09 マヌエラ先生と夜を歩く



 クロードくんたち三人の窮地を救ったという傭兵の親子は、そのままガルグ=マクに留まることが決まったらしい。
 アロイスさんから聞いたところによると、何でもお父さんであるジェラルトさんは、かつてセイロス騎士団で団長を務めていた方なんだとか。高齢の現団長に代わって、彼が二十年の時を経てその立場に再び収まるというのは、ある意味自然の流れだったのかもしれない。後任となるだけの人が長くいなかったのなら、尚更。
 食堂の真ん中で「あれはまさに運命的な再会だった」と水を片手に語るアロイスさんは、その声の大きさも相まって、酷く注目されていた。皆その夜のことについては詳しく知りたかったしね。勿論それは、私も含めての話なんだけれど。
 一方で彼の息子であるベレトという男性は、生徒たちを置いて逃げた先生の代わりを任されることになった。元々今回の野営訓練の後に各学級の担任が決まるというのが通例だったそうで、抜けた穴――というのが正しい表現なのかは分からないけれど――を埋めるのに、彼は丁度良い存在ではあったのだろう。
 食堂を訪れる人々の口に、彼の名は必ず上がった。特に生徒たちからしたら、彼が興味を惹かれる対象だったのは間違いない。元傭兵としてフォドラを転々としながら、賊を追い払えるほどの剣の腕を持っていて、アロイスさんの絶大な信頼を持つ伝説の騎士団長の息子。抑揚のない声音や、あまり動かない表情筋。どこか浮世離れしたように見えるその風貌のおかげもあったのか、生徒たちの口から彼の名前を聞かない日は無かった。
 とても美しい人だったから。
 切れ長の瞳に、形の良い鼻梁。薄い唇が弧を描くことは、ほとんどない。年の頃は厳密にはわからないけれど、私とさして変わらないくらいだと思う。ということは、生徒たちより一つ二つ上、くらいだろうか。勿論生徒の年齢もばらけているから、全員とそれくらいの差がある、ってことではないけれど。それにしたって、教師となるには若すぎる。けれどそれについて異を唱える人はいなかった。教師ではなく、騎士団に所属することになるのだと思っていたと、そう驚く生徒は大勢いたけれど。
 ベレト先生は、そして今年のガルグ=マク士官学校の教師になったのだ。
 クロードくんが級長を努める、金鹿の学級の担任に。








 ベレト先生が金鹿の学級の担任になってから、数日が経った頃だった。食堂から寮へ戻るために玄関ホールへと続く扉を出た瞬間、「あら、こんばんは。寮に帰るところ?」と、階段を上って来たマヌエラ先生に声をかけられたのは。



「あたくしも戻るところなの。良かったら一緒に歩きましょう?」

「わ、はい、ぜひ」



 帝都のミッテルフランク歌劇団で人気を博した歌姫だ。流石に二人きりとなると緊張してしまって、そう返事をしながらも自分の声が上擦ってしまったことに羞恥を覚える。だけど、マヌエラ先生は全然気にしていないみたいに、足取り軽く、人気の無い石作りの床を歩いた。蝋燭の心許ない灯りの中、その足取りはまるで踊っているみたいに見えたけれど、一度がくりとその足をもつれさせたことで思い出してしまう。そうだ、マヌエラ先生、夕方頃にセイロス騎士団の騎士様と食事に行くって言ってたっけ。そこから計算すると、丁度食事から帰ってきたところだったのだろう。



「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。……あたくしなんて、例えどれだけ荒廃した世界でも一人で生きていけそう、なんだから……」



 お酒の匂いのする息で、僅かに声を震わせながらマヌエラ先生は言う。妙に具体的で、かつ怨念の籠もった台詞だ。過去に舞台で放ったもの、というよりは、誰かに向けられた生々しさのようなものを感じさせた。もしかしたら、つい先ほど、誰かに言われた言葉だったのかもしれない。なんと相槌を打ったら良いのか分からず、「んん……」と小さく咳払いをする。気の利いた慰めの言葉を吐き出せない私を、だけどマヌエラ先生は責めたりしなかった。
 玄関ホールから外に出ると、もう辺りはすっかり真っ暗だった。剪定された庭木の影は濃く足元に落ちていて、葉擦れの音を聞きながら腕を摩る。大樹の節がもうすぐ終わろうとしているとは言っても、夜になればそれなりに冷えた。



「あなたが来てから、もうすぐ一節ねえ」



 しみじみとした口調で言われて、ぱっと顔を上げた。生徒でも教員でもない、ただの調理師の私のことを、そんな風に意識の隅に置いてもらえているとはちっとも思っていなかったから。



「確かあなたって、料理当番の生徒たちの指導もしてたでしょ? ……大変じゃない?」

「いえ、楽しいですよ。皆さんとても良い子たちで」

「そう? 気難しかったり、変わってる子もいるから、ちょっと心配なのよ。何か問題が起きたらあたくしに言ってね? うちの学級の生徒じゃなくても。まあ……多分、あたくしの受け持つ黒鷲の学級の子たちが一番大変じゃないかしら……とは思うのだけど……」



 相談だったらいくらでも乗るわ、と。お酒が入っているせいで、その目線は少しふわふわとしていたけれど、それでもマヌエラ先生の声音ははっきりしていた。まるで主に祝福されたみたいに。
 気遣ってもらっているんだ、そう気がついたとき、空気に触れていた部分の肌が、ひりひりというよりは、じんと熱を持って痛んだ。だから、「あ、ありがとうございます」と、口にした言葉が、素っ気なく響いていないか心配だった。ここ最近、修道院に来てからの自分の感情が、正しく表に出ていない、そういう自覚は、薄々だけど確かにあったから。
 だけどその時同時に、私はマヌエラ先生に、彼女の同僚となったベレト先生のことを聞きたいな、と思った。金鹿の学級を受け持つことになった、彼のことを。例えば、学級の担任ってどうやって決めるものなんですか、とかそういう質問から踏み入って、ベレト先生ってどんな方なんですか、と持って行く、みたいに。
 だけど、結局私が何か問いかけるよりも先に、私たちは寮に着いてしまう。騎士団の詰所の手前にある道を入ればすぐなのだから、仕方ないのだけど。



「そういえばセンセイって、生徒と同じ寮で寝泊まりしてるのよ、教員の寮があいてなくて」



 ただ、もし別れ際にマヌエラ先生が口にした「センセイ」がベレト先生のことだとすぐに脳内で繋げることができていたら、もしかしたら、何か一つくらい尋ねることができたのかもしれなかった。今更だけどね。
 おやすみなさい、と言われて慌てて頭を下げる。マヌエラ先生と別れてから、こっそり深く空気を吸って、吐いても、どうしてか落ち着かない。
 でも、どうして私はこんなにベレト先生のことを気にしてしまうんだろう。脳裏にこびりついているのは、あの横顔を見つめていた翡翠の目だ。自室の扉に手をかけながら、小さくため息を吐く。私が気にしているのは、ベレト先生ではなく、クロードくんの方じゃないだろうか。でも、だとしたらどうして。
 私と彼らの間には、目には見えない空洞が横たわっているけれど、私はそれに触れて、正体を確かめる気が無いのだ。今はまだ。


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