13 クロードと乾酪



 アネットが鍋を爆発させた日、厨房の片付けと、それからその日の夕食の手伝いまでやった俺に対して、「お礼ができていない」と今でもさんは言うが、実を言うと対価はもうもらっている。わざわざ否定するのもなんだし、勘違いしているさんに関してはそのまま放っておいているけどな。
 あの日俺は、食堂から 乾酪 チーズ をくすねていた。
 大急ぎで夕食を作らなければならなくなった料理長に頼まれて、肉を食料保管庫から持って来たとき、保管庫の奥の方にあったそれをしれっと懐にしまい込んだのだ。……まあ、こっそり持って行った時点で正当な報酬にはなり得ないだろう。でも、乾酪はそれなりの量が常備されてたし、貰ったのは懐に入れられる程度、ほんの手の平大の欠片だ。グラタンだのミートパイだの、乾酪はあれから何度か食事に使われているのも確認しているし、節を一つ跨いでも問題になってないってことは、あれっぽっち、あってもなくても変わらない、ってことだろ? 何の問題もないさ。
 長期保存させるためのそれは乾燥してどことなく塩っぽいが、なかなか良い味をしていた。一人で食べきるのも勿体なくて、対抗戦の勝利の祝いに、こっそり先生に振る舞ったくらいだ。



「手料理を振る舞ってやる、と聞いたが」



 対抗戦を終えてガルグ=マクに戻った夜、いつも以上に騒々しい食堂で、先生は眉一つ動かさず、皿に乗せられた乾酪を見つめていた。薄く切ったそれは食事の一品というよりはだらしなく皿にくっついてはいるが、どっからどう見たって革新的な盛り付けだ。まさか、先生はこれが気にくわないってのか?



「いやいや先生。元は塊だったのを俺が手ずから切ったんだ。充分手料理に入るだろ」



 大仰に肩を竦めて見せても、先生はくすりとも笑わない。まあ、この人が笑っているところなんて今までただの一度も見たことはないから、こんなことじゃ笑っちゃくれないか。
 俺だって、正直これが「料理」とは思ってない。無表情で乾酪を咀嚼している先生に対しても、対抗戦の勝利の祝いに手料理を振る舞う、とは確かに口にしたが、そもそも、これは食堂から勝手に持って来ちまったもんだ。こんなものを使って厨房で料理なんかしたら、それこそあの妙に勘の良い料理長に詰問されかねないだろう。「クロード。これはどこから?」なんてな。さん一人だったら、簡単に丸め込まれてくれそうではあるが。とは言え祝勝会自体、他の学級も巻き込んでの宴みたいになってしまっている今、そうでなくともただでさえ忙しそうにしている彼女たちに向かって、厨房を貸してくれ、なんて流石の俺でも頼めない。
 先生は案外大食らいらしい。皿の上の乾酪を一人でさっさと食べ終えると「美味かった」と何の感慨もないような声で呟いた。おいおい、俺の分は残してくれてないのかよ、とは思ったが、食堂の人に勘づかれる前で良かった。あとは、声のでかいラファエルに見つからなかったのも幸運だったな。



「お姉さーん」



 その時、不意に喧噪の合間を縫うように、その声が耳に引っかかった。
 「はぁい」と、何となく間延びした声の主がそれに答える。目だけこっそりそちらに向ければ、さんの姿が視界の端に映り込んだ。
 普段は調理師として料理当番の生徒の指導をすることが主な仕事である彼女も、今日は給仕係のような真似事をしているらしい。空いた皿を片付けたり、水差しを取り替えたりと慌ただしく食堂内を走り回る姿を見ていると、気安く声をかけることもできそうにない。まあ、わざわざ呼び止めてまで話すような用事もないわけだが。せいぜい「対抗戦、勝ってきたぜ」か? そんなこと、いちいち俺に報告されるまでもないよな。
 第一、今回こうしてエーデルガルトやディミトリを圧倒することができたのは、俺の力じゃなく、先生による采配がでかい。流石伝説の騎士団長の息子。長く傭兵をしていただけある。先生は、全体を俯瞰しているかのような指揮を執るのだ。まだ俺達の担任になってから数日しか経ってないっていうのに、個々への指示も的確だった。おかげで随分楽ができるってもんだ。
 レオニーに声をかけられて、料理を分けてもらっている先生の顔をまじまじと見つめる。ほとんど動かない表情に、抑揚のない声。感情がちっとも読めないのが少し面倒だが、それでもあんたが、エーデルガルトでもディミトリでもなく、俺を選んでくれてよかった。そう思ってるんだぜ。口には出せないけどさ。








 さんに呼び止められたのは、竪琴の節に入って何日か経ってからだった。
 彼女は食堂の隅に俺を呼ぶと、辺りをきょろきょろと見回してから「これどうぞ」と俺に小さな包み紙を持たせる。飾り気のないそれは、手渡されてみると随分軽い。



「これは?」

「遅くなりましたが、お礼です。とりあえず、借りの一つめ」

「ほー」



 どうやら焼菓子の類らしい。一つめ、と言うと、鍋を爆発させたアネットの尻拭いをした件について、と考えるのが妥当か。甘い物はさほど好んで食べはしないが、ここで拒むほど俺も野暮な男じゃない。礼を言おうと口を開きかけたとき、しかし、さんは「あの、嬉しかったんです」と、目も合わせずに口走ったから、思わず首を傾げた。



「その……あのとき、先輩から庇ってもらえて」



 だから、そのお礼です、と。
 忘れていたわけではない。
 確か、あの日俺は偶々食堂の前を通りかかって、それでどこからともなく漂う、焦げたような異臭に気がついたのだ。「まさか爆発するなんてなあ」と騎士が話していたのを聞いて、こっそり食堂を覗いてみた。項垂れるアネットの姿を厨房に見つけたときは、ははあ、成る程と思ったが、それで指導者の女性が叱られるっていうのも可哀想な話だった。
 ただ、ああやって声をかけたのは別に、庇ってやろうとか助けてやろうと思ったわけではないのだ。単なる気まぐれだ。食堂の外に連れて行かれたその横顔が、青白くて、とても見れたものではなかったから。



「あのときはありがとうございました」



 身体の前で揃えられたその指先は荒れて、ささくれだっていた。苦労を知る平民の手だ。どことなく幼い面立ちからしても、俺たち生徒と同い年くらいだろうにな、と考える。彼女はこうして若い時分から、朝から晩まで働いて、俺達のために飯を作っている。
 彼女の丸い瞳が、何も答えない俺を不思議そうに見つめているのに気がついて、曖昧に微笑んだ。何か考えるよりも先に「有り難く頂くよ」と包みを軽く持ち上げてそう言えば、さんは、そろりと目を逸らして、小さく頷いた。


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