02 早朝、シルヴァンと会う



 ファーガス神聖王国は厳しい気候で、大樹の節でもまだ雪がちらつく日もあるくらいだったけれど、ここはきちんと春だ。
 まだ太陽の昇りきっていない早朝のガルグ=マクは、ガラテアと違って、冷たい石の匂いがする。
 日中とは違い人の気配が希薄なこともあって、空気そのものが清澄だ。女神さまのご加護のおかげなのかな。この時間は、どこもかしこも、ぴんと糸が張り詰めたみたいだ。



「あれ、さん? だよな?」



 すっかり浸っていたものだから、名前を呼ばれて思わず「わっ」と飛び跳ねてしまう。抱えていた紙袋を落とさなくて良かった。今し方市場で手に入れた野菜がぎゅうぎゅうに入っていたのだ。



「シ、シルヴァンさん」

「やっぱり。随分早いんだなぁ」



 振り向いた先に居たのは、今年の士官学校の学生さんで、あのゴーティエ家のご子息でいらっしゃる方だ。シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ様。初めて食堂で声をかけられたとき、シルヴァン様、とお呼びしてしまった私に、彼はすぐさま首を振った。「ここにいる間はただの学生だと思って」って。面識なんか勿論ないただの調理師に、片目を閉じて微笑みながら。
 料理長も話していたけれど、実際、士官学校に通う彼らに必要以上に阿る必要はないらしい。「長くやってると分かるけど、それじゃあやっていけないのよ。私たちは別に、彼らに仕えている召使いじゃないしね」だそうだ。わからないでもない。料理長は学生のことを身分に係わらず押し並べて呼び捨てにするけれど、でも、私はやっぱりまだ慣れなくて、さんだのくんだの、敬称をつけて呼ばせてもらっている。
 シルヴァンさんは私の腕から抱えていた荷物を浚うように持ち上げると「食堂までだろ? 手伝うよ」と女性を口説くような口調で微笑んだ。申し訳ないな、という気持ちと、どうしてこんな早朝からこんなところにいるんだろう、という疑問が同じくらいの分量で思考に差し込まれて、ちょっと言葉に詰まった。「ありがとうございます」と返す私に、彼は緩く首を振る。その瞬間、澄んだ空気の中に女の人の匂いがした。私がここに来て、彼らと知り合って、まだ十日。踏み込むようなことは、流石に出来ない。私は別に、彼らの先生じゃないしね。
 二人分の足音が石畳を反響する。両手に抱えていた朝食用の食材がなくなって、すっかり手持ち無沙汰になってしまったけれど、そんな私の心境を読み取るみたいに、シルヴァンさんは会話を繋げてくれた。



「ええと……さんは毎朝こんな時間から?」

「はい。朝は早いですね」

「へぇ、まだ夜も明けきってないじゃないか」

「これくらいじゃないと、皆さんが朝ご飯、食べられなくなっちゃいますからね」

「はは、そりゃそうだ。毎日ありがとうございます」

「どういたしまして」



 ガルグ=マク士官学校で働く調理師の朝は早い。
 早朝、下ごしらえの前に市場に行って、新鮮な野菜や肉、魚を調達する。食材に関しては教団や信徒の方々から提供していただくことも多いとはいえ、それだけで全てが賄えるわけではない。だって学生さんだけでなく、教員や教団の方やセイロス聖騎士団に所属する皆さんの食事を準備しなくてはならないのだ。それも朝、昼、晩の三食分。
 キアラおばさんの言っていた通り、ガルグ=マクの食堂は人手不足にも程があった。貴族様が口にする料理なんて作れるわけがない、って思っていたけれど、彼らだってそんなことは分かっていて入学してきたのだ。献立は料理長が決めるし、私たち下っ端はそれに従って下ごしらえや調理をすればいい。とはいってもどうしても忙しないもので、毎日慌ただしく過ごさせてもらっている。余計なことを考える暇がないっていうか。何だか逃げるみたいに村を出てきてしまったけれど、私にはこれが正しかったのだろう。



「毎朝ってなると……俺には無理そうだ。さんはすごいな」

「いえいえ」



 稼がないといけないので、という言葉は、喉のあたりでどうにか飲み込んだ。
 元々、朝は得意だ。いくらガラテアっていう不作の地だと言っても、畑には早朝から行かなくてはならなかったし、人の妻になるなら、朝のうちに済ませなくてはならないことは多くあったから。やることが畑仕事から買い物に変わっただけ。肌を撫でる風が温くなっただけ、自分の人生が、ちょっと別の道に向かっただけだ。



「……ところで、今日の朝食はなに?」



 食堂の目の前にある釣り池の湖面が、朝陽を受けて煌めいている。地面に落ちる建物の影が薄く青みがかって、そこに足を乗せると、何だか不意に、途轍もなく心細くなった。私、もうすぐ二十歳になるのにね。
 声があまり響かないようにするためか、シルヴァンさんは首を傾げて、柔らかく問う。このまま寝ないで授業を受けるつもりなのかな。勿論そんなこと、直接尋ねはしない。



「お魚ですよ」



 答えになっていないような答えを返す。頭の上の方で彼が笑った気配があったけど、丁度逆光になって、彼がどんな目をしていたのかまでは分からなかった。


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