇、端正な横顔は、王子様然としていて、うっかりすると見とれてしまいそうになる。
 級長を示す外套は、クロードくんのものよりも随分長く、彼の腰までを覆っていた。彼が包丁を握る腕に力を込めたその瞬間、そこに分かりやすく皺が寄った。その時だった。天井の高い食堂に、ガキッ、と鈍い音がしたのは。
 あ、と思ったときにはもう遅かった。包丁の、今度は根元ではなく刃の先の方が折れて、それが私の顔面目掛けて飛んできていたのだ。
 身を守るために自分がどう動いたのかは、覚えていない。殿下が咄嗟に飛んだ欠片に手を伸ばしたのが、覆った自分の腕の隙間から見えたけれど、殿下の指先に触れたそれは軌道を変えて、私の手の甲側の手首に、それなりの勢いを持って当たった。


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