05 ラファエルと水



 大樹の節も、丁度半分が終わろうとしている。
 ファーガスと比べて、ガルグ=マクは日差しが随分柔らかい。上半分が弓張状の窓から注がれる光の筋に浮かぶ空気の塵を眺めていると、温かさも相まって、段々眠くなってくる。まるで自分まで一緒に、空中に揺蕩っているみたいな感覚に陥るっていうか。実際そんな風に漂っていられたらどんなに楽だろうとは思うけど、でも、こういう考えは、ちょっと前までの私は持っていなかったな。
 厨房には先輩も料理長もいなかったけれど――市場まで買い出しに出ているのだ――誰もいないとは言え、職場で欠伸をするのはあんまり良くない気がした。危惧した最悪の事態にはならなかったけれど、先日料理当番への指導中に騒ぎを起こしてしまったばかりなわけだし。気を抜けばふわ、と口を開けてしまいそうになるのを、唇を引き結んで耐えた。そうしていると、玄関ホールからのざわめきに紛れて、豪快な足音が食堂に近づいていることに気がつく。 
 あ、来たのかな?
 ぱっと顔をあげたその瞬間、食堂に入ってきたのは、金鹿の学級に所属するラファエルくんだった。



さん、水、持って来たぞぉ。これどこに置けば良いんだ?」

「ありがとうございます。こっちまで持って来てもらってもいいですか?」



 木桶三つ分の水を、厨房の中まで運んでもらう。「ここでいいか?」とラファエルくんが屈んだ瞬間、斜めになった木桶から、数滴の雫が床に落ちた。
 なかなか広い厨房だと思うけれど、制服の上からでも身体をしっかり鍛えていることが分かるラファエルくんが入ると、ちょっとだけ、いつもよりも天井が低く見える。「ありがとう」もう一度お礼を言ったら、ラファエルくんは緩く頷いて、笑った。
 ラファエルくんが持って来てくれたのは、料理にも使う水だ。先の昼食時、大司教の補佐を務めていらっしゃるセテス様が「授業の後、運んでもらうよう生徒に頼んでおいた」と声をかけてくださったから、もしかしたらラファエルくんかな? と思っていたけど、本当にそうだった。彼は生徒さんたちの中でも一際身体が大きくて、大食漢。そして何より気の良い男の子だ。
 木桶を厨房の床に置いたラファエルくんは、すう、って胸いっぱいに空気を吸い込む。そのまま「ああ、やっぱいい匂いがするなあ」って幸せそうな声で呟くものだから、思わず笑ってしまいそうになった。だって、今は昼食の後片付けをしていただけで、料理なんかなんにもしてなかったから。



「なあさん、今日の夕飯はなんだ?」

「ええっと……今日は、ミートパイです」

「おおっ! オデの好物だ! 楽しみだなぁ」

「ふふ、良かった。ところで、お水、ありがとうございました。大変だったでしょう?」



 木桶に入ったこの水は、大聖堂の外にある井戸から汲んできてもらったものだ。
 市場に来た商人から水を買い取ることもあるけれど、この食堂では大抵は井戸からのもので賄うことになっていて、だけどそれが案外手間だった。だって、食堂から大聖堂ってそれなりに距離があるのだ。水の入った木桶を持って何度か往復しなくちゃならないって考えると、億劫にもなる。
 だけどラファエルくんは「大聖堂での信仰の授業のついでだったし、全然大変じゃねえぞ」と自分の厚い胸を拳で叩いた。上衣の胸元あたりを止めている釦が弾け飛びやしないかとヒヤヒヤしたけれど、しっかり縫い止められているらしい。



「オデ、筋肉は人一倍あるからな! また手伝ってほしいことがあったら言ってくれよ。オデの筋肉を頼ってもらえるんなら、いつだって大歓迎だ!」



 人ができている、ってこういうことを言うんだろうな。ラファエルくんの優しさにあてられて、胸がぽかぽかする。彼は平民の出で、騎士を目指しているって聞いた。きっと素敵な騎士様になるんだろう。大勢の民に愛されるような、立派で、精悍な。
 自分と同年代、と言っても、自分よりも二つ三つ若ければ、当たり前なんだけど、私にとっては年下の男の子だ。そういう子のこれから開いていくであろう未来の明るさを思うと、固い皮膚で覆われた奥にある何かが、じんわりと熱を放つような気がする。
 邪気も打算もない顔で破顔する彼に、じゃあ、本当に忙しいときはお願いしてもいいですか、って口にしようとした瞬間だった。「ラファエル」と、聞き覚えのある声が食堂の入り口から響いたのは。
 ラファエルくんの身体越しに、その人を見る。あ、と思う。そうだ、ラファエルくんは金鹿の学級の生徒さんなわけだから、こうして「彼」がラファエルくんを呼びにくるのも、何も不思議なことじゃない。
 


「あれ。どうしたぁ、クロードくん」

「いやいや、どうしたってお前、もう次の授業始まるぞ。帰ってこないから、呼びにきたんだよ」

「おお、もうそんな時間かあ」



 ラファエルくんが級長の横に並ぶのを見送りながら、ほとんど無意識に唇を引き結んだ。
 彼の姿を見て、先日のことを思い出さないわけがなく、そうすると自然と呼吸が浅くなってしまう。理由は全然、わからないんだけど。彼はアネットさんが鍋を爆発させたあの日、本当に食事作りを手伝ってくれた。先に宣言していた通り、料理に慣れた人の手つきではなかったけれど、あの日は時間との勝負だったから、本当に助かったのだ。
 今度改めて、お礼をしなくちゃ。
 そう思っていたけれど、結局何もできていないまま今に至る。せめて、今この瞬間にもう一回お礼を言うべきだろうか。だけどどうしてか言葉が上手く出てこなくて、何も言えなかった。
 二人が食堂を出る瞬間、だけど、彼だけが目線だけでこちらを振り返る。あ、と思ったその瞬間、彼は、その日に焼けた手をひらりと振った。咄嗟に手を振り返すこともできないなんて、私って、ちょっと鈍臭いのかもしれない。
 一人きりになった私は、ラファエルくんが運んでくれた木桶に目を落とす。これ、今のうちに煮沸しておかなくちゃ。分かっているのに、何だか今は、上手く身体が動かせない。


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