06 クロードにつかまる



 この修道院に関わる人間は、大抵、一日三回は食堂を訪れる。勿論、大司教でいらっしゃるレア様みたいな方は別だし、城郭都市まで食事に出る人も少なくはないけれどね。士官学校の生徒さんたちも、最近は街へと出かけて食事を済ませてくる人も目立ち始めた。ここでの生活に慣れてきたのだろう。「羽目を外さなければ良いのだが」セテス様は、苦虫を噛み潰すような顔で彼らを見送っている。
 そんな中、エーデルガルト様は自分の食事を終えると必ず、新しい食事の入った盆を持って食堂を出て行った。二人分の食事を摂るわけでは勿論ない。先輩に聞いたところ、なんでも黒鷲の学級にはなかなか寮の部屋から出てこない学生さんがいるらしい。級長であるエーデルガルト様は、そのご学友のために毎日食事を届けているんだとか。



「お忙しいでしょうに、ほんと、ご立派よね」



 深く頷きながら、先輩は言う。
 部屋に引き籠もりがちの級友がいらっしゃるのは稀であるとしても、級長というのは他の学生とは比べものにならないほど忙しく、責任が伴うものである。雑務も多ければ、学級のまとめ役にもならなければいけない。いくら同郷の者であっても、貴族と平民とが同じ教室で生活し、学ぶ以上、大なり小なり、軋轢や問題があるのは間違いないだろう。担任となる教師がまだきちんと決まっていないというなら、尚更。
 あの人も大変なのかな。やっぱり。
 そんなことを思ったら、脳の端っこあたりに、ちり、と痛みとも熱ともつかない何かが走った気がした。他の二学級と比較しても平民が多いらしい金鹿の学級長を務める彼は、それでもいつも私の視界の端のあたりで、悠然と微笑んでいる。








 温室で育てている作物を採りに来てほしいと管理人さんに頼まれて、休憩時間に温室を訪れたものの、管理人さんの姿はそこになかった。熱気の籠もった室内は、濃い草いきれの匂いがして、立ち入るのにほんの少し躊躇してしまう。純粋な植物の領域であるように思えたのだ。
 ここでは野菜は勿論、ファーガスでは滅多に見かけないような貴重な薬草や花が植えられていて、専門家も唸らせるほどらしい。珍しい作物もあると聞いていたから興味を惹かれたけれど、今は見学をしにきたわけではない。果実を実らせた背の高い樹木に向けていた目線を、そっと落とす。その先に、偶然それらしき袋を発見した、丁度その瞬間だった。



「野菜だったら、そこにあるぜ」



 入り口からは死角になっている奥の方から声をかけられたせいで、悲鳴をあげて飛び跳ねてしまった。完全に気を抜いていた。だって、人の気配なんかちっともしなかったから。



「おいおい、そんなに驚くか? 普通」

「く、クロ」

「だいぶ飛んでたぞ。調理師にしておくには惜しい脚力だな」



 クロード=フォン=リーガン。
 巨大な植物の影から現われたその人は、眉尻を下げて悪戯っぽく笑っている。急に声をかけられたせいなのは間違いないけれど、心臓がばくばくと音を立てて、簡単には収まりそうもない。
 彼は肩口の、級長を表すその黄色い外套を払うと、「今日は水やり当番だったんだ。そんで、急用ができたここの管理人さんから、あんたへの言伝も頼まれてたってわけ」と口にする。その蕩々とした声を聞いていると、大仰に驚いてしまった自分が恥ずかしく思えてくる。



「そこにあるだろ、野菜。全部持って行ってもらいたいって言ってたが……丁度当番も終わったし、手伝うよ」

「えっ」

「一人じゃ運びきれないだろ? なに、遠慮しなくていい。恩を売って歩くのは、趣味みたいなもんなんだ」

「…………あ、ありがたいですけど、そんなに恩を売られても、お返しできないです」



 前回手伝って貰ったときのお礼も、まだちゃんとはできてないし。
 そう続ける私に、彼は声をあげて笑う。「俺の生まれたところじゃ、買わされた恩は来世でも返して良いことになってるんだよ」って。来世って、どういうことだろう。それはつまり、女神様の思し召し、ってこと? 良く分からないけど、彼の生まれた場所――つまり、リーガンのことだろう、同盟領の――には、なかなか独特な教えがあるみたいだ。



「だからまあ、遠慮しないでくれよ」



 そう言い切ると、彼は私の返事を待たずに袋に入れられた根菜類を抱え、先に温室を出て行ってしまった。何も、全部持たなくたっていいのに。慌てて追いかけて、「クロード様、あの、半分ください、持ちます」と呼びかけると、彼は一度足を止めて、「はぁ?」と短く口にして、振り向いた。私は彼がどうしてそんな声を出したのかが見当も付かなくて、一緒に足を止めてしまう。
 大樹の節の、穏やかな風が頬を撫でた。薄く膜を張ったような雲が空を覆って、どこかに光があるようなのに、その光源がどこにあるのかをきちんと判別することはできないような、ぼやぼやした空模様だった。
 もしかして、半分持つ、っていうのがだめだったのかな。もっと持つって言うべきだった? 七割くらいとか? でも、そんなの変だよね? 混乱して、言葉に詰まってしまう私に、だけど彼は声をあげて笑った。何か、どうしようもなく困ったことが起きたけれど、笑い飛ばすしかない、そんな笑い方だった。
 私を置いていった人のそれに似ていた。



「いやいや、俺なんかどう見たって、様、なんて柄じゃないだろ」



 だから、最初、彼が何を言っているのかをすぐには理解できなかったのだ。
 私は目を丸くして、ただ彼を見つめ返す。



「……で、でも、あなたはレスター諸侯同盟の」

「エーデルガルトやディミトリはそれでも良いだろうけどな。俺をそんな風に呼ぶやつ、ガルグ=マクにはいないさ」

「え」

「もっと気安く呼んでくれよ。お互い、これから一年一緒なんだ」



 緩やかに吹いた風が、土の匂いを運んでいる。収穫された野菜の、青い香りも。
 その時、脳裏に閃く記憶があった。断片というよりは、もっとはっきりとしたもの。陽が昇る直前の、だだっ広いだけの畑の中、痩せた土地でどうにか作った野菜を籠に入れて、家に向かって歩いていた。樫の木々の間から差し込む光の筋、ぽかりと空に口を開けたような、切り開かれた野原とも言えぬ細やかな空間、子供の頃の私には、あれが何か、自分たちの身を置くための巣であるように思えていた。湿った土を踏みながら、私たちは歩いていた。三人分の、幼い足跡が残っていた。永遠にあのままでいられたら良かった。
 永遠にあのままでいられたら良かった。
 翡翠の瞳が瞬いたその瞬間、だけど私は現実に連れ戻される。もしもこのとき、混乱した私の脳が、先日のラファエルくんの声を思い起こさなければ、私はきっと、彼を正しく、「クロードさん」と呼んだのだろうけど。



「クロード、くん」
 
 

 それか、あの頃に連れ戻されたような感覚を覚えていなければ。
 雲が途切れた。丁度その瞬間、彼の背後を、道しるべのように光が照らした。「ん」と、満足そうに、クロードくんは、笑った。
 私が恋に落ちたとしたら、きっと、この時だったのだ。自覚なんか、ずっとなかったけれどね。


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