07 釣り池とアロイスの魔法
休憩中に釣り池の前を通りかかったら、うんうん唸っている、見覚えのある後ろ姿があった。
「どうかしましたか? アロイスさん」
騎士の鎧を常に纏ったその人は、大柄な身体をこちらに向ける。丸く、人好きのする穏やかな瞳が一度瞬いて、「おお、殿」と鷹揚な声で私を呼んだ。
アロイスさんは私よりもずっと年上で、長く――それこそ二十年くらい――セイロス騎士団に仕えている騎士様だ。殿、なんて敬称をつけられるのには未だに慣れないけれど、どうもアロイスさんを見ていると、学生とそうでない者とで呼び分けているらしい。だったら、修道院内の食堂で働く私がそういう風に呼ばれるのは仕方ないことなのだろう。むず痒いけれど。
アロイスさんの手元に目線を落とすと、彼の周囲には釣りの道具が散らばっていた。私の目線に気がついたのか、アロイスさんは照れくさそうに笑う。
「いやぁ、釣り糸が絡まってしまってな」
「釣りですか。アロイスさんもするんですね」
「というと、殿も?」
「あ、いえ、私は全然。食堂から、生徒さんがたまにやってらっしゃるなあって見てたので。私は、海が近くにありませんでしたから、釣りの方法も良くわかってないんです」
「ああ、確かにガラテアは内陸だからなあ」
得心がいったというように、アロイスさんは軽く頷いた。それから「この機会に私が釣りを教えられれば良いのだが……一匹も釣り上げたことのない男が釣りの極意など教えることはできないしな!」と続けられて、つい笑ってしまう。一匹もなんて、まさか、って思ったけれど、ぐちゃぐちゃに絡まった釣り糸をとうとう放棄してしまったその横顔には、妙な説得力があった。傍にあった魚籠がほとんど新品同然であったようにも見えたのも、その言葉に真実味を帯びさせてしまって。
堪えきれなくて、つい小さく笑ってしまうと、アロイスさんにじっと見つめられていることに気がついて、慌てて姿勢を正した。流石に正面から笑うなんて失礼だった、だけど私が謝る前に、彼はその眉尻を下げたのだった。
「いやあ、しかし殿もすっかり顔色が良くなったな」
「えっ? 顔色……ですか?」
思わず聞き返してしまったのは、そもそも自分の顔色が悪かったという自覚がなかったためだ。「良くなった……でしょうか」だけど、アロイスさんは私の驚きに気付く素振りも見せず、頷き返す。
「ああ。ここに来たばかりの頃の貴殿を思えばな。……ガルグ=マクの空気が合っているならば、私としても嬉しいぞ」
アロイスさんの身体の奥、湖面に光が反射して、きらきらと瞬いている。それを眺めていると、知らず知らずのうちに強張っていた神経が解けていくような感覚になった。するとこれまでの私は、アロイスさんの言う通り、本当に酷い顔色をしていたということなのだろうか。キアラおばさんのお友達の旦那さんであるアロイスさんに、ガルグ=マクでの調理師として働かせてもらえるよう斡旋してもらってから、今に至るまで。
振り返って見ると、あの寒い国を出てきてからまだ一節も過ぎていないだなんて、何だか信じられない。ガルグ=マクに来てからは全てが目まぐるしくて、仕事を覚えることだけで精一杯だった。
朝は早く、昼食時はまるで戦争でも起きているみたいに忙しい。雑務を片付けつつ休憩を挟んだら、料理当番の学生さんに指導をして、夜は掃除と片付けを済ませる。そして宛がってもらった寮――騎士の方々が使っている寮の一室を貸して頂いているのだ――に帰る頃には、天上に星が瞬いている。
本当に、一日が終わるとくたくたで、こんなんじゃあそりゃあ人も居着かないはずだって思うのに、今のところ、私はこの生活がちっとも苦ではないのだ。食堂の先輩たちだけでなく、色んな学生さんや騎士様、信徒の方と顔を合わせて、市場には見たこともない食材が並んでいて、風はぬるく頬を撫でる。一般の人が青海の節でなければ入ることを許されない大聖堂でお祈りすることもできて、温室で作る作物は痩せていない。ここには、あちこちに色が落ちている。それらの色は、停滞する私の心に沈殿した澱のようなものを少しずつ溶かしてくれる。
その時不意に、ちかりと視界の端に何かが瞬いたような感覚があった。太陽の光の反射だと脳は認識しているはずなのに、そこに私は、外套の黄色を見てしまう。クロードくん、とうっかり呼んでしまった私を受け入れるみたいに、「ん」と笑ってくれた男の子。その存在を認めた瞬間、途端に息がしやすくなったのだ。
「…………あ」
何だか不意に顔が痛くなって、思わず両手で頬を挟み込んだ。「合ってるんですかね……? 空気……」そんなの聞かれたって、アロイスさんは困ってしまうだろうに。
だけど、アロイスさんは力強く頷いた。「ああ! 合っている!」って。それがなんだか、世界中のどんな呪文よりも強い魔法のように思えて、本当はうっかり、泣いてしまいそうになったのだ。
今の私が元気そうに見えるのなら、それはアロイスさんの言う通り、ガルグ=マクが自分を受け入れてくれているからに違いない。念じるように、祈るみたいに、そう思う。
士官学校の生徒さんたちは明日、野営訓練のため、ガルグ=マク近くのルミール村付近にある森まで向かうらしい。騎士団と、この訓練の後に各学級の担任になる予定だと言う教師を三人伴って。
森の中に天幕を張って一夜を明かし、皆で飯盒炊爨もするんだって。そのための材料は、今回は食堂が提供する。有毒植物の見分け方とかも学んでいる卒業前までくると食料も現地調達させるみたいなんだけど、前節までは普通の貴族、或いは平民だった彼らにはそれはまだ荷が重いのだろう。
料理長から各学級の代表に食料を渡すよう命じられていた私は、人数分の食料を受け取りに来たクロードくんと顔を合わせることになったのだけど、何だか彼の顔が上手く見ることができなくて、困った。
「あの、いってらっしゃい。気を付けてくださいね」
先に食料を取りに来ていたエーデルガルト様や殿下に伝えたのと同じ言葉を言っただけなのに、どうしてこんなに、心臓がうるさいんだろう。
クロードくんは私の顔をまじまじと見つめて、それから小さく首を傾げ、「ああ、行ってくるよ」と笑った。クロードくんの細められた瞳が、私はもしかしたら、好きなのかもしれなかった。