10 ブルゼンを焼くアッシュ



 温室でアルビネベリーの実が大量に生ったというから、今日は備蓄していたノアの実と一緒に、ファーガスの伝統料理であるブルゼンを焼くことにした。
 ちなみに、アルビネというのはフォドラの北西にある大地のことだ。ファーガスよりもずっと寒く、人が住むには適さない寒冷地で、その代わりに貴重な植物が多く群生する。このアルビネベリーというのは低木にできるものらしいけれど、あの暑い温室でこのアルビネベリーが採取できるのは魔法による管理が成されているおかげなんだとか。



「本当にすごいですよね。ファーガスでも見られない植物がたくさんあって」



 卵と砂糖を生地に練り込みながら、そう教えてくれたのは料理当番の男子生徒さんだった。私よりも若いのに、なんて知識が豊富なんだろう。感心する私に、彼は「教えてもらったんですよ」と苦笑した。
 本日の料理当番である青獅子の学級に所属するアッシュくんは、元々料理にも慣れ親しんでいるらしい。アネットさんのことを思い出すと全く警戒しないわけでもなかったけれど、「小さい頃から父の店を手伝っていて」との言葉通り、アッシュくんの手際は私以上に良かった。



「お父様がお店をやられていたんですか?」



 父の店、という言葉が、何だかこの士官学校では特異に響いたのだ。
 それで、ちょっと迷ったけれど、石窯の前でブルゼンの焼き上がりを待つアッシュくんに尋ねてしまった。まだ少年らしさの残る丸い瞳が何のてらいもなくこちらを見るから、思わずどきりとする。
 確かアッシュくんは、王国西部にあるガスパール城の領主と関係がある人物だったはずだ。ええと、確か領主様の名前は、ロナート卿、と言ったかな。ガラテアとは距離があるせいで、すっと名前が出てこないことがもどかしい。私の不勉強によるものが原因ではあるのだけど。



「確か、アッシュくんはガスパールの」

「はい。僕はロナート様の養子で。さっきの植物の知識もロナート様に教えてもらったんですよ」

「ああ、そうだったんですね」

「はい。僕、元は平民なんです」

「平民」



 ロナート卿に教わった、という話が微笑ましくて、少し羨ましく思いながらも聞いていたところだったから、彼の突然の発言にはつい驚いてしまった。アッシュくんの言葉をそのまま繰り返してしまったくらいには。だけどアッシュくんは特に気にしていない様子で、「だからこういった料理には慣れているんですよ」と微笑んでくれる。そこに何か含まれているものなんか、一つもなかった。例えば自身の生い立ちに関する、何らかの感情とか。
 彼自身が、わざとそういう風に見せているのかもしれなかったけれど。



さんも、ファーガスの人なんでしたよね?」

「えっ。……よくご存知ですね」

「シルヴァンが話していたのを聞いた事があって。西側ですか? それとも東?」

「ああ、シルヴァンさんが……。ええと、私は、ガラテアなんです」

「ああ、イングリットの」



 彼の口から出る学友の名前には、どれも敬称がついてはいなかった。それについて何か顔に出したつもりはなかったけれど、アッシュくんは一拍置いてから、「正直、まだ慣れてないんですけどね」と口にする。何に、とは、だけど彼は言わなかった。
 なんと答えたら良いのか分からず、曖昧に笑みを浮かべた私を置いて、アッシュくんはそっと目を落とす。そばかすの浮いた、微かに雪に焼けた頬は、村にいた少年のそれに似ていた。彼につられて視線を落とせば、椅子に座った彼の膝の上で、拳が緩く握られていた。その手の甲には、良く見なければそうと分からないくらいに薄らとした傷がある。何か見てはいけないものを見てしまったように思えて、慌てて視線を逸らした。
 その瞬間、アッシュくんはほとんど独りごちるように呟く。「不思議だな」と。



「何か一つでも違っていたら、僕はこんなところにいなかったのに」



 女神への懺悔などではない。
 どちらかと言えば、その境遇に感謝しているような、柔らかな声音だった。
 ああ、いいな、と思ったのだ、どうしてかは分からないけれど、羨ましいと。もし私も「何か一つでも違っていたら」、私は。私はどうしていたのだろう。
 芳醇な香りを運ぶ石窯の下では、薪がぱちぱちと音を立てながら燃えている。その火の揺らぎは、アッシュくんの頬に穏やかな影を浮かび上がらせている。大樹の節の、穏やかに時間が流れる午後。士官学校の全ての授業が終わった今、食堂の外では生徒たちの笑い声が響いていて、私が吐き出した細いだけの息は、そのざわめきに紛れて消えていった。


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