15 紋章のない調理師は夢を見る



 紋章なんて、生まれながらにそれを持たない平民の私の生涯には一切関わりがないものだろうと思っていたけれど、ガルグ=マクの食堂で働いてみると、その考えは捨てなければいけないみたいだということが分かる。
 噂に聞いたところによると、今年の士官学校には三人の級長を筆頭に、紋章を持つ生徒が大勢いるらしいのだ。でも、人数でいうなら、別に今年が特別っていう話ではないらしい。流石貴族子弟の多く通う士官学校である。
 身分にかかわらず、紋章を持つ人はそれだけで持て囃される。平民であっても、紋章を持って生まれさえすれば貴族に養子にしてもらえたり、婚姻関係を結んでもらえたりするんだって。私の村にも数十年前に一人だけ紋章を持った女の子が産まれたらしいけれど、乳児のうちにさる貴族のおうちに引き取られたんだとか。すごいなあ、って思うけど、でも、もし自分の子供に紋章が出てしまったら、ちょっと、というか、物凄く嫌だし、困る。だって、いきなり引き離されちゃうってことでしょう? 例え貴族の後ろ盾を得て、どれだけ生活が楽になっても、好きな人との間にできた子供を記号や道具みたいに扱われてしまうことを、私はきっと受け入れられないと思うのだ。



はそんなことまで考えてるの?」

「うん、我ながら考えすぎとは思うんだけど」

「そうだね、考えすぎだな」



 私は地面を覆い隠す柔らかな、湿った落葉の上に座っていた。背の高い木々に周囲を囲まれたせいで、首を持ち上げても空がしっかりと見えない。耳を澄ませば冬眠前の獣の息遣いさえも届きそうな、仄暗い杉林の中だった。
 野苺を籠に集めながら、私は白い空を見上げている。早く集めなくちゃ。皆が帰ってくる前に、薪も拾っておかないといけないし。
 あれ? でも、私はガルグ=マクにいたんじゃなかったっけ。
 その時自分のものではない声が耳に届いた。「でも」と。そういえば私はずっと、さっきから、誰かと話をしていたのだ。



「僕も、もし産まれた子供に紋章が出たら、嬉しいよりも悲しい」



 顔を上げた先に居たのが誰かを認識するよりも先に、私は「夢だ」と気がついた。
 だってこんなの、もうありえないから。








 酷く懐かしい声が、寝台の中で目を覚ました今も、じんわり響いている。熱を持ったまま耳の奥に張り付いて、なかなか剥がれないみたいに。
 私はまんじりともせず、天井を見つめていた。人は声から忘れていくと聞いた事があるけれど、昔からずっと一緒にいた人のそれは、半年やそこらでは拭いきれないらしい。
 こんな夢を見たのは、昨晩、ハンネマン先生が学生さんに熱心な指導をしているのを聞いていたせいだと思う。
 夕食後、何か質問があったのだろう。深い緑の髪をした綺麗な顔をした学生さん――多分、黒鷲の学級の人だ――が、書物片手にハンネマン先生を呼び止めた。ハンネマン先生は紋章学の権威と呼ばれているくらい有名な先生だそうで、彼の元を訪れる生徒さんは後を絶たないみたいだけど、彼はその全てに熱意を持って対応していた。素晴らしい先生なのだ。
 彼らは食堂の席を使ってやりとりをしていた。紋章学の、基礎の基礎の基礎、くらいだったら、聞こえてくる彼らの会話の断片を繋げて、私も紋章学について分かったような気になれたのかもしれないけれど、その学生さんは非常に優秀な人らしく、呪文を詠唱するみたいな早口で互いに専門的な用語を含めた言葉を重ねていくものだから、全く理解が及ばない。机を拭いたり、明日の仕込みの準備をしたりしながらだったせい、と言うわけでは、当然ながらない。地頭と、そもそもの知識量の欠如が問題なのだ。
 日付の変わる直前まで議論に没頭する二人に声をかけるのは躊躇われたけれど、流石に翌日に支障が出てしまいかねなかったから「あの、そろそろ灯りを消しても良いでしょうか……」と声をかけたら、二人同時にこちらを向くものだから、息が止まりかけた。先に口を開いたのは、ハンネマン先生の方だ。



「……ああ、すまない。そういえばここは食堂だったな。ふむ、ではリンハルト君、続きはまた明日以降に」



 リンハルト君、と呼ばれた生徒さんは、「あれ、本当だ。こんなに時間が経ってるなんて気がつかなかったな……」とぼやきながら、ハンネマン先生にきちんとお礼と挨拶をする。それから、じ、と私の顔を見つめて「どうも」とだけ言うと、緩慢な動作で立ち上がり、食堂を出て行ってしまった。座っているときは気がつかなかったけれど、制服に包まれたその身体は、思った以上に長身だった。
 その背を見送る私に声をかけてくれたのは、残されたハンネマン先生だ。



「君も、すまなかったね。次からはもっと早く声をかけてくれたまえ」



 気難しそうな先生だと思っていたけれど、片眼鏡の奥の双眸は、遠くから見るよりもずっと穏やかで、優しかった。








 紋章についての難しい話はいつまでも耳にくっついていて、だから、こんな風に夢にまで出てきてしまったのだ。
 寝台から身体を起こし、寝間着の釦を外していく。最近は夜が短くなって、早朝でも窓掛けの隙間から白っぽい光が差し込んでいる。
 別に、夢で見たように、将来を約束していた彼と「もし自分たちの子供に紋章が発現したら」なんて会話をした覚えはないのだ。あれはあの人の欠片を繋ぎ合わせて作った、私の空想の産物に過ぎない。過ぎないのに、どうして胸がざわざわするんだろう。
 敷布の波に指を置いた。自分の体温が残ったそれに触れても、何も感じなかった。








 食堂で欠伸を噛み殺していると、「寝不足か?」と声をかけられた。目の前に来られるまで気がつかなかったけれど、朝食を受け取る列に、クロードくんは並んでいたらしい。わ、と思って目を見開いてしまうけど、わ、ってなんだろうか。スープをよそいながら「そうかもしれません」と愛想笑いを浮かべる。寝不足というよりもどちらかと言えば夢見が悪かったんだけど、彼にわざわざ説明するのもおかしな話だ。
 だけどクロードくんは、そんな私を見てちょっとだけ眉を顰めたのだ。



「忙しいだろうけど、あんまり無理はするなよ」



 って。まるで、親しい人に向ける言葉みたいに。
 思わず彼の顔を見つめた。クロードくんは、私が何を思ってそうしているかまでは察していないんだろう。「それと、この前の、美味かったよ」と続けてくれるから、本当に、返す言葉に困ってしまう。この前の、って、あの焼菓子で間違いない。



「思ったより甘くないんだな。食べやすかった。中に入ってた木の実も気に入ったよ」

「お、おそまつさまです……」



 他の生徒さんたちが近くにいる以上、感情のままにはしゃぐのもどうかと思って、溢れそうになる喜びをぐ、と飲み込んで、何とかそう返す。
 砂糖、少なめにしてよかった。木の実、買ってきて良かった。リーガンのあたりで採れるものだって聞いた割に、クロードくん自身は馴染みがなさそうな反応だったけど。それでも、気に入ってくれたならすごく嬉しい。
 クロードくんは、後ろに並んでいた同じ学級の学生さんに「おい、クロード。一体何の話だ?」と聞かれていたけれど、適当に誤魔化して、そのまま朝食の盆を受け取って空いている席の方へ歩いて行く。その姿を見ていると、今朝感じていた言いようもないざわめきが、少しだけ軽くなるような気がした。


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